1つ目は『図書館』
2つ目は『銃』
3つ目は『握る』
大学の卒業論文のための参考図書を借りに来たというのがその日の彼の目的であり、そして人生でもっとも強烈な出来事を覚える日となった。
やっと見つけたタイトルがあるのは府立の少し遠い図書館。しかし大学図書館にもない以上えっちらおっちらと歩いてきたのだ。背表紙のラベル、著者の頭文字をなんとか目で追うが、見つからない。一通りその棚を漁ったところで、ずいぶん前の重版の時に加筆したので新書のところにあるかもしれないねという教授の言葉を思い出した。
新書の棚はどこだったかなと見まわしていると、不意に黒い人影が目に入った。照明の加減なのだろうかと視界に入って数瞬は思うが、やがてそうではないとわかる。本当に黒いのだ。黒いうえに、日本人の平均的身長である僕では明らかに首が痛くなるような背丈だ。つまり黒いのは肌ではなく冬がもう明けた時期であるにも関わらずボタンが一つもあいていないトレンチコートで、さらにその下にはタートルネックも着ている。相当寒がりなのだろうと推測できるが、そういう話ではないような肌の白さ。いや――これは、血色で生み出せる『白さ』ではない。それこそ刷ったばかりの本の一ページのような、そんな白さ。視線だけであるが、僕と同じように棚を漁って本を探している。
眼があった。しばらく動揺していると、黒が近付いてきた。威圧感のある佇まいであったが、その顔は海外の人間であることをうかがわせるし、それにしたって鼻筋が整っている。
『……君』
話しかけられた。僕でも聞き取れるような、はっきりした発音の英語。
『なんですか』
『トウマ・アイサカの本はどこかわかるか』
聞いたことのある名前だった。パードゥン、と聞いて言ってもらった名前を調べれば、つい最近賞をとった作家だとわかる。これなら入り口すぐに置いてあった。漢字の表記しかなかったからわからなかったのだろう。
『こっちです』
僕が歩けば、彼もついてくる。黙ってあとをついてくる様子は大きな熊みたいだった。いや、熊というには痩せぎすにも思えるから、違うか。ともかく『これです』と言って指し示せば、彼は手にとって安堵したような顔を一瞬見せたが、また映画の主人公みたいな顔を見せる。そのあと何やら独り言を言っている様子だったが、こちらを見やる。腰を曲げて覗き込まれ、まるで子供のような扱いを受ける。
『ありが
言い終わる前に、僕の視界は暗くなって、大きな音が耳を突いた。
暗くなって、悲鳴が聞こえる。悲鳴が聞こえて、ガラスの割れるような音が聞こえて、どかどかと足音が入り込むような音も重なる。真っ暗なものだから何もわからない。
ただ嗅覚で、芳醇としたワインの匂いを知るばかりだった。自分が何をされているのかもどういう状況なのかもわからない。ただそればかりだ。なにやら自分のほうにどやしてくる声が聞こえる。それも何語かよくわからない。
『大丈夫か』
声が聞こえる。彼の声だ。やはりわかりやすい英語の声が、少し苦しそうで。そして自分の頭の後ろから聞こえるということは、すなわち彼が自分の頭を後ろにしている――抱きこんでいるかたちであるわけだ。何が何やらわからず、ただ『はい』と声を出すだけだ。
『私が離れたら、すぐに棚の後ろに行け』
わかりやすい英語で、こんな状況でもすぐに単語が飲み込める。優しい人だ、とおかしいことを考えてしまった。
『わかりました』
そう伝えると、視界がすぐに明るくなる。自分たちの前にある棚の裏に向かうために立ち上がり、駆け込む。
棚に自分の体が入るその一瞬前、自分の頬を掠める『鋭い』ものがあった。頬が熱くなってその後ぬるつく感覚がして、そこでやっとこの状況がおかしいのだと気付く。本が入っていない棚から向こうを覗いて、声が出そうになったのをなんとかこらえた。
棚の向こうには、頭から血を流している黒い人と、その向こうには目出し帽を被った武漢共がいた。皆々がおびえているし、ドアのガラスは割れている。
でもそんなことより僕が驚いたのは、
黒い彼の手に握られていた銃と、彼の額から流れる真っ黒な液体であった。
1つ目は『オフィスビルの一室』
2つ目は『外套』
3つ目は『叫ぶ』ー
桜田門にあるオフィスビル、つまりは警視庁。その隅で特捜零課は捜査官とコンサルタントが日夜発生する事件について書類を睨んでいた。
そこに入り、暑い暑いとピンクのシャツをばふばふさせながら椅子に茶色の外套をひっかける男が一人。零課に入ってそこそこになる捜査官の北である。彼の目を飾る青い線は汗で滲み、赤色が戻り始めている髪は額に張り付いている。彼の後ろから入ってきたコンサルタントの南も、同じように暑がって扇子で扇いでいた。芸人である彼女は特にクールビズがあるわけでもなし、着物の素材を変えるのが衣替えの関の山。しかも怪異との長時間の戦闘があればこうなるのは自明だろう。
「しかしほんとこの時期は怪異が多なるわぁ」
「ほんと。隻手音声の活発化、結界張ってなんとかしなきゃいけない案件だと思うな」
どれだけ倒したところで怪異は人の心が成すもの。特に夏休みの時期である今は家族連れを狙って多く出現することがあり、特捜零課はといえばそれに奔走され夏休みなんて忘れ去ってしまうようにも思えた。
「いや隻手音声もせやけどあれや、忘夏もや。あればかりはまぁどうしようもないけど、例年みたいにいくつかのカウンセラーのセンセに手配せないかんし……」
「やることいっぱいだねぇ。頑張ってね」
「あんたもやるんや」
えぇ、とぶすくれたような声を出してちぎれた大幣をバトンのように振り回す南。北と南は経緯の関係上よく臨時でバディを組むことがあったが、北の本分は戦闘にない。むしろ事務所に常にいることで安定した怪異の浄化の力を零課にもたらす裏方でなくてはいけないのだ。しかし彼がどうしても出勤しないといけないとなったときには、いろいろな小道具を鳴らすことで使いこなして立ち回るのが得意な南をあてがわれることがあった。南の対怪異における臨機応変な性格と音を鳴らすことができれば祓うことができる性質は実にあっており、北が担ぐ多くの楽器をかきならせば血を流すことも少ない。平和的な対処ができる『都合のいい』二人であった。
しかし今回はイレギュラーなことに群れを形成して集団で練り歩いている怪異の対処を要され、このように疲労困憊しながらソファーに倒れこんでいるわけである。
「群れてたのが高架下とはいえ暑くてたまらんわ……」
そうぼやいている彼の背中を叩く一つの姿。緑色の駅員服と咥えている笛。猿廻だった。彼の手には結露しているペットボトルの水が握られており、すぐそこの自販機で買ってきたくれたことがうかがえる。助かるわぁと受け取って一気に飲む。ごぎゅ、ごぎゅと飲む音。
「そういえば猿廻クン、そっちの駅でトラが歌ってるって聞いたんだけど、そっちどうだい?」
彼は黙って上着のポケットから端末を取り出して見せてくる。画面の中では十楽が放つ音に合わせて東が怪異に向かって音韻を叫ぶ。いくつもの手が彼らに向かって伸びるが、それが当たることはなく宙をさまよっては力をなくしてへたるばかりだ。その様子に南は満足そうに礼を言ってやはり北と同じようにソファーに体を預ける。
「夏は長いなぁ」
「せやなぁ」
桜田門の空は、太陽が雲を寄せ付けず笑っていた。