朝起きて、まず違和感を覚えたのは見知らぬ布団だった。
寝具にこだわりがあるわけではない。むしろこだわりがなさ過ぎて、学生時代から使っている布団を社会人になった今でも愛用している。だというのに、今真紘の体を覆う布団は柔らかく温かく、肌触りがいい。
寝起きで回らない思考のままのそりと起き上がる。ううん、と自分のものではないうなり声がして一気に目が覚めた。隣に眠る誰かの存在に気付いて血の気が引く。悲しいことにここ数年はベッドを共にしてくれる人はいないはずだった。
恐る恐る隣を覗くと、睨むように細められた目と視線がかち合って、さらに血の気が引いた。
「……は、林さん、おはよう、ございます……」
「……ああ……はよ……」
寝起き特有のしゃがれた声でそう返事が返ってきて、真紘はただ泣きたくなった。
林宗達という名の彼は、共通の友人である加賀理緒を介して知り合った。大柄で体格がよく、無口で不愛想。どちらかと言えば苦手な部類である彼にどうしてか真紘は気に入られている。知り合うきっかけとなった加賀も林にいたく可愛がられているが、二人ともなぜそんなに気に入られているのかは分からない。
そんな苦手な彼と、どうして同じベッドに眠っているのか。前日の記憶を思い出そうとして、何も思い出せなかった。ひどい頭痛は今目の前の現実に対して起きているのか、それともただの体調不良なのか。
「……あの……」
「俺の家」
「え? あ、ああ、はい……」
あくび交じりにそう言われて、なんとなく部屋を見渡した。ごくシンプルな寝室は、大きなベッドと大きな本棚、ベッド横のチェスト以外に家具はない。ホテルの類でないことに一瞬安心はしたが、だからと言って何事もなかったことにはならない。
恐る恐るまた声をかける。林は眠そうにゴロゴロしているだけで、起き上がる様子はなかった。
「林さん、あの、俺、昨日の記憶がなくてですね……」
「…………」
「……あの、何か、失礼とか、……ええと……」
何も答えはない。その沈黙が何故なのか分からず、泣きそうになりながら膝に目を落とす。
そしてふと気づいた。
「……あ?」
膝はふかふかとした白い生地に覆われていた。はっとして自分の腕を見てみると、腕も同じ白い生地に覆われている。慌てて自分の身体を見下ろせば、ツナギに似た服を着ている事にようやく気がついた。
下を向くとゆらゆら揺れるポンポンつきのヒモ。首に違和感を覚えてそっと手を伸ばすと、フードがあった。フードには何やら細長い耳がついていて、フードを被れば頭から耳が出ているように見えることは想像に難くない。まるで着ぐるみのようなその服を、当然のことながら真紘は持っていない。
いよいよ訳が分からなくなって、助けを求めるようにはやしさん、と呼びかける。林はだるそうに手を伸ばすと、枕元に置きっぱなしになっていたスマホを手に取って、何やら操作し始めた。
「ん」
「え?」
「いいから、見ろ」
何かの画面を出したスマホを手渡され、真紘は戸惑いながらも受け取った。再生ボタンが画面中央に表示されているので、どうやら動画らしい。不思議に思いつつもひとまず再生ボタンを押してみる。
ガサガサとノイズが入り、まず映し出されたのは暗い路上だった。見覚えのある建物にすぐピンときた。仕事場の最寄り駅だ。
駅近くの植え込みにゆらゆらと上半身を揺らした誰かが座っている。カメラを向けられると、暗い中でも分かる真っ赤な顔がしまりのない笑みを浮かべた。
『なんです、しゃしんですかぁ?』
『ああ』
『じゃあポーズとっとこ。いえーい』
撮られている人物は上機嫌にピースをしてみせる。明らかに酔っぱらっていた。真紘は今すぐにでもスマホを投げ捨てたい衝動に駆られながら、早く動画が終わるように念じていた。
『酔っ払いくん。一人で家帰れるか?』
『かえれまーすぅ。あるいてでもかえれる』
『じゃあ立ってみろ、試しに』
『えーとねえ、……あはは、すげえー、ちきゅう回ってる。ほら、たてたれしょ』
『座ってるんだそれは』
地面に尻餅をついた人物を、動画を取っている誰か――もとい林が片手で引き上げる。立つことすらままならない誰か――もとい真紘は、林にひっついてけらけら笑っていた。
そうだ。思い出した。昨日は確か、長らくかかっていた仕事が終わって、気分がいいから一人で飲みに行って。そうしたら偶然林と会って、緊張をごまかすためにたくさん酒を注文した。
その結果、記憶はないが、したたかに酔っぱらったのだろう。記憶はないが。
『危ないからとりあえずうち泊まれ。明日休みか?』
『やすみでーす。ええー、はやしさんの家、いっていーのぉ?』
『いいよ』
『じゃあいくー。おさけ買ってってー、アマプラでえーがみよー』
『寝ろ。……じゃあ行くぞ』
『はーい』
動画は途切れた。
おそらく言質を取ったぞ、という証明のために撮ったものなのだろうが、だからといってその前の醜態までも動画に収める必要はなかったのではないか。より激しくなった頭痛は二日酔い以外にも理由がある気がした。
深く深呼吸をして、そっとスマホを林に返す。多少目が覚めてきたのか、真紘が動画を見終わるのを待っていた林は、受け取ったスマホをまたすぐ渡してきた。
「あの、ほんと、土下座するので、動画消してください」
「まあまあ」
「見たくないんですよ。ほんとにキツイです」
「まあまあ」
必死の訴えは聞き入れられることなく、しぶしぶまたスマホを受け取った。今度もまた動画だった。
嫌だなあと思いながらも、ベッドから見上げられる圧に耐え切れず、結局再生ボタンを押す。
映し出されたのはまたしても上機嫌の真紘だった。背景は室内に切り替わっていて、どうやら林の家にやってきてからの撮影らしかった。
ソファの上でけらけら笑いながらコップを持っている真紘は、未だに酔いがさめていないようだ。
『真紘くん、水飲め。店でも飲んでなかったろ』
『のんでたもん。お茶割だからお茶のんだし』
『それを水分に換算するな。水を飲め』
『やだー。きょうはー、おさけしかのめない真紘くんれーす』
『生物として欠陥が過ぎるだろ』
『のませたいならー、はやしさんがのませてくれればいーじゃーん』
昨日の自分は世界から抹殺すべきだったのではないか。今日の真紘はそう思った。どう考えても、この存在は世界に悪影響しか及ぼさない。特に自分にとっては。
動画を撮る向こうでため息をつく息遣いがあり、にゅっと伸びた手が真紘の手からコップを取り上げる。首が据わらない子供にやるのと同じように、コップの飲み口がへらへら笑う真紘の口元へと押し当てられた。
そっと動画の再生時間を確認する。まだ半分以上あった。ベッドに寝転んだままの林を確認する。全部見ろ、と目が語っていた。逃げ場がなかった。
『のんだー! おれえらい?』
『そうだな』
『じゃー、えらいのでー、だっこして!』
『君本当明日この動画見て死ぬなよ』
『わかんなーい。はーやーくー』
両腕を目いっぱい伸ばしてねだる真紘に、また林のため息がこぼれる。スマホが机に置かれ、天井しか映らなくなった。何やら衣擦れの音と、ぎしりとソファが軋む音がして、少ししてからスマホが動かされる。
ソファに座ってあきれ顔の林と、その膝の上に乗ってご満悦の表情を浮かべた真紘。その様子を自撮りしながら、林が画面向こうに語り掛ける。
『はい。真紘くんが酒に酔うとこうなります』
『こうなりまーす。あははは!』
もはや箸が転がっても面白いらしい真紘がげらげら笑っている。自分とはいえ今すぐにでも引っぱたきたい笑顔だった。
動画はそこで終わったが、真紘は心に深い傷を負った。
チベットスナギツネと同じ目で見てくる林に再度スマホを返すと、また新しい動画を再生させようとしてきたので、真紘は床に降りてしっかり土下座した。
「大変、大変申し訳ございませんでした」
「まだあるぞ。そのウサギパジャマ着た後の謎ファッションショーとか」
「ああこれウサギなん……いや何撮ってんすか!? 俺を殺したいの!?」
「後々ネタにしようと思って」
なんのネタだろう。強請りかな。そう思うくらいには精神をめためたにされていたが、林はそうとも知らずにようやく起き上がった。ベッドから降りると、未だに土下座体勢のままの真紘を軽く持ち上げ、またベッドに座らせる。
いつものようにセットされていない林の髪が妙に新鮮だった。
「あのな。今回みたいに知り合いがいるときならいいけど、そうじゃない時は飲みすぎるなよ」
「……肝に銘じます」
林がいたから飲みすぎた、とは言えず真紘は口をつぐんだ。動画を撮られ、精神的に辱められたのも事実だが、飲みすぎた真紘を心配して家まで連れてきてくれたのも事実だ。寝間着も貸してもらって、家主と同じベッドまで使わせてもらった。
よくよく考えたらめちゃくちゃにお世話になっていると気が付いて、ようやく真紘は言うべきことを思い出した。
「色々お世話かけてすみませんでした。ありがとうございます」
「ん。どういたしまして」
林は相変わらず無表情だったが、ほんの少しだけ表情をやわらげ、真紘の頭を撫でた。遠ざかっていく手がそっとウサギのフードをかぶせていったことは、迷惑をかけたお詫びとして何も言わなかった。
「そういえば、その動画とか写真を加賀くんに送ったんだけど」
さらりと言われたそれを、しばらく理解できなかった。
ようやく脳が意味を理解して、真紘は目を見開いた。
「いや何してんだ!! は!? なんで!?」
「面白かったから」
「面白かったからじゃねーよ!! なんっ、何してんの!? マジで!?」
「ああ。真紘くんのスマホから送っといた」
林に渡された自分のスマホをひったくるように受け取り、慌ててメッセージアプリを起動する。確かに昨日の夜中、加賀とやり取りをしている。もちろん真紘に記憶はない。
震える指でトークルームをタップすると、林の言った通り、真紘の写真がアップロードされていた。カメラに向かってピースする満面の笑みの真紘、林の膝に乗って満足気な真紘、ウサギパジャマで笑顔の真紘――地獄だった。
最後に、加賀からたった一言、「これみんなに回しとくね」とメッセージが入っていた。膝から力が抜けた。
「……俺もう酒飲むのやめる……」
そうしろ、と着替え始めた林がすげなく告げる。その声には、真紘に対する同情がほんの少しだけ滲んでいた。
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初公開日: 2023年01月09日
最終更新日: 2023年01月09日
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