金田がその日は単発のバイトだというので、じゃあ迎えに行くと言ったのは俺だが。
「どこ……?」
確かに、住宅地に足を踏み入れた時点で嫌な予感はしていた。そして教えられた住所に辿り着いてみると、果たしてその予感は当たっていた。目の前の建物と地図アプリの画面とを見比べる。同じ建物だから俺が間違えているわけではない。
「ぜってー番地入れ忘れてる」
周囲に立ち並ぶのは似たようなマンションばかりだった。何のバイトだよ。しかも、もしこの内のどこかでバイトしてるなら部屋番号も入れ忘れてるってことだろ。
少し早く着いたし……と、思うともなく思いつつ、指が煙草のソフトケースに触れていた。そうして癖で取り出した煙草を、気づいて元に戻す。公園がある。夕飯時には少し早い時間とはいえ日は落ちているから、喫煙を見咎めるような人間は誰もいなかった。それでも、子供の使う場所だと思うと何となく気が引ける。
ファミリー層向けのマンションなのか。
歩きながら、見た目に区別がつかない建物たちへ順に目を向ける。ほとんどの部屋はカーテンが引かれ、漏れてくる暖色の明かりが見える。
「何やってんだろうな」
金田もだが、俺もだ。
まだ就業時間内だろうが、「この住所途中で切れてないか」とメッセージを送っておく。離れすぎないようにしながら、駄目元で灰皿でも探しにいくか? 当てなく歩き続けているうちに、マンションの居並ぶエリアから出て、戸建て住宅が集まる区画へ入った。
もしバイト先がマンションならば。例えばその一室が非合法の賭場になっているとか、真っ先に思い浮かぶのはそういう業態だった。そんな状況に置かれたとしても金田は柳に風を体現したようなあの笑顔で代打ちをこなしてみせるだろう。ついでに、最後には帰れる程度に勝って平然としているだろう、とも思う。もしくは、帰さないと怒鳴られてからが本番かもしれない、とすら。
詮無い想像に苦笑する。こんなに呑気な場所で、そこまで剣呑なことはありそうにない。だってこんなに、窓ごとの明かりはどれも柔らかい。かすかにバラエティ番組の笑声が聞こえている。出処の分からないカレーの匂いすらゆっくり漂っている、こんな場所。
ガチャ、と数軒先の玄関が開いて、子供の声がした。
「先生さようなら」
「はいさようなら」
そしてよく知る声が。
リクルートスーツの人影は、それでも間違えようがなく金田だった。玄関にいるらしい子供に手を振って、こっちに向き直り、「あっ」と声をこぼして小走りに近寄ってくる。別に急ぐことないのに。
「金田だ」
「金田だ、じゃないですよ。え? コンビニで待っててって――」
「あれコンビニだったんだ?」
金田は早口になりながら懐に手をやって、次に鞄に手を入れた。スマートフォンを見ながら、本当だ切れてる、と独り言みたいに。
「すみません……」
「いいけど、すごい偶然」
「ほんとに。個人情報送れないから待ち合わせにしたのに」
金田は困ったように笑いながら、ネクタイの結び目に指をかけた。
「“先生”はもう終わり?」
金田に聞きながら、その手にある鞄を引く。素直にそれを手離した金田は歩を進めながら、俺の質問には答えなかった。
「なんで氷室さんが残念そうなんですか……?」
解いたネクタイを畳み終えたタイミングで金田が手を伸ばしてくる。鞄を返した。
「それ、たまに着て」
隣を歩きながら、今口にしたばかりの自分の台詞にむずがゆさを感じている。わざわざ、スーツ着てくれって、変なフェチを暴露したみたいになってないか。そっと恋人の顔を盗み見ると、その気まずさはどうやら杞憂で済んだらしい。
金田は得意げに笑っていた。
「格好いいですか?」
色男に褒められると照れますねえ、とのことで、人の気も知らずにその笑顔はどんどん緩んでいる。
「つーか金田センセ、勉強教えられるのかよ」
「おや、先生に対する言葉遣いじゃありませんね氷室くん……って、ちょっと」
調子を合わせて芝居がかった口調でにこにこしている金田の腰を抱いて方向転換させた。
「金田、すまん」
「はい?」
「カレー食いたくなった。だめ?」
「……すごい偶然ですね。私もですよ」
金田は上機嫌に俺の背中をばしばし叩いてくる。
「どこかからずーっとカレーの匂いしてますもんね、これは仕方ないでしょ」
その返事が乗り気なので内心ほっと息を吐いた。冷蔵庫の鮃は明日焼くか、と口を開きかけたのと同じタイミングで、金田が「鮃は明日焼きます!」と宣言する。
(了)