結局彼の孤独の原因は親父さんから大事に受け継いだその窮屈なまでの平等性と公平性を捨て去れぬことにあったのだが、とうとうそれに気づかせてやれぬまま逝ってしまったのは何とも口惜しいことであった。
「この間借りた本、大層面白かったよ」
「そうかい。それはよかった」
「そこで僕からもきっちり二冊、本をお貸ししようと思う。だが、何がいいかね」
 未だ蝉の鳴かぬ初夏の喫茶店である。客はさほどおらず少し開けられた窓から通る風が心地よい。
「今のところは読みたいものはないなあ」
 私はつい先日貸した本を受け取りながら、平等病の彼にそう返す。きっちりした格子の大島紬に四角四面の神経質な顔。その年齢に不釣り合いなほど威厳のある表情がますます険しくなるのを見、「それはいけない」あっと思った。
「それはいけないよ。こちらが二冊借りて、こうして返したのだから君に二冊貸さなければ釣り合いがとれないじゃあないか」
「ああ、すまない、そうだったね」
「そうだ。平等ではない」
 彼は私の言葉にまるで悪い薬でも飲んだかのごとくわなわな震えていたが、こちらの謝罪に納得したのか腕を組んでふんぞり返った。彼の病は一事が万事この調子である。故に大変面白い。多くの者はこの辺りで彼の言葉に窮屈を感じて逃げ出してしまうのだが、実にもったいない。
「それじゃあ、あれとそれとを頼むよ」
「承知した」
 まともに取り合うのではなく、こうしていらぬものでも何か頼んでしまえば、彼はその二十代にしては随分と風格のある顔に年相応の笑みを浮かべてくれる。多少窮屈であるに違いないが、それを差し引いても面白い男であった。
 こんなエピソードもある。
「おいそれはどうしたのだ」
「これか? ……いや、大したことではない」
 季節は盛夏に近づいていた。相談があるから数週ぶりに会わないかと葉書をもらったのだ。本も返したかったのでいそいそと出ていった私は、喫茶店に現れた彼の顔を見て驚いた。彼の神経質な顔にできているのは傷口のまだ生々しい、何とも大きな擦過傷である。しかも一切隠すそぶりもない痛々しげなそれは喫茶店ではあまりに目立ち、普段無口な店主でさえちらと視線をくれ、むしろこちらが恥ずかしくなるほどだった。
「偶然な。年頃のお嬢さんと筋交いで行き合うた」
 席に着くと待っていましたとでも言うように女中がお冷やを運んでくる。話好きそうな彼女はきっと擦り傷を見たかったのだろう。彼は初め特段説明するつもりもなかったようだったが、あまりに私が見つめるので渋々といった体で説明してくれた。しかし要領を得ない。女性と筋交いで行き合って何故顔に擦り傷ができるのか。
「……そのお嬢さんに何かしたのか。かわいらしくてついひっかけたとか」
 真面目な彼にはあり得ないであろうことを敢えて問うた。
「そうだ」
 しかし返事は意外なもので肯定だった。大きな声で「ええっ」と返したせいか、店内の視線が 一瞬集まり、ついでに外で鳴き喚いていた蝉も「ミン!」と大声を上げて一匹飛び去りさえした。
 彼は周囲の様子に少し驚いたようだったが、不可思議そうに続けた。
「何かそんなにおかしいか。不注意だったのだ。僕の不注意で彼女を引っかけて、転ばせてしまった」
「ああ、そうか。そういうことか。それは……」
 何のことはない、「引っかけた」の意味が違っていたのだ。はあと安堵の息を吐き、そして違和感に気がついた。
「うん?  そんなら君が怪我するのはおかしくはないか」
「ああ。かわいそうにお嬢さんは顔に擦り傷を作ってしまった。だから僕は」
「まさか」
「お嬢さんに詫びた上で、顔を引っかいてもらったのだ」
「……」
「ましてや女性だから、僕の方は二往復にしてもらった。……何がそんなにおかしいのだ。先から」
 耳を済ましていたらしい店内の客の静かな笑い声に唆されて、ついつい押さえきれず私も笑い出してしまった。この平等公平への奴隷たるや、まさに病である。だから彼の友はやめられない。面白い男だ。
「それが平等というものだ」
 不満らしい彼は腕を組んでふんぞり返る。
「……ああそうだ、全くその通りだ。その通りだな」
 むすっとする彼にはただおだてを返して、代わりにコーヒーを一杯頼んで落ち着くと、気になったので問いかける。
「しかし、……お嬢さんはその、お前の顔を引っかくのを嫌がらなかったのか」
「よくわかったな。だが何ともできた女性でな。親父の真似をして口説いてみれば、すぐさま理解してくれた」
「……何だ、やはり口説いたのか」
「分からない者には、分かる者が噛み砕いて説明するだろう? それが公平というものだ」
「ああ、ああ、正しいともな」
 気づけば夏の日は落ちかけていて、空は半分夕暮れに近づいてきていた。いやあ本当に面白い男だ。彼の病はやはり傍から見さえすれば面白いのだ。しかし同時に憐れでもある。唇を引き結んで真一文字にした彼の顔が夕焼けに照らされている。
 結局この一悶着で、彼が私を呼び出した用件がなんだったか、お互い忘れてしまった。滅多にできない経験であった。
 ――そもそも、彼が少しばかり平等に口うるさくて、四角四面で、神経質であることが果たして我々の友情にいくらの瑕疵を作るというのだろうか。先の体験など、彼が彼であるからこそ起き得たことなのである。周囲は私も含めて変わった二人と見る向きもあった。あるいは私が彼に依存されているなどと全く変わった見方をする者もいた。「ああ、彼か」、多くは彼の変わったエピソードを話せば馬鹿にして鼻を鳴らした。
「彼は常軌を逸しているからね」
 その言葉を使えば自分の理解できぬ出来事を全て否定できると思っている友人は去りゆく平等病の姿を見て目をすがめると、何だか汚いものでも見たような顔をした。擦過傷の事件の後、彼と帰る姿を見咎めてだ。
「では今度はこちらから葉書を出そう、今回は君からもらったからね」
「ああ、それこそが平等だ」
 まずいのに出会ったものだ。ああ、せっかく面白い話を聞いたのに。
「まだアレと付き合いがあるのか」
 何だか先の笑い話を全て否定されているような気がして少々不快でもあったが、この、特段何の病気もない無難な友人の気持ちが分からないでもなかったので苦笑を返した。
 どうもそれが肯定であると取られたらしい。この男は一通りの悪口を得意げに並べ立てると自分がいくら優れているかを語り出した。
 挙句の果てその言葉を吐いた。
 私が気に入らぬのは、この無難な友人の傲慢な態度ではない。何だか良く分らないレッテルを貼って、彼のその真正の優しさも面白みも見えぬよう目を閉じることである。
「平等馬鹿が移らんようにな」
「移らんさ」
 あの異常なまでの平等への執着は、親父さんの教育の賜物である。
 そもそも、あの病は彼の生まれ持ったものではないのだ。
 親父さんは若い頃ナンとか主義の書籍に当てられたらしく、人は皆全て平等なのであるから、お前は人より優れても劣ってもならぬと彼を教育した。得意な算術で満点をとれば叱責され、苦手な国語で零点をとればまた叱責され、彼はきっかり平均点をとる手腕が身に付いた。真面目な彼は親に反発するでもなく、ただ静かに従ったのだ。
 本来大人しく、何より優しい男なのである。先の女性の前で自らが転ぶのではなく右頬を差し出して、なおかつ二往復の擦過傷にしたのは、きっと彼自身の持って生まれた優しさなのだろう。
 何と不器用で、生真面目な男か。そうだ。
「ふざけるな」
 気づけばあの無難で不快な男は去っていた。私が苦笑している内に満足したのだろう。しかし私も随分口汚い。誰も居ない道に吐いていた悪態に自ら驚いて、誰も居まいかと周囲をそっとうかがうことになった。
 それよりもっと驚いたのは、この平等病の男が件の擦り傷のお嬢さんとお近づきになり、あれよあれよという間に結納まで済ませてしまっていたことだ。しかも彼の方から言い寄ったのではなく、困惑していただろうお嬢さんの方から熱烈にアッピールしたらしい。何故、と思わないでもなかったが、まあ何とも気の効いたお嬢さんで、あの万年仏頂面の親父さんまで丸め込んで両家納得双方円満にことは進んでいったのだという。
 お嬢さん曰く、「お互いの不注意でもあり、面倒そうに立ち去る人の多い中、謝った上に右頬を差し出してくる人なんて初めてだった」とのこと。何がどう転ぶかわからないものである。
「いいお嬢さんじゃないか、器量よしで、君の人柄も買ってくれているのだろう」
 結納に至っても、平等男はどうも不安らしく何度も葉書を寄越しては相談をと私を喫茶店に呼び出した。何を女々しいことをと思わないでもなかったが、曰く「一番の友人に胸の裡を伏せておくのは公平ではない」という彼らしい理屈であり断るわけにもいかなかった。
 何より私もまた、「一番の友人」と言われてまで心の動かぬような冷血漢でもなかったのである。
「だから辛いのだ。俺はこの間彼女と出会い、まだ十分に知るわけではない」
「ふむ」
「公平ではないのだ。少なくとも平等でない。彼女の熱量と俺の熱量が」
 確かにまあ、彼の言う通り、言っては悪いが惚れているのは明らかにお嬢さんの方で、人への平等を気にする彼にあまりその気はないように見えた。だが、彼のその平等病をも愛し、彼の父すら口説き落とし、何より彼自身を愛してくれるような奇特な女性などこの機を逃したら生涯現れないのではないかとも私は考えていた。
「そうかなあ、……しかし……」
 いつものようにコーヒーに口をつけながら、じっと平等病の彼を見つめてみる。人生の大事に際して私なんかを呼び出して、一番の友人と言い放った彼の実直な顔を見つめてみる。
(負けるものか)
 どうしてかあの傲慢な友人の顔を思い出して腹が立った。
 思えば、かわいそうな人間でもあるのだ。
 母を早くに亡くし、父には病を押しつけられ、友には逃げられあるいは馬鹿にされている。そして驚くなかれ、彼は平等にこだわると言えど、彼を馬鹿にする誰のことも馬鹿にしないのだ。しかし誰もそれに気づかない。誰も彼と素直に向き合わないからだ。
(だからこそだ)
 そんな彼を唯一愛してくれている彼女と共にあれば、きっとこの憐れな、そして、実直な友人は幸せになれるのではないのか。
 余計な世話と言われればそれまでである。彼に一番の友人と言われ浮わつく気持ちもあったかもしれない。
 しかし友として幸せを願ったのも事実である。
 だからこそ、つまらないことを言った。
 「平等」についてもっとも考え、「平等」についてもっとも悩み抜いているであろう彼に、あろうことか「平等」についての講釈を垂れた。
「しかし君。世にはそんな夫婦、いくらでもいるさ。夫婦間で平等でなくても、世の夫婦とは平等だ」
「いや、だが……」
「今平等でないなら、これから平等になるよう愛を注げばいいではないか。K子さんが嫌いかい」
「そんなことはない」
 彼は驚いたように面を上げて頭を振った。何だ、丸切り脈なしではないではないか。
 蝉は疾うに去った秋のことで、店内は落ち着いて静かだった。私は息を整えると彼をまっすぐ見据えた。
「僕はね。君の一番の友人の僕は、ひとつ、君と平等でない点があるんだ」
「何だと」
「……僕は幸せなのに、君はちっとも幸せそうに見えないところだよ」
 彼は一瞬たじろいで、「そんなことはない。人と同じく幸せだ」と答えた。
「僕には、君が人との『平等』を後生大事にするあまり苦しんでいるようにすら見えるのだ。人と平等か公平かだけを確認して、君自身のことは置いてきぼりではないかい」
「そんなことは」 
「幸せになるのは、それこそ、誰もが平等に持っている権利だ。だが皆が幸せを感じるときはそれぞれ違う。僕ならそうだな、仕事から帰って娘の寝顔を見ているときかな。……その、君の言う『人と同じく幸せ』というのは、君は、君自身はどういうときに感じているんだい」
「……」
「君のその平等病は、誰のためにやっているんだい」
 彼はとうとうその神経質な仮面を捨てて、年相応らしい、二十代らしい若者の表情を見せた。何かを考え込む様子に、少しだけほっとする。同時に、私自身にも少し落胆した。何故、今までこれを言ってやらなかったのだ。彼を馬鹿にされるままにしておいたのだ。
「……俺は……」
「あくまでこれは僕の考えだよ。でもね、君はもう、親父さんからもらったその平等病から抜けて、君自身で考えていいんだ。……家庭を持つのだから」
 彼は「いや、しかし」「あるいは」などと目を白黒させながら考えている。今まできっと思いつきもしなかったのだろう。
「愛の平等など。そもそも、測りようもない話だ。――そんなものも、いくらでもある」
 彼は言葉を反芻しながら、テーブルの上に肘をつき考え込んでいる。その様子を見ながら、私は「よかった」とほっとした。
 少しは彼の心に波紋を投げ掛けられただろうか。きっかけになっただろうか。
 ――そんな慢心がいけなかったのかもしれない。
 とんでもないことをしでかしたと気づいたのは、それから四年も五年も経った時であった。
 平等病の彼のところにも子が生まれ、家族ぐるみの付き合いをするうちに気づいたが、彼は以前ほど平等、公平、と口にしなくなった。きっと家庭を持ったことで少しばかり視野が広がったのだろう、と高をくくっていた。
「少し、付き合いやすくなったな」
「そうだろう」
 あの無難で悪態付きの友人は、ぶすくれながらもいつだかこう認めた。私は得意だった。そうだ、彼は平等病を自ら克服さえする、ただの実直で優しい男なのだと自分のことのように喜んだ。
 とはいえ彼は持ち前の平等性で、男だてらの家事育児を率先してやっていたらしい。当然その当時では少しばかり風変りな習慣ではあったのだが。これが果たして平等病のなせる技なのか、彼自身が持ち合わせていた優しさゆえなのか判断は付きかねたが、とかく例の擦り傷の奥さんはますます彼に惚れ込んでいき一方我が家では家内の嫌味がひどくなった。
 だがそれすらも私は得意であった。もしかしたら私の手柄であるのかもしれない、とすら考えていた。
 私たちは喫茶店で会うことはあまりなくなったが、近所であるためか時おり散歩道などで会うことがあった。
「親父がこっそり、俺と同じ本を読ませているようだった」
 ある日の筋交いでそんなことを聞き、思わず吹き出すところだった。あの強硬派の親父さんは、今度は孫である幼子にナンとか主義の本を読ませているという。
「まだ三つだろう。早いんじゃないか」
「ああ。それもそうなんだが。その前に、Tは……親父に全て『どうして』と返していて……、結局親父の方が先に降参していた」
「親父さんも孫には形無しだな」
 純粋無垢であるTくんの勝利である。私は笑った。安心したのもあった。ああ、彼の平等病は三代続かなかったではないかと、私は彼の親父さんに勝利したのだとさえ思った。当然、彼もそう思ってくれているだろうと考えた。
「どうして、そう思うのだ」
「……え?」
 彼は笑わず。聞く前に、彼はかつての鋭いまなざしでこちらを見据えてきた。
 私がきょとんとしたせいか、「すまない、何でもない」彼は慌ててそう言って踵を返した。よろよろとした足取りであったが、何よりも最後に見た彼の横顔が以前に増して四角四面であったので、何だか数年前の彼に戻ってしまったようで一抹の不安を覚えた。
 思えばこの時もう、崩壊しかかっていたのだ。
 彼と彼の親父さんの訃報が届いたのは全く同時であった。事故で二人とも大けがをし、それがもとで一日の内に亡くなったのだと電報は知らせた。ただその事実が青天の霹靂で、私は取るものもとりあえず、家内に頼んで色々と準備をして葬式への参列を終えた。あまりの驚きに、挨拶は出来ていたか、焼香も出来ていたかすら覚束なかった。実感のないまま帰ってきて、ぼんやりと物思いに耽っているといったい何ごとか、彼の細君が一枚の書面を携えて訪ねてきた。
「この度は、誠に……」
 ぼんやりした頭のままで客間に通す。葬式場でも見たはずの細君の喪服を再び見た途端、ようやくじわじわと背筋に悪寒が走った。彼の死んだことを唐突に理解したのだ。目から一気に涙が溢れそうになる。
 顔を張りつめて涙を押し込むと、その、かつて変わり者のお嬢さんだった細君は蒼白な顔面のまま紙の束を差し出してきた。そう言えば彼は筆まめだった。結納当初は何度も葉書を出してきた。では私に宛てた手紙であろうか。
「故人の遺書でございます」
 手紙なんぞを遺してくれていたのかともう一度溢れそうになった涙は、今度は細君の言葉で引っ込んで、そして私の背にはもう一度悪寒が走った。事故で何故遺書ができるのだ。入院中に書いたということか。いいや、回復する間も亡くなったと聞いたような気がする。では何故。手紙を受け取らぬまま、馬鹿のような面で細君を眺める私に、その美しい細君は隈を作った目を伏せながら続けた。
「相打ちのようなものだったのです」
「相打ち? ……とは、いったい?」
 細君は悲しそうに笑うばかりだ。何だか嫌な予感がしながらも、彼の遺品でもあるので受け取った。表書きには「Sへ」とある。私の名だ。
「Sへ。我が唯一にして最大の友へ。今まで大変世話になったね。突然こんなことを言われても困るだろうが、君には本当に感謝している。俺のこの平等へのこだわりに『平等病』という名をつけてくれたからだ」
 感謝の言葉だ、表面上は。しかしそれなのに、私の嫌な予感は当たっていると誰かの声がした。
「名をつけてもらえると不思議なもので、君のおかげで俺は一度『平等病』を脱した。あの時、誰のための『平等病』かという問いに俺は何も答えられなかった。それこそが答えだったのだ。そして病であることにも気がついた。果たして誰のためでもない『平等病』など、何のためにしているのかと。そうして俺は決断した。ここから脱しようと決めた。おかげで妻とは問題なくやっている。Tもいい子に育った。順調だった。――だがある日から、夢を見るようになった。Tと年変わらぬ頃の、俺の姿だ」
 グッと、首の奥を絞められるような感覚がした。
「夢を見る度幼い俺は言うのだ。『果たしてこれは平等なのか?』と。俺は初め『平等かどうか考えても仕方ないだろう』と答えた。だって俺は、もう『平等病』などではないはずだからだ。しかし幼い俺はもう一度言った。『では、俺は苦しんだままでいいのか』と。『お前の息子は親父にも爺にもかわいがってもらって幸せだ。お前も妻をもらい、子ができ幸せだ』俺は怯んだ。『平等病を悪とするのもいい。しかし、幼い頃の俺はどうなる。今まで生きてきた俺の不幸はどうなる』そう言うのだ。『お前のその幸せな人生は、俺に対して平等なのか?』百点を取れば頭を叩かれ、零点を取れば冷水を浴びせられた頃の俺は言うのだ。『不平等で良いというなら、幼い頃の俺は苦しんだままで良いのだな』と。俺は再び、返す言葉を持たなかった。そして、その幻影は、少しずつ、夢を飛び出してきた。現実へと侵食しだした」
 そこまでしか、今は読めなかった。この息苦しさから一刻も早く脱したかった。
「……事故、事故、というのは……」
「はい、察しの通りでございます」
「……」
 刃でも突き立てたのだろうか。あるいは喧嘩か何かで、打ちどころが悪くてお互いそのまま。優しい彼のことだ、もしかしたら幼い頃の彼にそそのかされて、彼に平等病を植え付けた存在に、平等な制裁を加えたのかもしれない。
 私はやはり、とんでもない思い違いをしていたのだ。
「僕か……、僕が……」
 言わなければよかったのだ。私が独りよがりに、彼に平等病の不要性を説いたのだ。あまりにも、独りよがりだった。幼い頃の彼の苦しみから目を背けて、ただ誰のためのものなのだとそう聞いた。
「生前、主人はSさんに感謝してもしきれないと、こんな俺の唯一の友であると言っておりました。私たちのことも後押ししてくださったと」
「……」
 細君の言葉が刃のように突き刺さった。震える手で手紙に目を落とす。まだ、もう一枚続きがあった。読むにはまだ勇気が要った。きっと彼は
「お義父さまは」
 私の様子に気づいたのか、細君は声をかけてくれた。
「お義父さまは笑って『おれも悪かった』とお答えになったのです。きっと孫にやり込められて、お義父様のお考えも変わっておられたのです」
「だから、ですか」
「わかりません。しかし主人は急に、激昂して……『それでは俺は一生不幸ではないか』と……」
「……」
「親子喧嘩のはずでした。ケンカなら、すれば良いとさえ私は思っていたのです。それが最もだと、すべきだと」
 だが読めなかった。
 私もまったくの同意だった。彼の平等病はただ、ナンとか主義の本に当てられた親父さんが軽薄に彼に教え込んだだけのものだ。それに名づけたのは私で、事実そんな病など存在しないのだ。そこにあるとすれば親父さんの洗脳と虐待ばかりだ。だから彼が親父さんとぶつかって、少しでも気を晴らすことができるのであればそれでよかったのだ。
 きっとそれが、普通の、本当の、あるべき――。
 ――彼は常軌を逸しているからね。
「……」
 ある日聞いた、無難で無礼で、そして心無い友の言葉が脳裏にこだまする。あるいはそれが正解であるとでも言うように。
 彼は、親父さんの平等病から脱することなどできなかったのだ。いいや、違う。それを一層深め、また唯一の友と呼ばれた私でさえ、彼自身ともいえる平等病から決別させるよう仕向けたことで、彼はいっそう孤独になってしまったのだ。
「いいえ。Sさんのせいでは――」
「いや僕の責任だ」
 私が最後の糸を手放したのだ。優しい彼の、不器用で真面目な彼の、ふざけた父親の訓告を守り続けるほど誠実な彼の最後の糸を手放した。
 友であるなら、平等病と蔑み否定するべきではなかった。
 友であるなら、彼の平等病をそのまま肯定するべきであった。
 細君の無理解な言葉が客間に響く。
「でも私はよかったと思うのです。今までの主人ならきっと、育ててもらった間といじめられた間の平等を図るばかりでしたでしょうから」
 違う、そうでないのだ。彼は、彼はただ理解を求めていたのだ。それだのに私は、彼の特性を、彼自身でもある平等病を「果たして誰のために『やっている』のか」などと突き放した。
 理解すべきは、私であった。
 私が、平等病ごと、彼を殺した。
 細君は我が家を去るまで私の様子を心配していたが、憔悴はお互い様ではあり、とかくその背を見送った。
 家に入り、家人の声など耳に入らぬまま書斎へたどり着いて、そのままへたり込む。
 彼の孤独の原因は親父さんから大事に受け継いだその窮屈なまでの平等性と公平性を結局捨て去れぬことにあった。
 いつまでもいつまでも、当の親父さんが捨ててまでも、捨て去れぬことにあった。常軌を逸するほど優しく、不器用で、実直な男なのだ。
「君は……」
 ただ、ただそれだけの、ただそれだけの友人を、最後まで理解してやることができなかった。
 幸せだったか聞く権利もなくした私はいつまでも彼の手紙を放し切れないまま、部屋の中をぼんやり見つめていた。
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