ぐつぐつ、ことこと。中火のままにしていた鍋の中から煮立った音が聞こえ始める。浮いている芋と人参の周りに豚肉の灰汁が浮き始めたので、玉ねぎをかわしながら専用の網のお玉でそっと掬った。つまみを捻って弱火にする。ここからは持久戦だ。
 黒い2口コンロは油ハネの痕跡もなくぴかぴかと鍋の表面を映し出している。コンロだけでなく、周りのタイル張りになっている壁もつるつるぴかぴかで新品のようだった。ただ、ここの家主も料理することは知っているので、まったくの新品でないことも承知の上である。
 几帳面でそつがなく。それに、頭も良くて優しいし。自炊もできて、加えてその料理も絶品なのだから、こちらの立場がないというか。顔面だけ良ければいいのに、なんて理不尽な呟きがひとりの部屋に木霊する。
 ぐつぐつ、ことこと。火の勢いは弱まっても鍋の中からは小気味よい音が続いている。網のお玉を片手に持ちながらスマートフォンの画面を表示させると、ちょうど17時の表示に切り替わったところだった。取り決め上は仕事を切り上げても良い時間ではあるけれど、実際の現場ではそういうわけにはいかないらしい。だから、彼が帰ってくるまではまだしばらくの猶予がある。
 メッセージアプリにも新しい通知の表示はない。パタンと手帳型のケースを閉じて、エプロンのポケットへと入れ込んだ。と、その拍子に床に白い紙切れがひらひらと落ちていった。
「ん? なんだっけ」
 印字しているものを検めれば、先ほど料理の具材を購入した際のスーパーのレシートだった。スマートフォンのアプリで家計簿を管理しているため、写真を取り込むのを忘れないようにと挟んでいたのだ。
 その場でパシャリと写真を撮って、何重にも折り込んでゴミ箱へと投げる。うまくシュートできたので運が良いなんて口角を持ち上げ──先日のことを思い出した。
 鈴芽がレシートを落としたときのように、草太もスマートフォンのケースから紙切れを落としたことがあった。ただ、それはレシートのような白い紙切れではなく、可愛らしくも少し重厚な雰囲気のあるイラストが描かれた美術館のチケットの半券だった。
 とある絵本作家の美術展が開催されているからと、初めてちゃんと東京に遊びに来たその当時、草太に連れて行ってもらたのだ。鈴芽もよく知る絵本やそのイラストが展示されており、話を聞けば草太も教材として使用したことのある絵本もあった。デートだと舞い上がる鈴芽もそのときは緊張を忘れて展示に見入ったものだった。
 例のごとく、几帳面な性格が出たような、折り目のひとつもないつるつるの紙面。手に取って眺めて、やはり自分にも見覚えのあるものだと、彼がなぜ持ち続けているのかと、期待を込めて目の前のひとの顔を見上げた。
「その、……初めてのデートで、行った場所だったから……」
「で、でも、あのときってまだ付き合ってなかったよね?」
「気になる女の子と遊びに行くのは総じてデートと呼称します」
 大事な思い出なんだよ、とわずかに顔を赤らめて、少しだけ拗ねたたような面持ちでそっぽを向いた背中に思わず鈴芽は飛びついたのだった。
「ふふ、私も捨てられないんだよなあ、あの半券」
 鈴芽にとっても印象的で大事な思い出で。こうして草太と恋人という関係になってしばらくの月日は経ったけれど、彼も自分と同じだとは思ってもみなかったから。自分ばかりではないのだと、ひどく安堵し、同じくらい高揚した。
 にまにまと思い出し笑いをしていると、いつの間にやら灰汁がもこもこと浮いていたので網のお玉で再度掬い上げる。調味料を鍋に入れてぐるりとひと混ぜし、落し蓋のかわりにアルミホイルをかぶせてタイマーをかけた。
 さて次は、と腕まくりする。せっかくの2口コンロなのだから、もう一品簡単なものを用意したい。今日の夕飯だけでなく、できれば冷凍できて日持ちするようなものを。作り置きに箸をつけるたび、草太は鈴芽の存在を思い出してくれたら良いのだ。
 あのチケットの半券に負けないように、これからも彼の生活に食い込んでやると、今日の鈴芽は意気揚々だった。
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