あらすじ:基本的にはポジディブだけどたま~にマジでダメな日があってそんな日は出陣とか全部なしにして初期刀に色々任せて自室にひきこもってるんだけど、弱ってるとこ見られたくないなあって思って肥前にも部屋によらないように伝えといて、って手配したら後で文句言われる主肥
*
いつもの朝のはずだ、いつも通りに、やるべきことをやればいい。
そう、頭では分かっているはずなのに、鏡の中の顔は沈んだ表情をしている。
息を吸って、吐いて、吸って、吐いて。肺にめいっぱいの空気を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。いつも通りにと、落ち着くはずに何度も深呼吸しているのに、やはり気分は曇ったままだった。
この本丸の審神者は、基本的にポジディブな人間であった。鍛刀運が悪い時には「まあそういうこともあるか」で流し、阿津賀志山で一向に現れない三日月に対しても「まだその時じゃないか~」と焦らず、大倶利伽羅の舌打ちを「鳥の囀り」と評し、肥前の舌打ちは「ファンサ」ということになり、その後構い倒しすぎて背負い投げされた際には「面白い刀だな~」と笑った男だった。
月に一度の健康診断は毎回オールAをたたき出し、「心身ともに健康すぎて逆に怖い」と担当のこんのすけに言われたこともあった。多少うっかりが過ぎる事があるものの、初期刀を初めとした本丸のしっかり者達のおかげでうまくバランスが取れた本丸運営だった。
ただ、年に1回とか、数年に1回とか、その程度の頻度ではあるけれど、どうしても「あ、今日はむりだ」と感じる日がある。いつものポジティブさがすべて抜け落ちたかのように気分が沈み、陰鬱とした気持ちが胸を占めて、ほとんど一日中ベッドから起き上がるのも困難になる。審神者になってからそんなことが数回あって、その度に何か病の前兆じゃないかとか、ついに精神にきたかなどと危惧するものの、調べても各項目には相変わらずAが並んでいるだけだったので、もう諦めた。今のところ、「そういう一日」があっても本丸運営に支障が出ないように手配するだけのことだった。
さて、「そういう一日」は決まっていつもより早く目が覚める。とりあえず審神者は渾身のちからを振り絞ってベッドから這い出ると、洗面台の前で鏡をのぞいてみる。そうすると、目が覚めた時点の「今日だめかも」が、その瞬間に「今日はだめだ」になった。
審神者が寝起きする部屋は執務室から少し離れている。執務室と隣接した和室が元々就寝用に割り当てられた部屋だったが「和室で寝るのは慣れないし落ち着かない」という理由で、現世に合わせた仕様のものを離れに作ったのだった。入口はドアだし、床はフローリングで、寝具はベッドだ。かつての自分の部屋に合わせてあるので、簡易的ではあるものの家具もそろえてあるし、広くはないが洗面台とバスルームもついている。審神者生活が数年続き、一日のほとんどを本丸で過ごす今ではそこまで寝る場所にこだわりはないものの、こういう朝には、部屋が離れていてよかった、と思う。
顔を洗い、陰鬱とした顔から眼を背けると、携帯用端末を手に取って何回か画面を操作する。何回か呼び出し音が鳴り、やがて「主?」と戸惑ったような初期刀の声が応答した。時間的に朝食の準備をしているのだろう。後ろで数人が動く音がしている。
「どうしたんだい。珍しいね、こんなに朝早く」
「あー、うん、まあね」
寝起きということを差し置いても声が喉に引っかかって掠れてしまう。何でもないように話してみようと試みても、結局声にならない音が漏れただけだった。今更取り繕っても仕方ない、と諦める。
「歌仙さん」
そう、普段は呼ばない呼び方を口にすれば、電話の向こうの彼に伝わるだろう、という甘えもあった。まだ本丸に初期刀と数振りだった頃、当時の自分より年上に見えた初期刀をそう呼んでいた時期がある。
「今日、だめっぽい」
それだけ告げると、歌仙は少し黙ったあと、「わかった」と静かに答えた。
「食事は?」
「いいや。部屋に何かしらストックあるし」
「遠征部隊は昨日の夕方で全員帰還してるから、今日の出陣を全て取りやめるということでいいかな。内番は昨日と同じで」
「うん。それでいい。……ごめんね」
「構わないよ。何か必要なら、また知らせてくれるかい?」
「ん、あ、えっと」
「?」
一瞬、言い淀む。そういえば、彼が本丸にきてからこんな状態になるのは初めてかも、と思い至った。今やもう何度もこの寝室で夜を共にしている恋仲の刀だ。
「……肥前、さあ、昨日夜戦部隊だったよね」
「ああ、そうだね。今日は昼まで起きてこないんじゃないかな」
「だよね。……そしたら、肥前に、今日は俺の部屋に近付かないように伝えてもらえる?」
「……それは……構わないけど」
「俺がそう言ってる、って伝えていいから。悪いけど、説明も任せる」
「……分かった。伝えるよ」
「よろしく」
声色で、歌仙が何か言いたそうなのは電話越しにも分かったが、とにかく審神者には余裕がなかった。この本丸で長い付き合いの初期刀と話すのが精いっぱいで、あとはこの一日をどうにかして乗り切ろうという気持ちだけだった。自分でもわかるくらいに、普段通りに振舞えないし取り繕えない状態は、恋仲であろうと絶対に見せたくない。端末を枕元に放り投げると、ベッドに崩れるように沈んだ。
朝早く目が覚めたものの、布団にくるまって目を閉じている内に寝てしまったようだった。出来ればそのまま眠って一日を乗り越えてしまいたいのに、「そういう一日」であっても目が覚めてしまうくらいには腹が減る。
「……はあ」
口から出た溜息は自分でも嫌になるくらい重い。のろのろとベッドから落ちるように離れると、簡易的な栄養補給パックを冷蔵庫から出した。滅多に口にはしない味気ないものだが、とにかく何もしたくない、けど食事はとらないとまずい、くらいの日にはちょうどいい。
さて、この後どうするか。普段以上に寝てしまったからこれ以上寝るのはよくない気がするし、またベッドの中で何も考えずに乗り越えるか……と、考えていた時だった。
コンコン、
ドアを軽く叩く音がする。
ゼリー状の栄養補給剤をのろのろと飲み込んでいた審神者は、やはり緩慢な動きでドアに目線をやった。
コンコン、
間を置かず、また叩かれる。
誰も来ないはずなのに、と首を傾げながら、
コンコンコン、
三回目は少し早く。
いつも食事の心配をしている歌仙のことだから、ついに部屋まで来たのだろうか、と思いながら、審神者はほとんど反射的にドアを開けた。
「歌仙? 食事は別、に、」
開けながら、覇気のない声が喉から漏れる。
「あいつだったらいいのかよ」
そう言って睨むようにこちらを見上げる緋色があった。審神者は再び反射的にドアを閉めようとしたものの、影が隙間からするりと入り込む方が早かった。
「あ、ちょっと、あ、ああ~」
カーテンを閉め切っているから部屋は薄暗いが、肥前の目では部屋の暗さなど関係ないと分かっているから顔を背ける。申し訳程度に手で隠すものの、居た堪れなさは増すだけだった。
「……歌仙に聞かなかった?」
「聞いた」
「じゃあ、さあ」
「なんで、それでおれが言うこと聞くと思うんだよ」
「ええ……」
立ち尽くす審神者を鼻で笑い、肥前は「めしは」と尋ねる。
「食べたよ。いま」
「……それ、めしじゃねぇだろ」
肥前は審神者の手にある空のパックを睨むと、手にしていた皿を突き出した。
その後「今日はいいから」「は?」「あの……」「は?」「ええ……」というやり取りがあったものの、結局審神者は無理矢理手を引かれるままに椅子に座り、皿にのっていた握り飯を一つ、時間をかけて腹に納めた。いらない、とはそれ以上言えない雰囲気だったし、言い合う元気もなかった。全部食べてしまうと、目の前に湯気の立つカップが差し出される。すぐ口をつけられる程度の温度に調整された白湯を飲みながら、審神者はやはり居た堪れない。沈黙が苦になるタイプではないが、本調子ではない分、落ち着かないという気持ちの方が勝る。ごめん、ありがとう、どうして、等々、言いたいことは色々あるのに、喉からうまく声が出ない。
「で?」
肥前の低い声にも、一瞬反応が遅れた。
「……で、って……」
「どうしてんだよ。めしのあと。いつもは」
「いつも……べつに、なにも……寝れたら寝る、し」
ず、と誤魔化すように白湯を啜る。調子は出ないが、体が少し温まってきて、ほんの少し、毎度の「そういう日」よりはもやもやした気持ちが晴れている気がした。けれど、気がするだけだ。
「……まあ、寝れなくても、ベッドでじっとしてたら、その内朝になるし」
「へぇ」
聞いておきながら、そう言ったきり肥前は何も言わないので審神者も黙って残り少ない白湯を啜った。
カップをテーブルに置くのと同じ位のタイミングで肥前が立ち上がったので、出ていくのか、と思いながら、ほっとしたような寂しいような気持ちになった。けれど、こちらを振り向くと「ん」と顎でベッドを示す。
「……?」
「寝れたら寝るんだろ」
さっさとしろ、と憮然とした表情で言われて、思考がいつも以上に巡らないまま、審神者は曖昧に頷いた。いつもなら、確かに適当な食事を摂り、ベッドで丸くなって時が過ぎるのを待っている頃だ。ベッドの上でわだかまったままの布団を持ち上げ、ごろりと横になる。と、音もなくもう一つの影が布団と審神者の間に潜り込んだ。
「っ、え、え?」
「んだよ」
当然のような顔で横に寝転がった肥前が、やはりむすっとした顔で審神者を睨んでいる。もぞもぞと布団の中で動くと、審神者が言葉を重ねる前に背中を向けてしまった。冷え切ってしまった布団の中で、肥前の背中と触れた場所だけがあたたかい。おそるおそる、後ろから抱き締めるように腕を回したが、抵抗はなかった。
「……あったかい」
思わずつぶやくと、「そうかよ」とそっけなかったが、布団の中で審神者の冷えた爪先に足が触れる。体の内側も、外側もじわじわと熱くなり、そうか、さっきまで冷えてたのか、と気付いた。目の前にあるうなじに顔を埋めると、さすがにびくりと肩が揺れる。
「……すんのかよ」
「っし、ないよ。このまましたら……なんか、ひどい男じゃない? 俺……」
しっかり抱きこまれた肥前は大人しいが、だからなのか、余計に居た堪れない気持ちもあった。
「肥前の、優しさにつけこんでるみたいな……」
「そんなんじゃねえよ……」
「優しいじゃん、今日」
「……」
数秒の沈黙があり、抱き締めた手に、肥前の手が重なる。
「……調子が狂う。お前が、そんなだと」
「うん……」
「おれを遠ざけるのも気に入らねえし」
「あー……」
「……それだけだ」
「そっか」
握られた手も熱く、審神者は瞼が重くなるのを感じながら、そっか、と繰り返した。
「……もう寝ろよ」
「ん、」
肥前の低い声も耳に心地よく、審神者はまどろみに身を任せ、言われるまま、目を閉じた。
*
しばらくは落ち着かないようにもぞもぞと動く気配があったが、やがて規則正しい寝息が聞こえ始め、肥前は審神者の腕の中でそっと体の向きを変え、向かい合う形でその寝顔を覗き込んだ。いつもと同じように、完全に眠ってしまっているのを確かめてから、そっと審神者の胸に耳を当てる。とく、とく、とやはり規則正しい鼓動が聞こえて、自分がほっとしているのを感じた。
歌仙から言伝を聞いた時、肥前の喉からはまず「は?」と不機嫌な声が漏れた。多くない頻度で『そういう日』があるというのは理解したが、それで部屋に近付くな、とはどういうことだ、と思う。自分が構いたいときにはこちらの機嫌もおかまいなしにそうするくせに、随分身勝手な言い分だ。
「そういう反応になるだろうね」
歌仙は気を悪くした様子もなくそう言って、「まあ、言われたことは伝えたからね」と続ける。
「主はそう言ったけれど、君が勝手に部屋に入るというのなら、僕は止めないよ」
「……は?」
「ここにたまたま余ったご飯で作ったおにぎりがあるから、もしもきちんと食事を摂っていない者の胃に入るのなら、誰かが持っていっても僕は全く構わないし」
「……いいのかよ」
「伝えて、とは言われたけど、近付かせるな、とは言われていないからね。……なんて、これは屁理屈かな」
心配なんだよ、と歌仙は眉尻を下げた。
「何ともない、と本人は言っているし、実際検査でもそういう結果にはなってるけれどね。審神者を長く続けている人間にはよくあることだとも耳にしたよ」
それは一時期政府施設に出入りし、多くの本丸のデータを目にしていた肥前も覚えがあった。審神者を長く続けていればいるほど、現世と離れる時間が長ければ長いほど、その存在は不安定なものになっていき、自身の存在を、希薄に感じるようになっていく。多くの刀に慕われていても、功績を残していても、それは変わらないし、どれだけ立派な審神者であっても、段々その不安定さは精神の衰弱にも関わってくる。
肥前からすれば、人斬りの刀である自分はただ斬ればいいのだと思っているし、それ以外の価値など考えるだけ無駄だと思うが、人間はそういうわけでもないらしい。それでもこの本丸の審神者はそういった神経の衰弱とは無縁に見えたが、頻度が限りなく低いだけで、こういったことは今までにも何度かあったのだという。
「一日経てば元通りだというし、今までもそうだったけれど……それでもやはり、弱った声を聴くとね……」
「……あんたが様子見に行けばいいじゃねえか。……心配なら……あと、初期刀だろ」
「僕の役割は、別にあるからいいんだよ」
「……?」
含みのある言い方に何とも返せずにいるうちに、胸元に皿を押し付けられる。肥前の行動は決められたようなものだった。とはいえ、歌仙に背中を押されずとも、肥前は審神者の言うことをきくつもりなどなかったのだが。
弱った顔を見て文句を言ってやると思ったものの、しつこいノックの後ようやくゆっくり開いたドアの向こうには想像以上に弱った顔があったので、一瞬面食らったことは確かだ。いつもいつも、腹立たしいほどにニヤけた顔が、今日は影も形もないどころか、別人のように表情が抜け落ちて、血の気がなくなった顔は人形のように白かった。かと思えばこちらを確かめもせずに開口一番「歌仙?」だったので、反射的に普段通りの苛ついた声が出たのは結果的に調子が戻ったので良かったとも言えるが。
掴んだ手もぞっとするほど冷えていたものの、食事を摂らせて思いつく限りの方法で暖めれば、どうにか普段感じているくらいの体温にはなったようだったのでほっとした。ほっとしたことは、絶対に悟られたくない。ただ、すっかり温まった腕の中で、肥前は審神者の鼓動に耳を傾けた。共寝の夜にはいつもそうしているように。審神者の腕におさまって、審神者の胸に耳を当てて、そうして生きている音を聞くと、肥前もどうしてか安心して眠ることができる。知られれば、どうせ腕におさまった時点で必要以上に構われることが分かっているので、審神者がすっかり寝入った後に潜り込み、起きる前には離れるのが常だった。とく、とく、と静かな音を聞きながら、肥前はいつものように重くなる瞼に抗わなかった。今日だけは、鼓動の主が起きるまで、普段通りの、へらへらした顔を確かめるまで、ここにいてやってもいいか、と思いながら。
おわり