外は突き抜けるような青空が広がっていた。雲ひとつない快晴だ。小鳥がさえずり、人々の賑わいも遠く聞こえる。木の葉がさわさわと揺れる音も心地よい。
ふう、とメルセデスは息を吐いた。女神に祈る、人々が心身ともに健やかに過ごせますようにという日々の願いは無事聞き届けられたようだった。心の奥底に押し込んだわがままは、どうやら見過ごされたらしい。
いや、見透かされたうえで、あえて叶わなかったのかもしれない。それも当然だと思う。
フェリクスが再び王都に出立するには絶好の日和だった。道中も過ごしやすい気候となるに違いないと確信を抱けるほどの。気候が安定するということは、フェリクスにとっても安全な道行きになる。それはきっと喜ばしいこと。
(なのだけれど……)
胸中に去来する小さな痛みに、背中を丸めてしまう。貴族教育で姿勢については幼い頃から口うるさく言われていたけれど、今だけはどうか許してほしい、と密かに考える。そうでもしないと、この胸の痛みはやり過ごせない。
つきりと刺すような、心臓がきゅっと縮こまるような。この感情の正体を知っているけれど、口に出すことはできなくて。時間の流れがやけに早くて、いつの間にか太陽は天高く昇ってしまっていた。
「メルセデス」
部屋の扉を数回叩かれ、返事する間もなく開かれる。それが許されるのはこの邸宅ではただひとりだけだった。
「? どうした、体調でも悪いのか」
「う、ううん。そういうわけではないのよ~」
腰掛けていた椅子から立ち上がり、訝しむ声に微笑みかける。円卓の縁に足が当たり、減っていなかったカップの水面が波紋を作った。
「そういうわけではない、というのはどういうわけなんだ。別の理由でもあるのか」
「……ううん、理由なんてないのよ。すこし、ぼうっとしちゃっていただけ」
メルセデスは陽光の差し込む窓辺から数歩踏み出して、フェリクスのほうへと近寄った。じいっと見据えてくる双眸に、なんでもないような素振りで首を傾げる。わずかに陰った室内は、窓辺と違ってひんやりとした空気に満ちていた。
「……本当に、何も、ないんだな?」
カツ、と靴音を響かせて、フェリクスは距離を詰めてくる。一音一音、噛み締めるように念を押されて、メルセデスは思わず後ずさった。そのまま、無言で歩を進めてくるフェリクスにメルセデスはじわりじわりと壁際まで追い込まれ、
「あの……フェリクス?」
ついには背中に硬い壁の感触があった。逃げ場を失った踵がその場で足踏みして音を立てる。
「言え。吐け」
不機嫌な表情を隠そうともせず、ずいと顔が寄せられる。ツンと尖った鼻先が触れそうな、口付けでもされそうなその距離感に、ほんのわずかな抵抗として彼の肩を叩いた。
「あの、わかったから……」
掠れてしまった自分の声を情けなく思いながらなんとか告げると、フェリクスは鼻を鳴らして顔を退けた。
「……その。呆れられるし、困らせるだけだもの」
「どういう内容かは知らんが、お前の失態なぞ、これまでも多く見せられてきただろうが」
それはそうだけれど、ともごもご言い訳してみても鋭い視線は緩まなかった。たしかに、これまでの失態を思い返してみれば枚挙にいとまがない。中でも、戦時中にフェリクスを命の危機に晒させたことを思い出して、心臓がすくみ上がる心地がした。
──前は、まだ素直に言えていたはずなのだけど。
彼を失うかもしれないという恐怖とともに思い出した甘やかな感情。あの頃の日々。
小さく息を吸って、目だけでフェリクスを見上げる。
「……土砂降りにならないかしらって、思っていたの。少しだけ」
「……は?」
どしゃぶり、とどこかたどたどしく復唱したフェリクスに、メルセデスはかすかに顎を引いた。
「土砂降りになって、風が吹き荒れて。でも、だれも被害を受けないような、そんな天気にならないかしらって……」
「…………どういうことだ」
フェリクスは、頭を抱えるようにして額を押さえた。
「俺が今日フェルディアに出発せねばならんことは、」
知っているだろう、と続けられるはずだったのかもしれない。フェリクスの言葉は不自然に途切れ、それからメルセデスはしげしげと見下ろされた。
「メルセデス、」
「……本当に、ごめんなさい」
「顔を見せろ」
「あの、ごめんなさい、今は……」
ぐい、と両頬を挟まれるようにして無理やり上を向かされると、やはりまじまじと見つめられる。
「今度、時間を作る」
「え?」
フェリクスの言っていることがすぐには理解できず、数回瞬きを繰り返す。焦れたように今度は不機嫌そうな表情を作って、フェリクスは同じ言葉を告げた。
「今度、時間を作る。……いいな?」
「それは、……嬉しいけれど~」
フェリクスの中で何が結びついたのか。やはり理解が追いつかずにいると、両手で挟まれていた顔が解放されて、そのまま唇に別の体温がやわらかく触れた。
「……フェリクス?」
「寂しいなら寂しいと、そう言え」
言われなければわからんとぼやきながら、そのまま背中を向けられる。部屋の入口まで行ったかと思うと、そのまま振り返った。
「今度はお前も連れて行く。そのつもりでいろ」
「え、ええ」
ようやくの思いでメルセデスはなんとか頷き返す。その様子を見届けたのか、フェリクスは満足そうに口角を持ち上げ、そして部屋を出て行った。遠ざかっていく靴音がやけに耳に響く。
「……そうねえ、もっと一緒にいたいって。早く言っていれば良かったわ」
まずは今回フェリクスを見送らなければならない。メルセデスは浮き足立つような気持ちをなだめるために深呼吸した。
胸の痛みは、甘い余韻を残して遠のいていた。