休暇、というには少々突発にすぎる。寸暇、というに相違ない時間を得た芥川が、転がり込んだ時間を手の中に持て余す。
常であれば異能の|研鑽、或いは任務に付随する調査にでも乗り出すところだが、生憎と舞い込んだ寸暇に其れほどの猶予はない。ほんの半日。時間にして五時間弱。やるべきことはあるが、それらに手を付けるには少々時間が足りない。なんとも中途半端な余暇は、実に厄介なものだ。
芥川という人間の性情からして、無為に時を過ごすことは許容し難い。|屡々太宰や中原から『生き急ぐな』と苦言を呈されるほどに。尤も、太宰に至っては芥川の身を慮っての意図というよりも、己の怠惰な態度が目立ってしまうことへの、なんとも自堕落な理由が大部分を占めていたのだろうが。
然して、此の空白を如何にして利用するべきか。此処に芥川の妹の銀がいたなら迷うことなく休息を進言したのだろうが、残念ながら此の場に芥川以外の人間はいない。――厳密に云えば人はいる。が、芥川に提言できる人間は、いない。
昼日中であれど鬱屈とした陰気な裏通りの一角。色を売る店や、人目を憚る物品の売買を生業とする者たちが其処彼処に店を構える此処は、日の高い時間帯には閑散としている。時折、路上で段ボールや|檻樓を躰に巻き付けた浮浪者や酔っ払いが転がるばかりの道。ほんの数本、通りを隔てた先に横たわる大通りとは、あまりにも様相が異なる。繁華街と比較的近い場所にあるとは云え、何方かと云えば貧民街や擂鉢街の空気と似通っている。
足を向けるべき場所も浮かばぬ侭、歩を進める。
背後に上がる黒煙と、蒼天に|攪拌していく消防の|警報音を聞きながら、芥川が乾咳を一つ手の中へと落とした。
◆ ◇ ◆
|却説、足を進めてみたものの、当て所のない足先は向かう先を知らず。我知らず進むその向こうに、何処か見覚えのある通りを見止めて、足を止めた。
行き交う車のエンジン音。雑踏、というには疎らな、けれど途絶えることなく人が行き交う。交差点の中から軽快なクラクションが鳴り、背の高い建物に反響してワンッと耳を突いていく。
その向こうには、見覚えのある、煉瓦作りの建物。一階には落ち着いた空気のモダンな喫茶店。その上階、二階と三階には――。
「……」
覚えず、眉間に生まれた皺と浅めの溜息。額に当てた手の中で、じっとりと唇が引き結ばれる。
無為に足を向け、横浜の裏通りを彷徨っていただけだったというのに。なんという失態か。真逆、真逆足を向けた先が――。
「魯鈍にもほどがある」
武装探偵社だったなどと。
武装探偵社に足を向けたのは、此れが初めてではない。当然だ。ポートマフィアと探偵社は、今現在休戦協定の只中。然し、有事の折には|個人の判断の範疇で《圏》共闘することも暗黙の諒解とされている。加えて、此の社には嘗ての師である太宰が勤めている。故に、芥川とて何かと縁の深い場所であり、幾度も此の社屋に足を運んだことがある。
然し、だ。今此の時に於いて、芥川が此の場に足を向けた理由は、"足を運んだ覚えのある場所"などという理由では、ない。
「惚けているか⋯⋯」
肺の中の外気を意図的に集め、先よりも深く吐き出した溜息。額に押し当てた手の平で眉間を押し解しながら、苛立ち――否、多大な呆れに眦を細めた。
笑い話にもならない。ポートマフィアの禍狗と呼ばわれた黒外套の男が、意図せず、情人の元へと足を向けていたなどと。
己の失態へ苦言を呈するなど埒もないこと。いっそ、あまりの愚行に絶句してすらいる。叱責と諦念と、落胆やら驚愕やら諸々の感情を込めた百万語を喉の奥に押し込めて飲み下す。|愈々、溜息すら吐き出す気にならない。
踵を返して、元来た道へと引き返す。|抑々、情人である敦はまだ職務中のはず。此のようなところに足を運んだとて詮無いこと。早々に此の場を離れ――向かう先は浮かばぬが――差し当たっては本部にでも戻って書類でも睨むとしよう。書類仕事は得手ではないが、其れも|已む無し。斯様な場所にいる事実を誰かに――殊に太宰にでも知られてしまえば目も当てられない。
己の浅慮に|辟易しながら、足早に探偵社へ背を向けて入り組んだ路地へと身を滑り込ませる。元より人目を憚る立場である上、今の状況では尚の事人目には付きたくない。故に、敢えて人通りも少なく、かつ昼日中でも陰鬱で空気の澱んだ場所を選んで歩を進めた。
◇
|胡乱極まる|卜占の類になど興をそそられたことはない。星や血液の種別、或いは生まれた日付で己の命数を読み解くだなどと、余りにもお粗末。そうであれば同じ日に生を享け、同じ血液型を持った双子などは全く同じ人生を歩まねば整合性がとれない。故に、信ずるに値しない。耳にする価値すらない。
が、然し、だ。こうも噛み合わぬとあらば、何某かの不運を被ったのかと疑いたくなる。
よりにもよって。
「ッ!?あ⋯⋯芥⋯⋯川⋯⋯!?」
誰の目にも止まること無く此の場を離れんとしていた、此の瞬間に。何故、此処に、芥川の情人たる中島敦其の人が、大きな目を零れ落ちんばかりに見開いて、佇んでいるのだろうか。
此のような場所に出入りする者など、後ろめたい職を生業とする者か、或いは|破落戸か。若しくは全てを|擲ち彷徨う浮浪者か。何れにしろ、まともな手合ではないだろう。
だが今、芥川の目の前に飛び込んできた男はどうだ。
陽光を反射する白銀の髪。薄暮と月白を抱く異色虹彩の双眸。華奢ながらしなやかな体躯は此の場に於いて酷く不釣り合い。慌てたような所作で此方を振り返る其の様から、走ってきたのだろうか。薄っすらと汗の滲む肌と、目尻に滲む焦燥。俄に引き攣った喉が芥川の名前を呼ぶとともに、ただでさえ大きな双眸が溢れんばかりに見開かれる。
浮浪者や街の陰に暗躍するような者共、其のどちらとも不似合いな、其の姿に。
「人虎……!」
息を詰めた驚愕の声が芥川の名を呼ぶのと、芥川の喉が低い唸りを吐いたのはほぼ同時だった。
何故此のようなところにいるのか。探偵社はまだ就業時間のはず。休暇だという話は聞いていない。ならば外周りの仕事が舞い込んだのか。ならば何故一人で此のような陰鬱な通りにいるのか。探偵社の仕事は基本二人一組。単独で動くことは推奨されないのだと、以前あの探偵社の眼鏡に諭されたのだと云っていなかったか。
脳裡に湧いて出る数多の疑念。それらが音を得て放たれるよりも早く。
「――羅生門」
芥川が発したのは、黒布の雨だった。
「黒波濤!」
「わっわ!莫迦やめろ!」