松林を抜けると、一気に視界が広がった。吹き抜ける風がどことなく、どこがどうとは言えないがルルノイエとは違う匂いがする。これが潮風というものかと、シードの鼓動が早くなる。
「もうすぐだよな!」
愛馬の背に揺られ、シードはよく通る声を張り上げた。この坂を登りきると、その先には見たことのない風景が広がっている。
「そのはずだ」
シードは海を見たことがない。生まれた町は海から遠く、長じて軍に入ってからも海とは縁遠かった。ハイランドの西は海に面しているが、そちら方面は海軍の管轄ゆえにシードがこれまで派遣されることはなかったのだ。
少しまとまった休みが二人揃って取れたので、一度は見てみたいと思っていた海へ行くのはどうかと持ちかけたのは、だからシードの方だった。最初は渋い顔をしていたクルガンも、しつこく食い下がられてとうとう了承し、その1時間後には二人は馬上の人となった。途中の村で一泊し、そして二日目の今日の午後になってようやく目的地に辿り着いたのだ。
ゆっくりと馬を歩かせて坂を登りきる。目の前に、真っ白い砂浜とどこまでも続く青い海が広がっていた。
「……でけぇ」
呆然とシードが呟く。本でしか読んだことのなかった波の音というものが絶えまなく聞こえ、『寄せては返す波』という言葉の意味を、シードは今初めて実感として理解した。
「行くぜ、クルガン!」
言うが早いかシードは馬に拍車をかけて、最初の一歩で駆け足を出し一気に坂を下っていく。何が大声で叫んでいるようだが、クルガンの耳にははっきりとは聞こえない。それでクルガンも手綱を握り直し、馬の腹を蹴ってその後を追った。
波打ち際まで馬を進めたシードは、バシャバシャと波を蹴立てて砂浜を行ったり来たりしながらけらけらと笑っている。
「すげぇな、クルガン! 俺の実家の近くにも結構でかい池があったし、ルルノイエ郊外の森には湖もあるけど、全然違うな! 向こう岸が全然見えないし、波が止まらねぇ!」
「向こう岸など見えるものか」
シードのはしゃぎっぷりを目を細めて眺めながら、クルガンは静かに馬から降りた。
「あ、俺も! 俺も降りる!」
勢いよく下馬したシードはその場でブーツを脱ぎ捨てズボンの裾を捲り、ザブザブと海の中へと入っていく。
「待て、深さもよくわからないのに……」
「あれ?」
クルガンが言い終わらないうちに、突然シードがとぷん、と波に消えた。刹那、状況を把握するのが遅れた。波に呑まれたのだと理解すると、クルガンは猛然と砂を蹴立てて走り出した。
「シード!!!!!」
しかし慣れない砂に足を取られてなかなか前に進めない。しかも海に入れば寄せる波と返す波に翻弄されて、思うようにまっすぐ立つことも難しい。それでも強引にシードが立っていた辺りに近づこうと足掻いていると、人の背丈の2倍ほど離れたところから、ブハーッとシードが波の上に顔を出した。
「なんだこれ。うっはっはっは!」
シードは頭からびしょ濡れで、髪に引っかかった海草か何かのゴミを指でつまんで腹を抱えて笑っている。クルガンは何かひとこと言ってやろうと口を開き、しかしげらげら笑うシードを見て怒る気が失せた。
「なんか普通に歩いてたら、急にガクッと深くなってよ。そんでジタバタして気がついたらここに立ってたんだ」
涙か海水かわからぬものを目尻から拭い、まだ噴きだしそうに口元を歪めながらシードが言う。どうやら歩いているうちに深みに足を取られ、波に流されたようだ。
「だから待てと言ったのだ」
「いやぁ、びっくりしたぜ。まさか俺が溺れかけるとは。しかもさっきまでいたところから離れてるし」
海にこそ縁はなかったが、シードは子供のころから川遊びをよくしたので泳ぎは達者で自信がある。その自分が溺れるなど夢にも思わなかったのだろう。
「あれ、クルガン。なんでおまえも濡れてんだ?」
無邪気な顔で尋ねられて、クルガンは答えに窮する。おまえが心配で飛び込んだのだと、言えば余計シードを楽しませてしまいそうで面白くない。
「水着を忘れたのでな」
「……へぇ?」
ニヤリと口元を綻ばせて、シードがクルガンの顔を下から見上げる。
「なんだ」
「いや、別に……!」
言って、やにわにシードは両手の平に海水をすくってクルガンにバッと浴びせる。
「こら、貴様何をする」
「せっかく海に来たんだ、楽しまなきゃ損だぜ!」
シードは一旦砂浜まで走っていくと、手早く服を脱いで下着だけになり、近くにあった岩の一番上まで登るとためらいもなく海に飛び込んだ。飛沫が派手に上がり、クルガンの頭上から降り注ぐ。
自分は海に入るつもりはなく、シードに見せるだけのつもりだったクルガンだったが、ことここに至ってはもうしょうことない。皮のブーツも水に濡れて、恐らくは乾いても使い物にはなるまい。そう思うとただ波に突っ立っているのが馬鹿らしくなり、濡れて重くて不自由なブーツを脱ぎ捨てて砂浜に放り、上着とズボンも脱いで抜き手を切って泳ぎ出した。
「お、やるじゃん! じゃあ、勝負だ! あっちに見えてる岩場まで先に着いた方の勝ち!」
勝負、と言われてはクルガンも無視はできない。勝ち負けにこだわるのは、将軍の職業病のようなものだ。普段なら『くだらん』と切って捨てるところだが、考えるより先にクルガンの体が動く。
誰もいない海辺で、知将と猛将の全力の競泳が始まった。
結局、勝負がつかずに少しずつ距離を伸ばして、二人は5本ほど泳いだ。さすがに疲れ果てて熱い砂の上に並んで仰向けになるころには、真夏の太陽のおかげで服もすっかり乾いていた。はぁはぁと荒い息で、何か川より疲れるなとシードが言えば、波があるから当然だとクルガンが答える。
「じゃあ演習をこのあたりでやって、兵を泳がせたら鍛錬になっていいんじゃねぇか」
「そういう手もあるな」
「おまえならすぐ思いつきそうなのに、なんで今までなかったんだ?」
「俺もまさか、海で泳ぐことがこんなに疲れるとは思わなかった」
「ふーん。てことはおまえ」
「なんだ」
「さては、おまえも海は初めてだったな?」
「さぁ、どうだったかな」
クルガンは答えなかったが、シードはそれ以上追求しなかった。しかし乾いた服は白く塩が噴いてバリバリで、髪も体もべとべとするし、井戸を見つけて頭から真水を被るまでは気持ち悪くて大変だったので、それを予見できなかったクルガンもやはり海は初めてだったのだと図らずも証明してしまった。
実はおまえも俺と一緒ではしゃいでたんじゃねぇのとシードが笑うと、そんなわけがあるかとクルガンが仏頂面で答える。しかしその3秒後にはシードが噴き出し、クルガンも眉を下げて苦笑する。
夏の休暇中の、ある日のこと。シードとクルガンは初めて海を見て、海で泳いだ。