銀歯が取れた。それは金になると誰かが言った気がする。自分の今までの人生で、そんなことを口にした人間は近くにいただろうか。考えられるのは祖母だ。豪快で酒飲みで煙草をやっていた。短く死にたいが口癖だったが、豪快で人の悪口を表立って唾を飛ばして言うからか、血の繋がりのない私の母には蛇蝎のごとく嫌われていた。少々豪快すぎたかもしれない。法事では真っ先に酒瓶を抱えて、喪服を乱して会場で潰れていたのはいつも祖母だった。子供心には面白い人だったけれど、それも遠距離に暮らしていたからかもしれない。私は何の気なしにそのことを通話で話した。
「歯医者の治療代になるような依頼が欲しいってことか?」
相手は、高校の同級生のオカルト雑誌の編集者である。これがかなり過激なオカルト雑誌で、未解決事件や実際の殺人事件。あるいは本当にまずいと言われる心霊スポットに、安楽死が合法化された国の弱者を送り込んで記事を書かせている。その記事の出所をSNSで叩かれていても、何も気にしないような男だ。高校時代からそうである。自分が世界の中心であるかのような物言いの男だ。社会に揉まれてその気質が弱まっていると少しでも考えた私が浅はかだったのかもしれない。それは期待かもしれなかった。弱者の気持ちを汲み取る優しさを、家族からも見捨てられた私は自然と他人に求めていた。しか
しその電話口の声は淡々としたもので、金稼ぐ気はないかというものだったので、正直その時は落胆した。だがかえって気を遣わなくてもいい存在であるので、この男との通話はいつの間にか私の生活の柱となっている。
「しっかし。病気の方はどうなんだ」
こうして進行具合を尋ねてくれるのは彼だけになった。主治医だと思っていた人も、安楽死を勧めて来るので。
「まあなんとかやれてるよ。どんどん子供の頃の事を忘れていく」
「ふうん? そりゃあ妙だな。だいたい認知症は、脳に根付いた記憶は忘れないらしいけどな。直近の記憶から抜けていくのが普通で」
「…病気に普通もないよ」
思わず声をひそめてしまった。圧迫感のある言葉に、同級生は電話口の向こうでくるりと声音と話題を変える。
「オーケー。オーケー。まあ俺はどこでも行ってくれるならいいんだ」
彼はこういったところは敏い男なのだ。図々しさと傲慢さを兼ね備えているくせに、他人の踏み込んではいけない領域には踏み込まない。他人の心に埋まっている地雷をうまいとこ避けて、それでいて心の奥に毒を届けてくるようなやつなのだ。だから彼の人間としての方向性は嫌いだが、人間一個人としては嫌いになれない。それが彼の処世術であることに気が付いたのは、最近だ。高校生の時から処世術を身に着けているようなやつなのだ。その点だけは素直に感服する。だから私は彼からの依頼を完全に断り切れない。そんな彼がオカルトに興味があるようには思えなかったが、選んで来る場所には間違いは無かった。そこに私が立ち入った時、そこは例外なく人ならざるものがいたのだ。ぶつぶつと呟きながらトンネルの壁にもたれかかり、頭を打ち付けだすもの。怪談によく出て来る赤いワンピースを纏った女。もう人間としての対話は成せないが、天にも上れないまま現世に残っている者が、死期の近い私にはよく見えた。それは病気の進行度を顕しているようでもあり、若年性認知症を患うまでは私は見えたことが無かったのに、今はよく見えた。質量を持った人間と同じようである。
「俺に金がありゃ、海外の心霊スポットでも行ってもらいたいんだがなァ」
「海外? どこの」
「幽霊城。有名なのがあんだよ。それにドラキュラの根城とか」
「ドラキュラはいない。いるのはルーマニアの王だけさ」
「それはまあおいおい。この雑誌がバズったら、な?」
編集者の軽口に、私は眉をひそめる。このペーパーレスの時代に、紙媒体など残るのだろうかと懐疑的だからだ。みなネットで電子の海にある書籍を好むのではないか、そんな疑問が浮かんだのを見越したかのように編集者は続ける。
「オカルト雑誌がバズらねえと思ってるんだろ?」
「それは、そう」
「あのなー。本物の呪いってのは、電子の海じゃうじゃうじゃあるんだぜ? だから紙媒体にして薄めてんだよ。お前だって、ネガティブな書き込み見たら、ネガティブな気分になるだろ」
「それは多少は」
「それが太古の昔から日本人が信仰してきた言霊ってやつよ。ただの文字の羅列なら、気分まで引きずられる必要はない」
「でも。文字の羅列でも想像するからじゃないのか。その文字を打った人間とか、その言葉に至った経緯とか」
「そこを考えちまうのが、まあ言霊のパワーってやつよ?」
編集者の物言いが段々と強引になってきたので、私は頭の中で会話の終わりの糸口を探していた。想像力を言霊のせいにするのなら、この世は言霊の力で満ちている。もっと目に見える形で、私たちの生活を脅かすだろう。だが言霊一つで大規模火災や交通事故が起きるとは到底考えられない。強盗や空き巣など、人間が起こす犯罪がネガティブなパワーに引きずられて行われるのなら、この世はとっくの昔に言葉狩りが行われているはずだ。
「まあ信じてないならいーわ。それよりさ、今度の心霊スポットの件。うちのオフィスに来てくれよ」
「は?」
「話そうぜ。せっかくだから対面で」
唐突な申し出に、私は表情筋が怪訝な形になるのを自覚した。最初のカフェでの打ち合わせを除いて、今までさんざん金のやり取りも、依頼もすべて電話一本で済ませて来たのに、ここに来てどうして会おうというのだろう。もう五件ほどこの男の依頼を受けているが、こんなやり取りは初めてだ。だが私に拒否権は無いのだ。
「いいよ」
「決まりだ。◇月×日。16時に尋ねてきてくれ。俺の名前は忘れてないよな?」
「厚真。あつまじろうだろ。自己紹介の時に、赤川次郎と同じ文字だって言った」
「よしよし。忘れんなよ」
それだけ言うと会話は終わった。あと三日後である。若年性認知症の己には難病指定などの支給が得られない。それどころか認知症になることが恥と思われている世論から、本当は難病指定の中に入っているというがその文字のフォントはかなり小さいものになっているという。新入社員の時に保険会社の販売員に頼み込まれて入った保険が医療保険で、おまけに若年性認知症でも支給がされる設定にしていた。それでも、申請をした時は保険会社にかなり粘られ、渋られたけれど。認知症じゃ世間体が悪いんですよね、まあうちの会社長いので昔の設定をそのままにしてるんですよと、病人である自分に対してかなりの嫌味も言われた。実家にも戻れないので、安アパートで保険金と失業手当と、この同級生の善意でなんとか暮らしている。三日後の事を覚えていられるか心配だったので、壁掛けカレンダーに赤ペンで書きこんでおく。壁掛けなので文字のブレはご愛敬だ。そういえば、実家の母は掛けられたままのカレンダーに綺麗な文字を書くのが上手だった。母親曰く、座って手帳に書く間に忘れるからという。身に付いた些細な技術が、今になって家族と離れ離れになったことを身に迫らせて何故だか私は泣いていた。だがすぐに涙は止まる。認知症だから、こんな辛い感情も忘れてしまえばいいのに。そんな事を考えながらも夕暮れの中でカーテンを引き、電灯のひもを引いた。
「よく来たな」
尋ねた出版社のオフィスは、エレベーターを降りると厚真以外は誰もいないかのように静かだった。編集者が全員出払っていることなどあり得るのだろうか。出版業界の知見はまったくないが、水を売ったようなこの静けさは異常である。エレベーターを降りると、出迎えるように厚真がいた。無精ひげがあるが、短い天然パーマの黒髪に笑うと狐のように細くなる目。人を食ったかのような表情が苦手だと彼から距離を置いていった同級生は、優しい心根の子が多かったように思う。厚真に案内され、社員証を壁にある機械にかざすと、自動的に扉が開き私は中に招かれる。その途端に、私は圧倒的な質量の多さに眩暈がした。人酔いが近い。突然朝の満員電車が目の前に現れて、さあ乗れと言われているかのような。胸をいっぱいにする圧迫感だ。だがオフィスには誰もいない。いるのは厚真と、私だけ。そして私は目の前を歩く厚真の背に、黒や白い手がべたべたと現れては背を触り、触っては消え、また現れて触っては消えていくのを見て絶句した。かわるがわるに人ならざるものが、戻って来た厚真を歓迎するように背を叩いている? そう見えた時、厚真が振り返った。嘔吐感に思わず私は口を押えている。厚真は気にもしないようで、編集社の隅にあるテーブルを指示した。
「コーヒーでいいか? 先座って待ってろよ」
「…」
私は絶句したまま答えられなかったが、思わず首を縦に振った。それだけ確認すると厚真は満足したようにコーヒーメーカーの方へと歩いていく。その間にも厚真の背中は、青いストライプが走ったシャツに黒い手や顔らしきものが付きまとっていた。あれは良くない物だ。心霊スポットで見たようなものと違い、恨み節を感じない。だが何故か良くない物だと頭の中で警鐘が鳴っている。そのうち、コーヒー片手に厚真は戻ってきた。
「安物で悪いな。それでよお、今度の心霊スポットなんだが」
「うん」
コーヒーに口を付ければ落ち着くだろうと考え、私は奪うようにカップを手に取り、黒い液体を一心に見つめながらごくごくと飲みだした。その間に厚真の顔は見られないでいると、向こうから切り出して来る。
「見えてるんだろ? その。俺につきまとってるの」
「…え? うん」
私は素直に頷いていた。顔を上げた厚真の周りには、黒いものと白いものが肩に手を乗せたり、こちらを覗き込むようにじっと見つめて来る。だが不思議なことに、心霊スポットで見えるものは人間らしい肌が多少なりとも見えるのに、厚真につきまとうのは全て真っ黒か真っ白なのだ。おそらくだが、彼らはとうに肉体を捨てている。おそらくもう人間でないことを自覚している。心霊スポットにいるものは、死を自覚していないか死を認めていないようだったのに、厚真の周囲は死の塊ではないものに充ちていた。死を受け入れてなお、厚真の横にいるかのようである。
「多分だけどな。俺が記事書くよう勧めたやつらなのよ」
つまりは、私と同じような。鉄砲玉のようなライターとして使い捨てた人達が、寿命を迎え、それで厚真の元に。え? なんで? なんで厚真の元に?
「寂しかったんだろうなあ。そこに俺が救いなんか与えちまったから…もう無縁仏らしいんだけどよ。中には家族もいてちゃんと愛されて葬式も終わったってのに、俺に付きまとってる人もいるんだって? 俺は見えないけど、霊能者がそう言ってた」
はにかむような厚真に、うんうんと黒白のものたちは頷く。それでは厚真に害をなすような悪霊ではない。それなのに、私は。私は先ほどから悪寒も鳥肌も収まらなくて、この黒白のものたちが怖い。本能的に、それが断崖絶壁に繋がる道だと気が付いたかのような。ぞっとする浮遊感が足元をぐるぐる巡って消えない。
「悪い奴らじゃあないんだよ。でもな。俺のシュゴレイってえの? いなくなちまってるみたいでな」
怖い。
「でも俺は健康診断はめっちゃケンコウでな? どんなにドカ食いしても酒浴びるほど飲んでも、翌朝ケロッとしちまう。…こいつらが、吸い取ってるみたいにな」
怖い。
「それで今のところ何やっても病気とは無縁なんだけどよ…」
怖い。
「お前、神って信じるか?」
唐突な厚真の言葉に、私はお守りを全て捨てた日を思い出したが、神社を通りがかった時に見た圧倒的な光のかたまりのようなものを思い出した。あれが神なのだと本能的に知った。だから頷いた。
「神様はさあ、俺が死ぬ運命だったのをねじまげてるんだとしたらさぁ…俺がチート技使って、今まで健康だったんだとしたらさあ」
そうだ。怖い。だってこの黒白たちは。
「俺がずるしたって見なされて、俺突然死ぬんじゃね…?」
善意で厚真を守っているのに、濃い死の気配に包み込んでいるのを隠そうともしていないから。死神を見たことは無いが、もしいるのなら。厚真を守護するもの達を出し抜く為に、突拍子もない死をもたらすのかもしれない。それは短い間に同じ空間を共にした私にも分かった。これは良くない事だ。だが厚真には、振り払うことが出来ないものだ。どうして? 高校生の時の厚真なら笑って振り払っていて、いや。そういう事が出来ないから小心者の癖にと陰口をたたかれていたんだ、この同級生は。それを今更思い出して呆然としている私に、厚真は目の前にUSBを取り出して置いた。
「これなに」
「ああこれ? ヤバイ心霊スポットの一覧とか、霊能者の連絡先に。俺が過去に抱えて来たライターの個人情報」
「そんなもの、託す気か」
「まあ後輩にも託してあるがな。…見たら分かるだろ。リモート出社にしてんだよ、みんな。俺が出勤する日はな」
厚真の言い方には含みがあったが、この黒白のものが厚真を傷つけるものを害する可能性を十分に孕んでいた。だから誰も彼と顔を合わせないようにしているのだろう。
「もう死にますから―って言ってんだけどな!」
「笑えないよ…」
「仕事は後任のやつが引き継ぐよ。それにこういう記事は好評なんだ。みんな下世話な事を考えるだろ? 死ぬ人間の書く記事はどういうのか、そういう下世話な好奇心も含まれてるんだよ。うちの売り上げは」
「そうだとは思ってた。でも」
「それが貢献して嬉しいんだろ?」
厚真は思ったことをずけずけと言う。まるでそれが悪い言葉であろうとも、毒を心に届けて来る。今はまるで憎まれ口をたたいて幻滅させるかのように、まるで黒白のものを引き剥がすようにと精いっぱい努めているかのようで、私は俯いた。
「ごめん」
私は見えて聞こえるだけだ。除霊などしてやれない。
「いいって。の代わり、後任にも似たような感じで接してやってくれや。まあ仕事が出来る奴だよ」
「帰るよ」
私はそう言うのが精いっぱいだった。USBメモリをひったくるように鞄に入れて、厚真の顔を見ないようにして、立って歩き出すと後ろから厚真が付いてくる足音がする。
「見送り、大丈夫だから」
そう言うのが精いっぱいだ。黒白のものが、お前のような馬の骨に私たちの情報を掴ませるなんてと怒っているのだ。厚真は明日にでも死んでしまうのかもしれない。圧迫感のある地獄へと続く善意の塊に、それを気にしないように振舞う厚真は、いろんな業を背負って死ぬキリストのように見えた。その業の欠片を私は掴まされている。高校の時の同級生というだけで。あるいは、厚真は私の秘密に気が付いて? そう思って途端に振り返ると、厚真は数歩離れたところで笑っていた。その周囲にある黒と白に目を合わせないようにして、私は尋ねる。
「厚真、何か知ってる?」
「んー? まあ。編集者だからな」
ちん、とエレベーターが到着した音が背後で聞こえる。私はいよいよ足元が冷えていって、血の気がざあっと引いていった。
「いろいろと気付くことはあるさ。ま、気負いなさんな」
厚真が私の肩を軽く叩いた。その感触が最後に厚真が遺してくれるものなんだろうと思ったが、私の肩は血の気が引いていて振動が伝わっただけで終わるのだった。
「歯医者代が欲しいです」
そう私は後任の編集者に言った。彼は一呼吸おいて、分かりましたと機械的に答える。銀歯はまだ取れたままだ。子供の時の手術の跡だから、あの時は家族が出してくれた。今は自分の歯は自分で治す。それがなんだか夕暮れの中では悲しかった