「幸せ」
めぐりあわせがよいこと。幸運。幸福。
「幸運」
運がよいこと。よいめぐりあわせ。
「幸福」
不自由や不満もなく、心が満ち足りていること。
言葉の意味であれば、当然、知識として備わっている。どういった状況で湧き上がるかも知っている。そんな状況を巧みに操るのが、スパイという仕事だ。
だが、知っているのと実感するのとでは、全く違う。人並の『幸せ』など、IDと共に燃やしてしまった。故に、任務中に与えるそれは、形だけ取り繕った『何か』でしかない。
とはいえ、こんな自分でも、ずっと幸せを感じてこなかった、というわけではない。まだ何も知らなかった子供の頃は、確かに幸せだった。優しい母がいて、はしゃぎながら駆け回る友がいた、あの頃は。
例えば、手を繋ぎながら前を歩く、母子のように。
例えば、ふざけながら脇を駆けていった、子供たちのように。
「ロイドさん?」
隣を歩く仮初の妻が、顔を覗き込む。
心配そうに眉尻を下げた様子に、後ろめたさを覚えた。周囲へのアピールが主目的とはいえ、デート中にぼんやりするなど、失礼にも程がある。
「やはり、日を改めた方がいいのでは……」
仮初の妻に向けて、首を振る。予定変更は不要だ。あの殺人的なスケジュールでは、次の機会はいつ訪れるか分からない。
(『次の機会』……?)
オペレーション梟は長期任務だ。アーニャの様子を見れば、当分の間、終わりそうもないことは素人でも分かる。であれば、このような機会を設けることは、度々あるだろう。
だが、先程湧いた思考は、仕事を計画するような、義務的なものではなかった。この時間が終わることを惜しむものだった。
(何故だ?)
貼り付けた笑顔の裏でいくら考えても、何の答えも出てこない。それらしい理由も浮かばない。感情の精査は基本中の基本だというのに、空回りしてばかりだ。
だが、はっきりとしたことが、一つだけある。
「今日のデートを、とても楽しみにしていましたから。ここで終わりにしたくないです」
作った笑顔で囁けば、彼女がはにかむ。すると、胸の奥が熱を持ち、不可解なくすぐったさを覚えるのだ。
さらに不可解なのが、この理解不能な感情が、不快ではないこと。むしろ、好ましい。
「そろそろレストランの予約の時間ですし、行きましょうか」
「はい!」
柔らかい笑み。春の日向にいるような温かさ。この優しい表情を形容する言葉は、いくらでもある。
そんな彼女につられて、自身も笑みを浮かべた。それは、意図的に貼り付けたものなのか。それとも、自然と湧いたものなのか。自分でも分からなかった。