|泥濘んだ地面を歩くような心地だった。握り潰され続ける心臓は、絶えず氷針を血液の中へ送り出し続けている。腕、手、指先、腹、足、足先。胸、首、顔、頭。氷針が流れ込む度、内腑が氷塊に抉られ、縮み上がった筋肉が潰されてしまう錯覚。
吸い込んだ息が喉を焼き、膨れた喉の粘膜が空気を拒む。固く凝った酸素が肺に到達した頃には、冷え切った肺がぎしぎしと軋んだ音を立てる。
|戦慄く口が、厭に質量のある吐息を吐き出した。
胸の皮膚を打ち破るような鼓動。耳元で鳴り響く其れは酷く耳障り。早鐘を打ち続ける心音が、逃れようと塞いだ両の手の平に反響して、膨張する。
胸の奥から迫り上がる塊が喉を押し開こうとするけれど、引き結んだ唇の奥。重く固まった空気を飲み下して、腹の底へと引きずり落とした。
◆ ◇ ◆
忙しなく行き交う足音。軽やかな足取りで部屋の中を行ったり来たり。
両手に抱えた洗濯物。飾りの多い|襯衣と室内で着用する衣服を仕分け、床に広げた其れ等を手際よく畳んでいく。皺にならないように広げて置かれた|襯衣の傍らでは、懸命に熱を溜め込む|火熨斗が活躍の場を今か今かと待ち望んでいる。
「今夜の飯は何にしようかなぁ」
鼻歌まじりに衣服を畳む白い背中。丸まった背中の所為か、酷く小さく見える。
「久しぶりだしなぁ。あ、お前は何食べたい?」
肩越しに僅かに此方に傾けられた顔。然し、其の|表情は、一房の長い横髪に隠れて窺い知れない。
「なにか食べたい物ないか? 僕に作れるものなら作るけど。あ、其れ共外食がいいか? でも僕お金ないしなぁ」
返答を待たず、矢継ぎ早に進む言葉の群れ。
休まず次々と小さく折り畳まれていく衣類や布。着用する部位毎に分けられた衣類の低い柱が、幾つも白い背中を囲んでいる。
「あ、お茶でも淹れようか? お前さっき帰ってきたばっかりだし、疲れてるんじゃないか? どうせ任務続きで飯だってまともに食べてなかったんだろ? あ、でも中也さんと一緒だったなら、誘って貰ってたりするのかな」
十分に温まった|火熨斗を真っ白な|襯衣押し当て、不機嫌そうに刻まれた白い皺を伸ばしていく。
「ああそうだ。この間銀ちゃんがお前が好きそうだってお茶の葉を買ってきてくれてたんだ。其れ、淹れようか。最近僕も少しはお茶の淹れ方分かってきたんだ。一昨日とか――」
不意に。途切れる。
数瞬。行き場を失った言葉の切れ端を掴み倦ねるように、唇の上をから回った空気の摩擦が、微かに聞こえた。
「一昨日、とか……春野さんに……上手いって褒められた、し」
押し出された――絞り出された言葉の先は、あまりにも平凡な日常の欠片。他愛ない、いっそ武装探偵社という物々しい社名にはそぐわないほどに、あまりにも取るに足らない、安穏とした会話。
ひくりと微弱に震えた丸い背中。|襯衣を抑えていた手が握り固められ、胸に押し付けられる様が、背中越しに見えた。
「あ、お湯、沸かしてくるよ」
俯いた敦の容貌は、相も変わらず不揃いな横髪の陰。
此方に背を向けた侭身を返し、|厨へと向かおうとする。裸足の足裏が、ぺたりと|板間の床に張り付く音。
弾いた舌打ちは、存外大きく響いた。腹の底に蟠る不快感に突き動かされる侭、手を――否、黒い布が横切る敦の腕を絡め取っる。
息を飲む音が聞こえた。構わず引き寄せる。抵抗されるかと思えば、薄い体は慮外、容易く|蹈鞴を踏み、此方へと傾く。其の腕を今度は自らの手で囚え、己が身を沈めていた|長椅子から身を返し、入れ替わり様に押し付ける。
常よりも甚だしく薄い羅生門は、敦の――虎の|膂力を以てすれば容易く振り解けただろう。然し、今、芥川の眼下にいる敦は。
「な……んだよ……」
奇妙に切り揃えられた前髪の陰に容貌を隠し、消え入りそうな声を零すばかり。芥川に囚われた腕を振り解きもせず、|長椅子に大人しく身を沈める。
気に入らない。腹の底から迫り上がった感覚は、そうとしか形容できぬ不快感だった。
「離せって。お湯、沸かさないと……。あぁほら、掃除……掃除とか、全然終わってないし……洗濯物もしまわないと……夕飯の支度も何も……」
俯く敦の容貌は、未だ見えぬ侭。掠れた声が示す抗議。然し、其れは余りにも脆弱。だらりと垂れ下がった手の平に、拒絶の色は微塵も存在しない。
「貴様」
|漸く喉から|放り出されたのは、想定よりも随分と低い声だった。
眼の前の敦の肩が、ひくりと震えた。
「なんの|心算だ」
だが、構う気など更々にない。|抑々。
「貴様は、何時から|僕の|下婢になった」
何故、敦が此処にいるのか。何をしに来たのか。
情人という間柄であれば、理由なく互いの邸宅に訪れることも間間あろう。然し、其れは常の恋仲の者たちに云えること。少なくとも、己らに――芥川と敦の間に|徒人の常識が通ずるはずもない。
では、敦は何故此処に――芥川が現在|仮住居として使用している此の部屋に訪れたのか。|剰え、訪れたかと思えば何故か掃除やら洗濯やらと余りにも奇異な行動をし始めたのか。実に不可解。実に不愉快。
「|下婢……って……なん、だよ」