1つ目は『船室』
2つ目は『花束』
3つ目は『詠む』
船の穏やかな波の揺さぶりが、彼女を微睡に誘う。ぎぃ、ぎぃ、とろ、とろ。ふわふわした眠気が柔らかくなり、彼女の眠りを深くする。赤い、黄色い、白い、青い、明るい色の花が小さな船室をいっぱいに埋め、バイコーンの毛皮が彼女の体をくるんでいる。彼女を揺らす母親の体を揺らす船は、今日も星雲を泳いでいる。この船の底の一部屋が、腕の中で眠っている彼女――ピピの知っている世界の全部だった。
彼女は外を知っている。が、外に降り立つことを知らない。自分にそんな肺があることを知らない。自分にそんな足があることを知らない。ただ部屋の中で母親が髪を乱して息を荒げながらも花束と乳粥を抱えて戻ってくるまで外を眺めている日を続けていた。そうでない日は妊娠した母親の悪阻が来るたびに背中をさすっていたり花で飾りを作っては母親の頭にかけたり、海でセイレーンが唄っている詩を真似して詠んでみたり…… 小さな部屋で、ピピは幸せだった。ピピは自分がどうやって生まれたのかも知らないし、部屋で夜中に泣き出す何かも知らない。それでもこの部屋でパステルピンクの星の海を眺めることが好きだった。
電球のないゆめから覚めたとき、彼女の母親はいなかった。バイコーンの毛皮にくるまって、花のにおいをいっぱいに吸っていた。ふるい島にこの船が降りたときに積んでもらったこの花は、枯れることもなく素敵なゆめに誘ってくれる。半分閉じている瞼の向こうでは、だれかと船の人が踊っている。ぱちゅぱちゅと体に塗ったワイバーンの脂がぶつかって飛び散っている。ふわ、とネモフィラの香水がふるい島の花のかおりに混ざっている。目の前の、自分のうでと同じ色のいきものが踊っている様子は、もっと小さいときにみたものみたいで―― 足首の先のくるまがごろりと鳴って、またとろりと眠くなった。
部屋の外に上がれるようになったのは、足首についているわっかが窮屈になったころ。フェンリルの古巣で回収していたものはもう使えなくなっているらしい。それはそらがオレンジ色の時に船のひとが足首を掴み上げながら話してくれた。体に塗る脂は痛くなくしてくれて、花の匂いはやっぱりとろとろさせてくれる。自分のうでと同じ色だと思っていた船のひとの色は、ピピよりも濃くて黒い何かに覆われてふかふかしている。ふゆの国で見たイエティみたいだと言えば、いつもよりその日は激しく踊った。ねむくて、ねむくて、お酒のにおいもしてきて、ねむくなる……
髪の端っこが床についた。切って、と船の人に言えば、それは今度うみの国に行くときにマーメイドに見せるのだからと言った。うみの国ではふるい島の花よりも珍しくていい匂いでいい味のする貝殻をくれるらしい。中身を食べたあとは肩を重くしているふたつの丘にかぶせるらしい。そこでおひめさまを守る魚の守り人がつけているぴかぴかごつごつしたものは、マーメイドのぬのきれよりもずっと綺麗に見えた。
髪を切った。船のひとはこれで最後だとわかる。もうこれ以上ここにいる必要はなくて、私は外に降りてもいい。私は忘れない。忘れてはいけない。彼らがしたことを。彼らが教えてきたことを。忘れないで、私は憎んで生きていく。船に使ったユグドラシルの木が、青い煙を出している。消えていく。崩れていく。この船の帆は、まだ燃えていない。風で縄が燃えてちぎれて、私の足元まで落ちた。これはグリフォンの羽で織った布だから、とても丈夫でバジリスクの毒にだって耐えてくれる。それを肩に巻けば、私の乗り越えなくてはいけない凌辱の壁がある。私が乗るべき次の船は、私が乗ったところでエンジンを温める。パステルピンクの空に向かって、船は地面を離れ始めた。
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