夏を孕んだ空気は重く沈んでいるが、流動的な人混みのせいで、溶け合いながらもしっかりと体にまとわりついてくる。
ハチ公前。揚羽の体を借りている真広は、この場所にどういう服で来ればいいかわからなかった。真広である揚羽は、学校終わりで当然制服を着ているだろうし、出来ればそれに合わせた服で。そう思考に至ったが、揚羽は高校の制服を持っていなかった。通信だからなのか、私服登校のようで、一見コスプレにしか見えないなんちゃって制服がクローゼットにしまわれていた。
「しょうがない……」
誰に聞かれるでもないその言葉を、あらかじめ言い訳するみたいに真広は言った。
ハンガーから服をとって、ベッドに投げた。
中央に飾られている青い蝶ネクタイがやけに存在感を放って見えた。
入れ替わってからの着替えは、まだ一回しかしたことがなかった。
入浴も出来るだけ拒んだ。揚羽の両親と鉢合わせることはなかったため、風呂に入れと言われることがなかった。しかし、どれだけ時間を引き伸ばそうといずれやるべきことはやってくる。
「臭いな……」
着ていた服を脱いで、制服に手をかけた時、揺れた衣服から香った芳香剤の匂いと自分の体臭を嗅ぎ比べて、一日以上風呂を入っていない事実が襲った。
いくら外だとは言え、隣を歩くだろう揚羽にそれがバレたら、真広はどうなるかわかったものじゃない。
その予感は、真広に恐怖という形で頭を過った。
しかし、揚羽はどちらの屈辱をとるのだろう。許すのだろう。
下着姿になった真広は、脱ぎ捨てた部屋着をもって脱衣所へ向かった。
そんな訳で、制服に身を包んだ真広は、ハチ公前の広場で揚羽を待っていた。
人が多いからか、気にしすぎなのか、ちらちらと見られている感覚を真広は覚える。
化粧はしてこなかった。マスクもしようと考えたが、暑いのでやめた。
揚羽の容姿が端麗であることは真広も自覚していた。しかし、男の視線がこうも醜く突き抜けなのは、真広にとって意外だった。
もう間も無く、揚羽が来るというのに。真広はその場から離れたくて仕方がなかった。気持ち悪いの五文字が心肺に巻きついて呼吸も上手くできない。
(何か変な格好でもしているのか、俺は?)
自分の格好に自信があるわけでもなかった。失敗しないように、それだけを考えていた。
自然と視線も俯きがちになる。
(こういう視線を喜べたら良かったんだろうな)
〈そろそろ着く〉
揚羽からメッセージが入る。早く来てくれ、と祈る気持ちで真広は「わかった」と打つ。文章になると、真広は淡白になりやすかった。
待って数分、マスクをした学生服の男が駅の出口の方向から歩いてくる。こんな暑いのに、マスクをしているということで真広はその男の状況を把握出来た。きょろきょろと辺りを見回して、誰かを探しているのは一目瞭然だ。しかし、人を探しているはずなのに、人を見ているわけでもないように見えた。人の顔を視界に入れることを避けているみたいに。
自分が不審な行動をとっているのを真広は遠くから見ていた。どうして揚羽はこんな場所を選んだのだろう。
真広は軽く手を挙げる。揚羽の探し方では、いつまで経っても見つけてくれる気がしなかった。
すぐにゆるい制服姿の少女を揚羽が視界の端に捉える。駆け寄って、
「お待たせ。顔色悪いけど、大丈夫?」真広の異変をすぐに気付きながらも、「こう見ると私ちゃんとかわいいわね」
とぶつくさ言っている。
「しょうがないけど、化粧してないのね。しょうがないけど」
「そっちだってマスクをしているじゃないか」
その言葉に反応して、揚羽はマスクをとる。他人目線で見るはじめての自分の顔に、真広は羞恥のような不思議な気持ちになった。自分がいる。
あっつー、と小声でこぼしながら揚羽は、自身の顔を見つめた。
「やっぱり化粧は必要ね。代わりにこれつけてくれる?」
そう言って、揚羽は自分がつけていたマスクを真広に渡そうとする。
「いや、でも……」
「公衆衛生の観点から良くないって?」
「そんなこと言ってないけど」
「じゃあ何」
この暑い中、真広は反論する気も失せて、マスクを受け取った。視線に怯えていたのもあって、衛生観に目をつぶれば今すぐ欲しいものだった。
「女性って、大変なんだな」
揚羽はぽつりと溢した真広の発言に疑問符を浮かべる。
「そうだよ、主語がでかすぎて何の話かわからないけれど」
独り言だよ、真広は額に浮かんだ汗を袖で拭いながら言った。
「行こうか」
ハチ公前から離れて、真広と揚羽は、歩き出した。放課後の日が傾いている時間帯とはいえ、真広は十数分も歩くことを後悔した。
地図アプリで出発地から目的地まで示された経路を辿ると、五階建のビルに行き当たる。途中、人気がなくなってからマスクを外した真広だが、到着することには二人とも汗を掻いていた。
見上げると三階の窓には、「ヨスガデザイン事務所」とステッカーが貼られている。
「ここだね」