#あなたの髪が綺麗だから
 千束、と呼ばれ、彼女が顔をあげると、開けっ放しのドアから髪にタオルをまいたままの湯上がりらしく、顔をうっすらと上気させたたきなの姿があった。残念ながら首から下はバスタオルで海苔巻きになっているわけではなく、寝巻代わりのジャージとTシャツだったが。
「どしたの?」
「浴室のドライヤーが壊れてしまったので。千束、お風呂まだですよね。ミズキさんか店長に行っておけばいいのかな?」
「いまポチれば明日配送してくれるんじゃないかな」
 千束は自分の手の中のスマホを指してそう返す。なるほど、とたきなは頷いて、「だったらお任せします」と告げて、踵を返そうとする。
「ちょっと待って、その髪どーすんの」
 たっぷりと長さがある彼女の髪は一朝一夕のタオルオフでは乾くまい。
「枕をバスタオルで巻いて、そのまま寝てしまえば乾きます」
「わー、ダメ、それダメ、髪の毛痛んじゃうって」
「はあ」
「ちょっと待ってね。……ええと、これだ、これ」
 千束はスマホの上で素早く指を動かすと、目的の情報が見つかったらしく胸を張ってたきなへと向けた。
「タオルで出来るだけ水分を取って、そうそう外側から乾くから中のほうを丹念にオフして、もういいかな?」
 千束の言うままに新しいタオルを何枚か用意して、髪の毛から水気を拭うと、その上から改めて乾いたタオルを巻きつけて更にその上から彼女が使っていた電気毛布をスカーフみたいにすっぽりとかぶせた。
 毛布から千束の匂いをかぎ取り、まるで彼女に包まれているような錯覚を覚え、電気毛布からではないほのかな熱がたきなの内からにじむようだった。
 そんな困惑めいた感慨を拭うように、たきなはあえてちょっとむくれた顔をしてみせる。
「頭が重いです」
「三十分くらいで乾くから我慢我慢」
「扇風機でも良かったのでは?」
「何言ってんの、もう冬なんだから風邪ひいちゃうよ!?」
「……千束は意外に寒がりですね」
「たきなが耐性あるの。京都って冬寒いんだっけ」
「はい。夏も暑いです。盆地ですからね、熱気がたまって湿気も高いです」
「ぐえ~。でも東京もおんなじか」
 嫌そうに顔をしかめた千束だったが、ふと誘われるようにたきなの、タオルオフだけで十分だったので毛布巻きからこぼれて垂らされた髪の先に触れる。
「いいドライヤー買おっか。マイナスオイオン出てるやつ?」
「普通ので十分だと思いますが?」
「たきなの髪綺麗だからさー」
「そうですか?」
「自覚ないんだー」
 弄ぶように千束は掌に取ったたきなの黒髪を落しては、もう一度すくいあげる。
「あんまり手をかけたりしてないので、そう言って貰えると嬉しいです」
「たきなは髪まで元気なんだね~」
 その言い方がおかしくて、たきなは目を細めた。
 たきなからすれば千束の髪のほうがずっと綺麗なのに。光に透けて、彼女が動くときらきらとその笑顔みたいに揺れる。硝煙と血の匂いがする暗闇の中でも少しも損なわれないほどに。それとも、あんな眩しいものに縁取られているからこんなにも目映いのだろうか。
「今度編み込みとかしていい? たきなくらい長さがあれば色んな髪型ができそう。もっと愛でたい」
「愛でたい」
「そ。真っ黒でつやつやして、しっかりコシもあって癖もつきづらいし、枝毛もないでしょ! うん、A5クラスだ」
「お肉みたいに言わないでください」
 唇を尖らせて、でもほろりとたきなは笑みをこぼした。
「じゃあ、星三つ!」
「どっちみち食べものじゃないですか」
「そうだな、食べちゃっていい?」
 がお、と口をぱかっと開けて、千束は爪を立てるポーズを取ってみせる。ライオンというよりはネコみたいだけど。
「食べても美味しくないですよ」
「食べてみないと分からないじゃん」
 千束はそのまま、はくっとたきなのシャツの肩口のあたりをかじってみせる。じゃれるような甘噛みが、それでも、しくりとにじむような何かがたきなの体に静かに伝わっていく。たきなは千束がしたいままにさせながら、その髪に指を差し入れる。
「くすぐったいよう」
「こっちもくすぐったいです。……なんで、千束は髪を伸ばさないんですか?」
「うーん、前はちょっと伸ばしてみようかなって思ったこともあるけど、手入れするの面倒くさいでしょ。だからやめた」
 無造作な言葉だったけれど、たきなははっとする。
 こうしてくっついていても千束からは伝わってこない鼓動。
 彼女の命を繋ぐ、つくりものの心臓。それが無事彼女の中で定着するまで続けられた入院生活。
 こんなにも明るくからりとした笑顔の向こう側にはそんなものを抱えて、そして彼女は今、ここにいる。たきなの前にいてくれる。
だから。
「あの、千束」
「なあに」
「わたし、いつか千束の長い髪の先に触ってみたい、です」
 まだ肩口に触れるくらいのその髪に指を絡ませ、そう囁いた。
 それはかつてDAの本部寮に行くよりも、リコリスの制服に袖を通すよりも、たきなの中に生まれた強い望みだった。
カット