「宅配ですー」
唐突に鳴り響いたチャイムに私が出ると、扉の前には配達員さんが荷物を携えて立っていた。
「あ、沙弥香先輩、ハンコそこ置いてあるからー」
戸惑う隙もなく、締め切ったユニットバスの奥からくぐもった声が。
その声に従って見渡してみると、確かに靴箱の上に判子があった。しかし仕舞ってあるわけではなくおざなりに放っておかれており、ついでのように朱肉まであった。いくら面倒だからといっても流石に無防備が過ぎるのではないだろうか。
別にサインでもいいんだけど、まぁあるなら使わせてもらおう。そう思い、ひょいと判子を摘まみ上げたところで、それが目に入る。
「枝元」。
…………。
「あのー?」
「あ、すみません」
不審を帯びた声に、私は慌てて判子を押した。
ありがとうございましたー、と配達員さんは何事もなかったように、次の仕事に向かうべく扉を閉めた。足音が遠ざかったのを確認して、ふぅと小さく一息。
改めて手に持った判子をまじまじと眺める。
刻まれた文字は変わらない。「枝元」。判子自体だって別になんの変哲もない、そこらにあるような物。
だのに、それをこうも見てしまうのは。
まるで私の姓が「枝元」になったみたいだなんていう、錯覚が頭を掠めたから。
馬鹿馬鹿しいと自分でも思う。私は佐伯だし、ハルは枝元。全然違う。
つまりその錯覚というのは……結婚して姓を変えるという知識から来てる。
結婚したみたい、なんてそんなささやかな昂揚が。
その衝動に、ついつい指が動く。すっ、すっ、と慣れた動きで宙に「枝元」と書いてみる。何故だか書くのにしっくりときた。流石に「佐伯」ほどではないけれど。
実際に文字が残らずとも、私にはその軌跡が映っている。思っていたより元気な字になったのは、本人に似たのだろうか。
小さく笑みが綻んでから、ふと我に返った。なにやってんだろ。自分のしょうもない想像や行動に今更気付き、羞恥心がかっと熱を持つ。
額を押さえて羞恥心を押さえている内、はたと私の思考は別のことに気付いた。
――私はハルと結婚したいのだろうか?
これまではそんなこと全然考えてこなかった。付き合い始めてそろそろ一年。あの人の時のように不安を感じるようなことはほとんどない。この分だとまだこの「好き」は続きそうだ。
なら、その先は? これから先、どこまでハルと一緒にいたい?
想像してみる。一年先、五年先、十年先……五十年先。
近いほどくっきりと、しかしながら流石に大学卒業してからの想像は不明瞭になる。生活スタイルもなにもかもがらっと変わるし、なにがどうなるか全然分からないから。だけど。
そこまで一緒にいたいなと。いられたら嬉しいなと、私は思った。
どういう形が私たちにとってベストなのか、それは話し合う他ないけれど。ハルもあぁ見えて聡い子だから、すでに色々と考えてるかもしれない。
……まぁ、まだ一年だ。切り出すには不安が残ってしまうのは否めない。
けれどそれはあまり遠いことじゃない。私ももう三年生だ。早いとこだともう就活が始まってる。来年には卒業と就職が控えていることになる。そうなると、これからどうするかなんていやでも向き合わなくちゃいけない。
……向き合い続けよう。ハルと一緒に。
小さく決心した私は、ずっと手に持っていた判子を、そっと元の場所へと戻した。