べたついた潮風に、宝石のような金髪が揺れている。
目の前に障害物なく広がる夜の海は広く、まるでぽっかりと口を開いた化け物のようにも見えた。その中に飛び込めば二度と帰っては来られない。今までと同じ、地続きの平凡な世界からは外れている。それをちゃんと理解して、わたしはこの船に乗ることを決めた。
「ああ、きみも来たのか」
ゆっくりと波に揺れる船の上というものは、常にどこかしらから音がする。木材が軋む重厚な音、海水が弾ける波の音、あるいは酒盛りに夢中でわたしが抜け出したことになんて少しも気付かない賑やかな声。
甲板に出れば、騒がしい彼らの声もいくらか遠くなった。アルコールで火照った頬に夜風が気持ち良い。潮風を浴びた肌や髪はべたついて酷く荒れるけれど、時折不安になるほどの解放感は好きだった。
「サタンこそ。わたしより先に抜け出してた」
「ああいうのは苦手なんだ」
「そう言う割には楽しそうだったけど」
「へぇ、きみにはそう見えたのか」
立ち寄った港町には先客が居た。倫理も道理も知らぬ蛮行を重ねながら、人の悪意のみを信じているような連中だ。悪は淘汰されるべき――そんな正義心ではなく、現実には平穏な資材調達のために手っ取り早く彼らを叩きのめした後、わたしたちはちょっとしたヒーロー紛いの応対を受けることになった。
法に従わない存在であることは彼らと同じだったかもしれないが、何も人の良心を欠片も知らないわけではない。盛大な歓迎に気を良くしたマモンをはじめ、結局ほとんど全員がもてなしと旅の餞別を受け入れていた。
そういうわけで、今夜の海賊船は盛大な宴を開いている。
ワインやラガービールを浴びるように飲み、大ぶりな塊肉にかぶりつき。ある者は歌いはじめ、ある者は踊り出す。賑やかで華やかな時間。
ふと気が付いたとき、サタンはその輪から外れていた。
「ちょっと夜風に当たりにきただけだよ」
すらりとした細長い指先がこちらに向けられる。肩に羽織った深い緑のコートは脱ぎ、青白い月の光を眩しく反射する白いジャケットの裾がはためいた。宝石のように美しい金髪が揺れ、細い毛先がキラキラと輝く。
サタンは指先だけでわたしの頬をなぞった。薄い皮膚一枚に隔てられた、赤黒い人間の中身を探るように。そんな奇妙な光景を、なぜだか鮮明に想像してしまう。
「……っ、急になに、くすぐったい」
「はは、嫌じゃないくせに」翠の瞳をうっそりと細める。「――俺のことを追いかけて来たんだろ?」
「……それは、そう、だけど」
波に揺れる船が少しだけ大きく傾いた。
目の前の美しい男に見惚れていたせいでその動きに身体が対応してくれなかった。一歩ぶん、距離が縮まる。海の上の生活が長い彼は、平然とした様子でわたしの肩を受け止めた。
「大丈夫か? 酔いが回ってきたのなら、そろそろ休んだらどうだ」
「……サタンは」
「うん?」
「わたしが一緒に居たら、嫌なの」
優しく抱かれた肩を良いことに、彼の首元に額を擦りつける。すぐ上にある顔を見上げることはできなかった。同じ人間のものとは思えないほど整ったその顔に浮かぶ表情を、感情を、認めたくはなかったから。詰まらないわがままだ。
久しぶりの賑やかな宴は楽しいものだった。次から次にお酒を勧めてくるマモンも、わたしの皿に食べきれないほどの料理を盛ってくれるベルゼブブも、口直しにちょっとしたフルーツを持ってきてくれるアスモデウスも、みんなが楽しそうで。喧騒を少し遠くから眺めているのはルシファーとサタンだった。何かと衝突しがちな二人すら穏やかな表情をしていたから、わたしはすっかり油断していた。
「いきなり何を言い出すんだ?」
頭上から降ってきた声は平坦で当たり障りのない驚きを含んでいる。
そうじゃない、と首を振った。
「……わたしのこと、嫌いなら、もっとちゃんと振り払ってよ」
――中途半端に優しくなんてするから。
「……、うーん、困ったな」
後頭部を優しく撫でられる。まるで子供にするような仕草に、やりきれない気持ちがぽつぽつと浮き上がっては消えていった。海の泡のように、誰に知られることもなく。
サタンはわたしのことなんて何とも思っていないに違いない。初めて会ったときからそうだった。一度見たら絶対に忘れないだろう相貌も、猫のように掴みどころのない仕草も、わたしを適当にあしらうその言動さえ。わたしの浅ましくも制御できない部分に熱く焼き付いて、一向に消える気配がない。
頭を撫でる手の動きが止まり、髪を梳く。風が強くなってきた。遠くから聞えてくる賑やかな声と潮の香りの隙間にぽつりと呟かれた低い声を拾う。
「――俺と一緒に来る?」
思わず顔を上げようとして――できなかった。
髪を撫でる大きな手が頭ごと抱きすくめてくる。
「サ……タン、……?」
「そんなつもりじゃなかったんだ。ただ、俺は……いや、言い訳みたいなことは止めよう」
「ん……、ねぇ、なに、サタン」
「俺は海賊をやりたくてここに居るわけじゃないから。いずれ君とは道を違えると思っていたんだ。……父親の遺産さえ見つければ、俺はこの船を降りる」
「それは……」
知っている。サタンはこの船に所属する彼らとは一線を画す立場だ。海賊たるために海賊であるのではなく、あくまで手段としてここに居るのだと。
「君を連れて行くわけにはいかないから。……これでも、我慢していたつもりなんだけど」
頭ごと抱かれているせいで、うまく顔を上げられない。サタンの首筋に顔を埋めたまま、手探りで彼の背中を掴む。
「――攫ってもいいんだよな?」
確かめるように囁かれた声の返答に代えて、わたしは精一杯つま先立ちをした。