気持ちが良かった。厳しい声音の中に窺える優しい声を聞いた時に。日に焼けた手のごつごつとした触りに。酒の少々香るくちが、髭の下でもごもごと動くのを見た時に。戦場の張り詰めた気が神経に障って眩暈がする。その眩暈に飲み込まれた神経が、夢のかけらを集めたかのような曖昧な記憶のつぎはぎの中で何かを見る。あり得ない幻覚が肌に迫って、現実との間が曖昧だ。現実は熱くも冷たくもないぬるい。肌に纏わりつく感覚は、血を流すよりも明白な痛みを伴っているのに、記憶として探ろうとするとぼんやりと焦点が合わなかった。その中で生み出した幻影だろうと考えることにした。夜になると体にやって来る重みに耐えきれない日はあっただろうが、数えるのはやめた。次の日も同じように平然とした顔で指揮所に立つ。その時に横に立ってくれている体温だけは覚えている。この頼りない指揮官を、実戦経験のある古兵は同じように平然とした顔で支えている。その顔を見ながら、サタケは疲労が溜まったのを隠さずにいて、くらりと足元が浮いたのを感じた。
「おっと」
プラムマンがサタケを咄嗟に抱きかかえる。背中を狙うかのように抱き着いた形になった。長身を抱きとめる筋肉の存在を服越しに感じながら、体温のせいか弱音がぼろぼろと口からこぼれ落ちて来る。
「今日は離れないで欲しい」
「…それは、一晩のお約束で?」
弱音を吐いてしまうと、指もか
らだも何もかもがプラムマンにもたれかかる。全体重と全精神を預けて、そうだと言いたげに指先に力を込めた。プラムマンは何の抵抗もせずにサタケを受け止め、小さく呟いた。
「一晩で済めばいいが」
「…きっと、落ち着けば君も私も忘れる」
弱音をこぼしたのは、あくまでもこのひと時の流れの為だ。その儚さを伝えたくて、でも縋りつく弱さと狡さを隠せずにもう一度サタケは体の力を抜いた。一般的な四十五という年齢には思えない程の質量のプラムマンの肉体は安心感がある。その安心感はこころにも通じている。精神的に安定している確固たる差だ。自分には無いものに、サタケは縋りついている。プラムマンの視線はあくまで優しかった。どこか遠くから見つめているかのような慈愛だ。その慈愛の前に膝を付いて、ああ神よ。居もしない精神的な象徴である神よ。一晩の安寧を与えたまえ。
「安寧は得られましたか」
最終決戦のハワイに辿り着く前に、サタケの最後の弱気が顔を出したのを見越したかのようにプラムマンは部屋にやって来た。サタケは苦笑する。
「君には隠し事が出来ないな」
「ルテナント・アオが無事であればいいのですが」
「今は信じる事しか出来ないだろうな」
サタケは自嘲するように呟く。愛弟子が世界の命運を背負い、謎の少女と共に自立型ロボットと共に戦闘に向かった。その背を見送った後で出て来た弱気である。一抹の不安が消え失せずに膨らむ夜もあるだろう。軍服よりも簡素な格好で尋ねて来たプラムマンを迎え入れて、サタケはベッドに腰掛けていた。つらつらと言葉が出て来るかと思ったが、今日の弱気はあまり言葉を発せないでいる。そのためかプラムマンから話し出した。
「一晩で済めばいいと前にお伝えしましたな」
「そうだな。きっと済む話だと思った」
「…ということは、少しは一縷の望みがあると?」
プラムマンがほほえみを浮かべたのを見ながら、サタケは目線を逸らす。
「あまりこういう感情には自信がないな」
「奥ゆかしい事をおっしゃる」
「君に頼るしかなかったから、その時点で気の迷いだったかもしれないと」
そう考えている、とサタケが言おうとした時だった。プラムマンが近付いて来たと思うと、肩を掴まれてそのまま引き倒される。乗られたら逃げられないのが分かっていながら、相手の肩を掴んではみるものの、それ以上に力が入らない。グレーの瞳が陰になっていても光をはらんで輝いているように見える。その瞳に射抜かれてしまうと動けないのは分かっている。
「自身の心が見えていないのであれば、抵抗してください」
「したいよ」
サタケは唇を軽く噛む。抵抗出来る筈である。物理的には可能であるはずなのに、体が動かない。肩を掴んだ手の熱が伝わってきて、逃げられないのを悟る。顔が近付いてきて口づけを受け入れた。その際に口ひげが微かに触れて唇がぞくりとする。その口が首に下りて肌に吸い付いて来た。動物で考えれば急所である場所だ。薄い皮膚に太い血管が通って頭脳と体をつなぐ細い首はか弱く、その急所を押えられて下手に動けないというのは表向きの理由で、薄い肌に音を立てて口づけられてしまうと力が抜ける。抵抗してください。先程のプラムマンのセリフが頭に浮かんだ。だがサタケの手は肩の骨をぐっと掴むばかりで、押せないでいた。プラムマンの手がシャツの下を潜って胸部に向かう。口も続くように動いた。ここまで来てしまうと、情けないまでに愛情表現を受ける体がこころよりも素直だ。
「だめだ」
「日本語では分からん」
思わず母国語で口を滑らせてしまったようだ。無情なプラムマンの言葉にもう一度唇を噛んだ。指が胸筋をなぞっていく。急所のある胸部も他人に預けるのは難しい場所だ。何も言わなくなったサタケに、突然唇と指が引っ込んだ。解放されたと思う反面、もう一つの感情が動いているのを自覚する。
「…君は狡い男だ」
「一晩だけと縋って来た貴方よりは、正直に生きているつもりだが」
プラムマンが自分の後ろから退こうとするのを、サタケの掴んだままの手が止めている。その手を自分でも離したいと思うも、意思を持った手は石のように動かない。
「…考えさせてくれるのか」
「無理矢理手に入れても仕方ない」
「さっきは無理矢理だと思ったんだが」
そう口でのたまうも、実は気持ちが良かった。まるで傷跡をお互い舐めるかのように。