「本当に助かりました、ありがとうございます、旅人さま」
言いつつ杯になみなみと酒を満たしていく男に、旅人と呼ばれた男もまた曖昧に笑みを返して、何度目かになる謙遜の言葉を口にした。
「いえ、たまたま立ち寄っただけですし、たまたま対処できたにすぎません」
それでも注がれた酒を突き返すわけにもいかないので、ゆっくりと喉に流し込んでいく。酒に弱いわけでもなくてよかった、と旅人の男は心中で息をついた。本当に、たまたま対処できただけのことだ。こんな辺境に村があるなどというのも知らなかった。知っていたら、もしくは、誰かに知られていたのだとしたら、この村がこんな窮地に立たされるようなこともなかっただろうに。
「今までは、どうしていたんですか? まさか魔物のほうから避けてくれるわけもないでしょうし……」
例え名もなき小さな辺境の村だったとしても、魔物に襲われないという奇跡が起きるはずもない。魔物というのは、一度発生すれば人も獣も、同じ魔物だったとしても、争い、傷つけ合い、何かそうせずにはいられないというふうに戦い続けるものだ。そこに、ごく小さな、人からすればささやかな営みの村だったとしても、己以外の生き物がいるなら滅ぼしにくるはずだ。
旅人の男の疑問に、自分も酒を重ねてだいぶ赤くなった顔で、初めの男が答える。
「一応、自警団はありますが……この村は、御神木さまに守られているのです。ですから、普段はどんな魔物も寄りつきません」
「……ごしんぼく?」
怪訝そうな顔と声になった旅人を非難するでもなく、御神木、と口にした男が笑顔で頷く。
「はい。村ができた当初からある立派な木でして、私たちは御神木に守られて生きてきたのです。ですが……」
と、そこで初めて顔を曇らせて、男は杯を手に俯いた。
「先日、御神木のお世話を担っていた巫に不幸がありまして、それからというもの、御神木の力が弱まっておりまして……」
それゆえ、魔物を退けるという御神木の力が及ばず、村が魔物に襲われるという事態が続いていたらしい。
そこにたまたま、旅人の男が通りがかり、なんとか事態に対処できた、というのが実態のようだった。
「それは……しかし、それでは今後も魔物への対処を考えなければ、また同じ被害が出るのでは」
「ええ……ですが、今はそれを考えるときではありません。まずは一つ、目の前の問題が片づいたことを喜ばなければ。ここ最近で一番の喜ばしい出来事ですからね!」
そう言ってまた旅人の杯に酒を注いでくる。
これは当分放してもらえそうにないな、と苦笑し、旅人は注がれた酒をまたちびちびと飲み始めた。旅人としても、酒や料理を振る舞ってもらえるのはありがたいし、ここを出て次の村か町に向かうにしても、今から出たとしたら日の高さからして野宿になってしまう。だったら柔らかい布団で寝られそうな機会を逃したくはない、というのが本音だ。
延々と話し続ける村の男、いわば村長にあたる男らしいのだが、村を代表する男の話に適当な相槌を打ちながら、ささやかなものですが、と提供される料理を腹に収めていく。硬めのパン、塩で焼いただけの肉、煮込んだ野菜、と素朴な料理の数々だったが、魔物に襲われ満足な畑仕事や猟もできていなかったであろう中での心づくしの品々のはずだ。それに酒もある。冷たい携帯食料を水で流し込む食事よりはずっといい。
ご遠慮なく、という言葉に甘えて満足するまで腹を満たした頃に、村の女が何やらまだ皿を運んでくるのを見て少しぎょっとする。
「旅人さまにぜひ召し上がっていただこうと思いまして、用意させていたんですよ」
すでにすっかりできあがった様子の村長が、女から皿を受け取って旅人の前に置いた。
見た目はつるりと丸い、何かの果実のようだ。瑞々しく灯りを反射していて、皮か殻か、包んでいた何かを剥いてから提供してくれているのだろう。色だけ見れば少し黄色がかった白をしていて、いかにも怪しげな毒物です、といった見た目はしていない。
「これは御神木の果実でして、力が満ち満ちていた頃は実ったものをたくさん分け与えてくださっていたのです。ここのところ採れる数も少なくなってしまいましたが……旅人さまはこの村の恩人ですから、どうぞ召し上がってください」
祭りの時期になると子供たちが我先に争って食べるくらいでして、と村長が笑っていることから、毒性はなさそうだ、と旅人は判断した。まあ、この村の人間はこの果実の毒に一定程度耐性を持っている、というのなら話は別だが、少なくとも同じ人間のはずだ。旅人の男が口にしたとしても、死ぬようなことはないだろう。
「では、いただきます」
一応礼を言って、果実を口に運ぶ。掴んだ手がべたつくほどの果汁だ。一口齧るだけでも、口の中に蜜が溢れかえってくるようで、ごくりと喉が鳴った。
「いかがです、おいしいでしょう?」
「……ええ……初めて食べました、こんな実」
勧められるままに一つを平らげ、いささか行儀悪く手指を舐めながら、鼻の奥にまで広がる香りも堪能する。子供が我先に争って食べたがる、というのも無理はない。どうぞ、と差し出された濡れ布巾で手を拭いて、最後に供された茶を飲んでひと息ついた。
「どうぞ、今夜は村に泊まっておいでになってください。今から村を出ても、隣村に着く前に日が沈んでしまいます」
「すみません、お言葉に甘えさせてください」
まだ日が傾き始めたばかりの頃合いだが、慣れない土地での移動は時間がかかる。村を案内してもらい、わざわざ旅人のために家一軒を空けておいた、というのに恐縮しつつ、旅人はその村で一晩休ませてもらうことにした。
ただ、案内してもらう間、一度も御神木というものを目にしなかったのが気になった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌日。
泊まらせてもらった家で顔を洗い、旅人は妙なものに気がついた。
旅人は元々、土地に根差して堅実な暮らしをして、というのが性に合わず、あちこちを彷徨している人間だった。だから自分が元いた土地のことも、親のことも消息を知らない。愛着も、郷愁も持ったことがない。旅先で見る珍しいものには心躍ることもあったが、それを自らに取り入れようと思ったこともあまりなかった。
だから、額に謎の紋様を描くなど、旅人が正気であったなら、するはずのない行為だった。
いや、入れた記憶もなければ、心当たりもない。確かにしこたま酒は飲んだが、正体をなくすほどではなかった。旅人が寝ているところに誰か勝手に入ってきたとしても、気づく程度の酒量であったはずだ。
指で軽く擦っても、布で拭いても紋様は取れない。水で濡らしても同じだ。どこかの民族の入れ墨のように、肌にしっかり定着してしまっているらしい。しかし、この村の人間が同じような紋様を額に描いている様子も、昨日は見なかった。だとしたら何だ、と悩みつつ、村長に相談してみるしかあるまいと腹を決める。旅人には見覚えがないし、この村で起きることなら、村の人間だったら何か知っているかもしれない。
そう思って男が村の中を歩く道すがら、やはり村人たちが男の額を見て何やらはっとした顔をする。何か知っているに違いない、と訪ねた村長の家で、旅人はやはり驚いたような顔をされた。
「それは……まさか……いやしかし……」
「これは何なんだ。知ってるなら教えてくれ」
昨日の丁寧さを脇に追いやって、旅人は村長に詰め寄った。見ず知らずの相手でもそれなりに礼儀正しく接する術くらい持ってはいるが、わけのわからない事態にも悠然と対処するほど、上品に生きてきたわけでもない。
「い、いえ……失礼いたしました。ご案内しますので、どうぞこちらへ……」
正体を取り戻したらしい村長が、腰を低くして答え、旅人の前に立って歩き出す。口頭で説明が終わる話じゃないのか、と眉根を寄せつつ、旅人はそのあとについていった。