祖父が死んで手続きも落ち着き、元より認知症の進んでいた祖母も施設に入所することができた。
人見知りの激しい私にとっては、「欲しい本があるなら持っていけ」という程度の遺品整理も、そのぐらい落ち着いた環境が必要だった。
祖父母が人生の大半を過ごした団地は、今でも高級マンションがたびたび新築され、世帯数は相当ある方だ。母が育った幼稚園と小学校も共に健在らしく、今のご時世の「実家」としてはそこそこ栄えている。
母はこの生家について、ことあるごとに「隙間風が寒かった」と言っていた。その通り、築五十年を数える四階建ての建物にはエレベータもなく、牛乳入れの存在が往時をしのばせる。祖父母の本棚はいずれも横や縦の隙間に本といっしょに土埃が詰まっており、概観するだけでもかなりの手間を要した。
私が『キャッチフレーズの戦後史』を発見したのは、そうした本棚の、さらに上に積まれた本とブックエンドのみで作られた頼りない棚の、二段目辺りだっただろうか。
思わず、別の部屋を掃除していた母を呼んで言った。
「これ、こないだ買った本じゃん」
母は結構な奇人で、家族全員の本や同人誌の蔵書目録を作っている。
「先にもらっておけばよかった」
などと、ひとしきり笑った。
他にいくつか、いくつか「最近」の本の『ダブり』を見つけた。
ここ十年ほど祖父とはほとんど交流しなかったが、選書がいくらか一致していたことになる。互いのミーハー趣味、そもそもすぐれた本の力もあるだろうが、それなりに感慨深い。
母が私を生家に呼んだ主な理由である、『ベリー公のいとも豪華なる時禱書』のカラーコピーは、一般に販売されていないもので、たいへんすばらしいものだった。どうも、祖父が最後まで親交のあった文学部フランス文学科に由来するもののようで、ありがたくいただいた。
祖父は戦時中に少年時代を過ごし、兄を含む数人のきょうだいを亡くした。
戦後に浪人して大学を受験、在学中に出会った祖母とまもなく結婚する。「美男美女のカップル」とうたわれたらしく、本人も私の母である娘に「美人だったから結婚したんだ」と冗談交じりに言っていたらしい。
価値観は、この世代の男性としては標準的なマッチョイストと言える。未だ存命の配偶者と娘二人には、生涯にわたって決してよくはない接し方をしていた。
象徴的なのは、私が成人したころの発言である。
「子供のころは背が伸びて、『これでは嫁の貰い手がない』と思っていたが、ほどほどに落ち着いてよかった」
と述べた。
私は結婚することをまったく考えていなかったので、特に傷付かなかったし、同情にはあたらない。しかし、その価値観はおそらく、その場で祖父をいさめた母の影響もある。
母からしてみれば、私の身長は子供に対する無念のうちの一つである。11歳から患った摂食障害や不眠の悪影響があることは、かなり高身長の父母と照らしておそらく間違いがない。とはいっても、日常生活で大幅な不利益をこうむったり、人込みで目立ったりするほどではない。
祖父が「欲しい本があるなら持っていけ」と私に初めて言ったのは、それと同じ日だった。
私が大学でヨーロッパに関する研究をしていると聞いていたからだろう。私の方も母を通して漠然と祖父の専門を知っていたが、対面ではその日初めて「大学でフランス文学をやっていた」と聞かされた。
祖父は、だいたいこんなことを言った。
「娘二人は、まったく違う道に進んだ。孫が同じ分野に行って、はじめての後継ぎを得た気分だ」
実際のところ、私の専門はヨーロッパ古代史や文学で、『ランスロ』など中世フランス文学とはやや異なる。
それでも興味がある分野ではあったし、祖父の葛藤を色々と想像できたので、古い名著を中心としていくらかの本をもらっていった。
祖父の生前に、『キャッチフレーズの戦後史』は目に入らなかった。
このエピソードは、私にとって思い出深いものではあるが、祖父の問題のある物の見方を色々と思い出させてくれる。
まず、私には弟がいる。これは祖父にとっては唯一の男性卑属だ。
もしも弟が歴史や欧州文学を学んでいたら、私にあのような言葉はかけなかっただろうな、と意地悪な性根で想定することがある。弟は先天的に重い知的障害を持っていて、おそらく祖父はそれなりの葛藤の末に、ある種の期待を持たないことにしたのだろう。弟の学問分野について、ひょっとしたら争うようなことがあったかもしれないと思うと、物事が安楽に進んでよかったと思う部分もある。
祖父のパーソナリティは、他の全ての人と同様に複雑だ。
人生の大半を、某新聞の記者として生きた。『キャッチフレーズの戦後史』に限らず、ことばや日本史に関する勉強の形跡が本棚のそこかしこに見られる。これは、大学での専門分野と照らし合わせると「後付け」の教養であろう。
妻である配偶者は、イギリスの古典演劇を専門としていた。こちらも読書家で、地域でより精力的に活動し、図書館誘致運動に部分的に成功した。進歩的な価値観の生家で育ったぶん、結婚生活には思うところもあったようで、フェミニズム関連の書籍や娘への手紙に人柄があらわれている。
娘の経歴は、そうして見るとたしかに母親に似ている。うち一人は司書系の公務員に、もう一人も図書館関係者で知らぬ者はない企業で勤め上げた。
浅学な私から見ると、一家総出で知的で活動的な人々である。
図書館学が、「他に専門と言えるものを持つように」と指導されるような、複雑な立ち位置にあるものだったからだろうか。
地域での活動に参加できず、典型的な「仕事に集中した」人間として、家族と齟齬があったからだろうか。
いずれでもないが、人生にある種の諦めを感じて、私で「妥協」することにしたのだろうかと、考えてしまう。
私から見て伯母にあたる、祖父の第一子には子供がない。私の母も相当に奇人だが、こちらも激しい人だったらしい。妹である母から見て、「ただでさえ体が大きいのに、口喧嘩でも勝てない」と思わせたらしい。
伯母は祖父ともよく口喧嘩をしていたらしいが、私が関知する限り、つまり正月の集まり程度では険悪と言えるほどの空気は感じなかった。成人まもなくして無断で世帯を分け、独立していったことが良い方向に働いたのかもしれない。
祖父の価値観は、どう見ても世代相応の家父長制的なものだった。反面で健康な男児を持てず、家族の女性はそこそこに破天荒な人物である。
勤め先での人間関係は、自慢話を客観的に判断できる材料が少なくなかなか判断できない。自分が関わった記事をいくつか紹介してくれた反面、顕名のものはそう多くなかったので、満足のいく名声を得られていたかは判然としない。
フランス文学科の人々とは、先述したとおり長く交流があった。自身の、けして典型的な家長ではなかった人生を受け入れる上で、プラスの影響があればよかったと思う。
私は、鬱になったころからたまに会う親戚には「です・ます」調で話すようになった。というよりも、話し方に迷って、以前にも増して寡黙だったように思う。
それより前、小学校に行くかどうかの時期は、祖父から何回か遊んでもらった記憶がある。年齢もあるだろうが、祖父のその他の人柄から考えられるほど、とりたてて性差のある扱いを受けた覚えはない。特に印象深いのが花札の基本的なルールを教わったことで、ここ以外となると習得はずいぶん遅くなっただろうと感じる。人数がいれば麻雀も教われたかもしれないが、そういうわけで今も打てないままだ。
祖父は、配偶者にずいぶん失礼な人だった。私もおそらく、多くやり取りをしていればしているほど嫌いになっただろう。
ここ十年の選書がいくつか一致していたことは、たしかに感慨深い。しかし、感想や注目していた部分まで一致していたとは限らない。そうだったとしても、表現する方法はずいぶん違うだろうから、どの段階でも話が合ったとは考えづらい。
彼の家族は、ずいぶん苦労が多かった。このぐらいの関わりで祖父を見つめることができたことに、しみじみと幸運を感じる。
祖父母宅に『新潮日本文学全集』があることは、以前から知っていた。最新の文壇にある人間として瀬戸内「晴美」が紹介されていて、なかなか趣深い。三島由紀夫が自殺する前後の年代をまたいで出たもので、当時の空気やいかばかりだっただろうかと考えてしまう。
何度目かの財産整理でもらってしまうことにしたのだが、その時になって全集に中島敦が含まれていないことに気付いた。
当時の評価や、本の厚みなどの観点から省かれたのだろうか。幸田露伴を除いて幸田文を取り上げているなど、当時の目線で新進気鋭の作家を集めていたようだ。『山月記』を必ず習うような世代としては、それでも不思議な気持ちになる。
祖父も、どこかのタイミングで「せっかくだから」と思ったのかもしれない。
本棚の例の『追加部分』に、ちくま文庫の中島敦全集3冊が刺さっていた。奥付を見ると1993年で、時期としてはずいぶん離れている。二人目の娘も結婚し、人心地付いた時期だろうか。
出版社も装丁も全集の趣旨も異なるが、同じ種類の蔵書としてもらっておくことにした。