ふと薫る煙管の匂いに、水木は通勤途中のホームで立ち止まった。
どこかで嗅いだことのあるような……でも、思い出せない独特な香り。
水木がとある村で見つかった時には、全ては終わっていたらしい。生き残りと言われても
なんの事だが分からなかった。
ただ、ふいに蘇るのは赤い桜……血を吸ったかのような赤い赤い桜に、ふと見える着流しのー
そこまで思考が及んだところで水木は頭を振り、顔を顰めた。
何か大事なことを忘れているような、でも思い出してはいけないことのような。
寂寞感は強いのに、何かの意思で塞がれているような。
そんな空白を胸に抱えたまま、髪の色まで抜けたのは相当なショックから来る記憶への拒絶反応でしょう、と医者からは言われていた。
ジリリリとホームに電車が止まり、また新たな乗客達が降りてくる。
水木は思考に沈んでいた意識が浮上した。
こんなことをしている場合ではない、次の取引先に向かわねばーーー。
だが、足は地面に縫い付けられたように止まったまま。
まるで自分の意識とは別の意思が働いているような。
鼻腔を擽る香りに、その元を辿ろうとした自分に驚いてしまう。
だが、元来水木ははっきりとしたものでないのは苦手だ。
妖怪の話とて、死線をさ迷った水木には見えぬもの、知っていたとて、何も得になることも無い話だ。
昭和三十年代の、ようやく敗戦の痛手から回復しつつある現代日本に於いて、妖怪や幽霊などの話をしたものは眉唾物に見られるか、周囲から淘汰されていくだけである。
一介のサラリーマンであるところの水木には、全くといっていい程関わりがない話なのに、まことしやかに囁かれるそう言った話や話題に惹かれるのは何故なのだろう。
生き残ってしまった水木を、死んでしまった彼等が恨んで羨ましがって、水木を誘いこもうとしているから。
だからなのか、水木は不可解な現象に襲われることが増えた、らしい。
らしいという、分からない理解し難い現象は常に水木の周囲にいた。
いた、という表現でさえも烏滸がましい。
なんせ分からないのだ。
ただ、水木が育てている子供はそれらを感知するらしく、不安そうに水木をよく見上げていたが。
そう、煙管の香りはその時に起こる不可解な現象に少し似ていた。
だが、水木にはその理由はついぞ分からぬまま。
欠落した記憶の残滓を抱え、水木は生きていた。
振り向けば、分かるだろうか。
ああ、だが、振り向いてはいけないと警鐘を鳴らす自分もいる。
水木は葛藤し、悩み、振り返りそうになりながらもーーーそのまま歩き出したのだった。
煙管の、何処か懐かしい香りを纏いながら。漂わせながら。
そんな水木を振り返り見ていた、蒼い着流しで銀の髪をした男は一言。
「そう、本来交わってはいけないものだったのじゃ、幽霊族と人間は。
だが、水木よ。お主の掴み取った歩みはしかと見届けているのじゃよ。
水木よ、倅をーーー鬼太郎を、未来を頼むぞ」
小さく独りごちると、泣きそうになりながらも、ふっとそこから姿を消したのだった。
辺りには古めかしい煙管の香りが漂っていたが、それも雑踏に消されて霧散し、消えていったのだった。
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げげの企画
初公開日: 2024年05月19日
最終更新日: 2024年05月19日
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