あの向こうには何があるのだろう、と城壁の上にのぼって眺めた。
赤茶けた大地が茫漠と広がるあの向こう。
一本の草木も生えないその先に見える、遠い山々の陰影。
あそこには一体、何があるのだろう。
誰がいるのだろう。
そこには、何があるのだろう。
僕はそれを口にする。
友達は首を傾げ、あるいは笑った。
何もないよ。どうしてそんなことを考えるの?
城壁の中にいて、僕たちは満たされていた。
ここには何でもあるでしょう。何が不満なの?
友達の言葉に僕は同調する。
そうだよね。あの向こうに何があるかなんて、関係ない。
卑屈な笑みを浮かべながら、目はあの向こうを見ていた。
遠い遠い、あの大地の向こうを見ていた。
僕が毎日毎日城壁の上に登って「向こう」を眺めるものだから、
呆れた祖母が、天井裏の古い物置を引っ繰り返して僕に不可思議な道具を手渡した。
何か知らんけど、と祖母は面倒くさそうに言った。
その昔、うんと昔よ。あたしが生まれる前くらいの大昔。
この機械で「向こう」のことを知っとったらしいよ。
一緒に置かれていたのだという。
祖母は埃をかぶって妙な臭いのする物体も見つけてきた。
ホンや。
懐かしそうに、何故か誇らしそうに祖母は言う。
たぶんこれは、ジショやな。
朽ちかけたそれは、開いた一面一面に、夥しい数の小さな黒い種がびっしり詰まっていた。
僕は不思議な装置を手に、城壁に登る。
両の手のひらに少し余るくらいの大きさで、弁当箱くらいの厚みがある機械。
引っ繰り返してあちこち触っているうちに、それは鳴った。
ざざざざざざざ。
僕は飛び上がるほど驚いて、急いで家に駆け戻った。
鍋で何かを煮ていた祖母は、呵々と笑った。
あんたそりゃ、そういうもんやもん。
何ぞ、遠いところの音を拾うらしいわ。
遠いところの音。
それはたとえば、「向こう」の音も聞けたりするのだろうか。
僕は寝ても覚めてもその機械を弄る。
そしてある日、発見する。
6時45分。
早朝―――というと祖母には叱られる時間。
朝靄に沈む「向こう」の山々が、朝日を受け姿を現す時間。
城壁の上で、機械は喋った。
僕は小さなつまみをそうっとそうっと動かす。
雛鳥が内側から卵をつつく音に耳を澄ませるように。
そこに、誰かがいた。
恐らくそれは、3人の人間だった。
やたらと明るい男と、年配の男と、若い女。
3人は親し気に話しているようだった。
明るい男は、僕の言葉を話した。
あとの2人は何か、意味の分からない音の羅列を歌っていた。
僕は毎朝、城壁の上に登った。
暑い日は焼けつくような朝日に刺され、寒い日はかじかむ手でつまみを回す。
彼らは何かを言っていた。
「向こう」側からの言葉。
それは僕に向けられているのだと、思った。
祖母は初めのうちは早起きの習慣が身についた僕を喜んでいた。
けれど僕が熱中するうち―――仕事の合間も朝聴いたことを話し続けるのだ、繰り返し繰り返し―――うんざりした顔をするようになった。
何が不満なんだい、と祖母は言った。
「向こう」側のことなんて、必要ないじゃないか。
ここには何でもあるのに。
お前には他にたくさん知らなければならないことがある。
ここでたくさんやらなければならないことがある。
一生使うこともないそれが、一体お前の何の役に立つと言うんだい。
機械は次第に音の入りが悪くなってきた。
ある日僕は城壁から下りて、壁の向こう側で機械を空に掲げてみた。
ざざざざざざざ。
耳障りな音が絶え間なく続く。
僕は祈りを捧げる人のように、頭上に機械を戴いてくるくると回った。
ぴたりと音を拾うその瞬間を探して。
機械は段々と音を拾わなくなってきた。
僕は日に日に城壁から遠ざかるようになり、その距離は日ごとに長くなった。
昨日どこまで行ったかが分からなくなるので、僕はその日行ったところまで目印を付けることにした。
ジショの種。
僕はそれを撒く。日ごとにそれを撒く。
一昨日はここまで。昨日はここまで。今日はここまで。明日は?
音は遠のいていく。
城壁から離れて行くほど、家に戻るのが遅くなった。
やがて祖母は僕に苦言を呈し、その機械を壊してしまおうと言った。
お前にこんなものを与えるんじゃなかった。
あの向こうには、何があるのだろう。
広大な地面は、ただただ目の前に横たわるばかり。
草一本生えない色褪せた地面。
遠くを鳥が飛んでいく。
6時45分。
僕は城壁の上に登る。
バラバラになった機械を手に、登る。
風を受けて傍らに置いたジショがはためいた。
音は聞こえない。
眼下にあるのは、ところどころ盛り上がった土。
種は芽を出さず、ただ墓のように連なる。
僕は城壁を下りる。
一歩。
背後に聳え立つその中は、安全だった。
見知った者と、見知った物に溢れていた。
けれど僕は知りたかった。あの向こうには何があるのか。
あの音の意味を、僕に向けられた歌を、その先にあるものを。
僕は歩き始める。墓標を辿り、一歩一歩。
ある時途切れるその先に、僕はまた種を埋める。
春があり、夏があり、秋があり、冬があったのだと思う。
僕はただ種を埋める。
毎日毎日、振り返らずに。
何をしているのだろう、と僕は土を両の手で抉りながら思う。
こんなことをして、何になるんだろう。
いったい何の意味があるんだろう。
あそこにいればよかったんだ。
城壁を遠く離れて、もはやそこへ帰ることも叶わない今。
ずっとあそこにいればよかった。どこかへ行きたいなんて思わずに。
何の意味もなかった。
種はもうない。
白い頁が、ただパタパタと風に繰られて行く。
種を埋めて、土をかぶせる。
乾いた大地は、砂埃を立てる。
地面に黒い染みが出来る。
ぽたぽたと、落ちる。
それでも行きたいと思った。
知りたいと思った。
あの音の正体を知りたかった。
地面に、影が落ちる。
眼を瞬いて、僕は見上げる。
そこには人がいた。
「       ?」
その人は、僕に訊いた。
僕の背後を指さして。
僕は驚いて振り返る。
僕がこれまで顧みなかった僕の旅路を、僕はその時初めて目にする。
緑の道。
種が芽吹いた、僕の来た道。
「        」
その人は笑う。
僕に手を差し出して笑う。
僕は土塗れの手を払い、その手を取る。
僕は。
僕は、その言葉を知っている。
―――6時45分。
機械から、音が流れ出す。
僕は城壁の上で「向こう側」を見ながら思っていた。
あの向こうには何があるのだろう。
そこには、誰がいるのだろう。
今、僕を呼ぶ声に、僕は応える。
「           」
僕が来た道には、花が咲き乱れる。
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I Road
初公開日: 2022年12月18日
最終更新日: 2022年12月18日
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