貴方は何でも抱えてしまうから、
時々不安になってしまうのよ。
*
この時代に戻ってきてもう3か月。
慣れない部分はどうしてもあるけれど、それでも楓ばあちゃんや珊瑚ちゃん、犬夜叉の手助けもあって何とか生活できている。
卯の刻、現代でいうなら5時の起床だけはどうにもならなくて、結局私が起きるのは慣れ親しんだ辰の刻─────7時半くらい。
でも今の私の悩みの種はそれじゃない。
具体的に何かと言われると言葉で表現するのは難しいんだけど、広義の意味で言うなら犬夜叉のこと。
「……あ、おかえり犬夜叉」
「おう」
「今日は随分と早いのね。まだ昼過ぎよ?」
「そりゃ、依頼寄越したのが近くの村だったし、巣食ってた妖怪も雑魚すぎて弥勒の札一枚で片が付いたからな。つまんねえ」
くああ、って犬夜叉が大きな欠伸をする。
3年前はあんまり見たことが無かった犬夜叉のやる気の無い顔。
犬夜叉は体育会系そのものだから、とにかく動く────彼の場合は適度に戦う────ほうがきっと楽なんだろう。
それでも平和に越した事はないわよね。
そんな事をつらつらと考えていたら、犬夜叉の金色の双眸がきゅっと細くなった。
「なあかごめ、さっきから気になってたんだけどよ………それなんだ?」
「これ?なにってヨモギよ。あんただって知ってるじゃない」
「いや、ヨモギは知ってるけどよ。そうじゃなくて、それって葉を摘むんじゃなくて、根元から刈るんじゃなかったか?」
「えっ?やだ、そうなの?」
「楓から教えてもらってねえのか?」
「効能は教えてもらったけど……」
「楓が抜けてんのか、かごめが抜けてんのか分からねえな」
「失礼ねー」
からりと犬夜叉が笑った。
私は頬を膨らませて拗ねたフリをしながら、犬夜叉に気付かれないように顔を見上げる。
いつもと変わらないように見える。
見えるのだけど─────私は知っている。
犬夜叉が時々、とても昏い眸をして何処か遠くを見つめている事を。
私がそれに気付いたのは帰ってきて割とすぐの事だった。
ちょっと気になったけど、犬夜叉も思う事があるんだろうなって本人に尋ねる事はしなかった。
だけど未だにそんな眸をするもんだから、流石に看過できなくて、それとなしに珊瑚ちゃんや弥勒さまに相談してみたりしたのだけれど。
まあ結論を言えば、二人にも心当たりが無いとのこと。
私や珊瑚ちゃん達も分からないのだから、もう犬夜叉本人に尋ねるしか無い。
この人は自分の心に踏み込まれるのを極端に嫌がるから、聞き方には注意しなきゃね。
幸い周りには誰も居ない。
「…………ねえ犬夜叉、ちょっと聞きたい事があるんだけど、いい?」
「あん?なんだよ」
隣に座っていた犬夜叉の眸が向けられる。
あまりにも綺麗な金色に、そんな場合じゃないって分かっててもドキドキしちゃう。
変な緊張で握った手の平に汗が浮かんだけど、どうにか私は疑問を吐き出した。
「最近、なにか悩み事でもあるの?」
「………………は?」
しまったーーー。
聞き方には注意しなきゃって思ってたのに、物凄いストレートに聞いちゃったーーー。
でもこんなこと言ったら失礼かもしれないけど、犬夜叉には回りくどく聞いても伝わらない気がするのも事実なのよね。
これはこれで結果オーライってやつなのかしら。
私の質問は犬夜叉にとって想定外だったみたいで、彼はきょとんとした表情をしてる。
もしかして……。
私の中で一つ予想が生まれた。
「あんたもしかして……無自覚だったの?」
びくんって犬夜叉の肩が跳ねたのを見るに、図星みたい。
という事はあの昏い眸も意図せず?
なんで?
疑問が疑問を呼んだ気がするけど、ここは犬夜叉が話し出すのを待ったほうが良いかしら。
犬夜叉に矢継ぎ早に質問をしたところでかえって彼の思考がこんがらがるだけなのは、もう充分すぎるくらいに学んでいる。
頭で整理する時間と、言葉を探して組み立てる時間をあげないとダメだ。
特に、犬夜叉自身の気持ちを聞く時は。
60を何回数えたのか分からないくらいたっぷりと時間をかけて逡巡した犬夜叉は、ようやく口を開いた。
「……………悩み事、は無いと思う」
「悩み事“は”って事は、他になにかあるの?」
「………よく分かんねえんだけど、考えたり思い出したりはする」
「そう。…………それ、私にも言えないの?」
本当に言いたくないなら構わないんだけど、それで苦しくなったりするなら話して欲しい。
私がそう言ったら、犬夜叉がまた考え始めた。
これは言葉を探してるんじゃなくて、打ち明けるか否かを考えてるんだと思う。
急かすつもりは無いから、もちろん私は待つ。
俯いていた犬夜叉がほんの少しだけ顔を上げたけど、私のほうを見ない。
そして──────あの昏い眸をした。
「………怒らねえか?」
「内容にもよるけど、そんな眸をして考える犬夜叉を頭ごなしに怒ったりしないわ」
しゅんと垂れた耳を見てから犬夜叉に言うと、本当に小さく犬夜叉が息を吐いた。
「俺もよく分からねえんだけど、すげえ胸が苦しくなるんだ。うまく息が出来なくなる」
「具合が悪いの?」
「いや………3年前にもあったし、それよりずっと前……50年以上前にもあったんだ。腹の底から何かが沸いてきて、それに飲み込まれるみてえな感覚なんだけどよ」
ただ、それが何なのかが分からないんだ。
犬夜叉はそう言って胸をぎゅっと押さえた。
私にはその感覚は分からないけど、何となくの予想はできてる。
でも確信が持てない。
「………犬夜叉、無理にとは言わないけど、私の質問に出来るだけ答えてくれない?もしかしたら原因が分かるかもしれないから」
「………分かった」
「ありがと。じゃあ、その感覚になるのはどんな時なの?決まってたりする?」
「決まってはねえ。ふとした時が多いな」
「その感覚に飲み込まれそうな時に、何か考えたり思い出したりする?」
「決まった事じゃねえけど、いい事じゃねえのは確かだ」
「……………」
犬夜叉の“いい事じゃない”は、100%悪いことだ。
更に言うなら彼の生い立ちや“半妖”という種族に起因するもの。
今の犬夜叉は自分が半妖という事を受け入れているけど、多分それも完全にという事じゃないと思う。
そして、犬夜叉が受け入れたからといって全てが解決するような簡単な問題でもない。
これが最近の事ならまだ分からなかったと思うけど、50年以上も前からあったというのだから、もうこれしか無い。
出会った頃の犬夜叉や、旅をしていた頃の犬夜叉の様子が頭の中を駆け巡って、そして確信が持てた。
「………犬夜叉、多分ね、溢れてるんだわ」
「溢れてる?」
「そう、溢れてるのよ。あんたの心が」
「………どういう事だよ?」
まあ分からないかな。
この概念はこの時代に無いと思うし。
訝しそうな顔をしてこっちを見る犬夜叉の頭を撫でてから、私は出来るだけ分かりやすく説明する。
「あのね犬夜叉。全ての物には許容量があるのよ。分かりやすくいうなら、湯呑みや鍋に入る水の量は限られているでしょ?その限界を超えると水は収まりきらなくて零れちゃう」
「おう」
「心も同じなの。心も気持ちをしまっておける量が決まってるのよ。その量は人それぞれだけどね」
「そりゃそうかもしれねえけどよ、俺は別に気持ちを溜め込んだりしてねえぞ?」
「確かに犬夜叉は素直だからそう見えるけど、アンタが溜め込んでる感情は確かにあるじゃない。分からない?」
「んん………?」
犬夜叉が腕を組んで考える。
しばらく唸って、でも分からなかったみたいだから、私が答えを伝える。
「犬夜叉は、悲しみやつらさ、寂しさを溜め込むでしょ?」
怒りや苛立ち、悔しさなんかは迷惑なくらい吐き出すけど、それに繋がる悲しみなんかは絶対に吐露しない。
それはきっと意図しての事じゃない。
これだけ犬夜叉の近くで見ていればそんな事はすぐに分かった。
それを吐き出すのはもちろん、感じた事、押し込めている事すら犬夜叉は分からない。
だってもし分かっているなら、私が聞かなくても自分で自覚できていた筈だから。
「溜め込んでるその心の苦しさが、時々溢れてきちゃってるのよ。無自覚だったから分からなかっただけ。そしてその溢れた苦しさすらもアンタは隠してしまうから、きっと治らないのね」
「………俺、そんな苦しいとか思った事ねえんだけど」
「自覚できないのよ。犬夜叉のなかで当たり前の事になっちゃってるから。私は専門的な事は分からないし、断言もできないけど……きっと犬夜叉のそれは生まれつきじゃないわ。あんたが大きくなる過程でそうなったのよ。犬夜叉はそういうのを素直に感じて生きられるような、優しい世界で生きてなんかなかったでしょう?」
「───────っ!」
犬夜叉が息を飲んで私を見下ろした。
それにも気付かなかったのかしら。
気付かなかったのか、忘れてしまったのか、それはもう犬夜叉でしか分からないけど。
「あんたは人よりずっと永く生きているから、それだけ多くの経験をして……そして生き抜く為にそういう心の基礎を作ったんだと思う。そして無意識に取捨選択をしてるのよ、きっと」
「そんな器用な事、俺には出来ねえぞ」
「心はすごく器用なのよ。あんたは負けん気が強いから、多分それに慣れるのも早かったのね。それともう1つ、犬夜叉が押し込めているものがあるわ。……ううん、心を縛っているものかしら」
悲しみやつらさ、寂しさなんかよりももっと重たいもの。
こっちは自覚があるかもしれない。
「“自分を赦せない、赦したくない、赦される訳がない”………犬夜叉はそう思っている筈だわ」
たくさん傷付けて傷付けられて、でも犬夜叉は自分が傷付けられた事よりも自分が誰かを傷付けてしまった事を重く受け止めるから。
彼には被害者意識なんてものは欠片も無い。
常に加害者意識を強く持っていて、彼に非が無かったにしても自分を責める事が多々ある。
どうしてそこまで自分を悪者に考えてしまうのか疑問に思った事はあったけど、それも少し考えれば分かるというもの。
犬夜叉はこれまでの殆どの時間を責められ、否定されながら生きている。
“半妖”という、彼自身にはどうすることも出来ない身の上を理由にだ。
犬夜叉は別に自分が望んで半妖に生まれた訳では無い。
にも関わらず半妖に生まれた事を否定され、罵倒され、世界から弾き出された。
ずっとずっと幼い頃から自分の全てを否定され“悪”だと言われれば、彼の中でそれが世界の常識として認識されるのは当然の事。
幼児期は人格形成に最も重要な時期なのだ。
その時期に“自分は悪者”と認識してしまった犬夜叉が、加害者意識を持っているのは当たり前だろう。
そしてその後の他者を傷付けた経験が、それをより一層強くしてしまった。
赦されない、赦されてはいけない、心に植え付けられているその呪縛は、薄まる事はあったとしても完全に消える事は無い。
犬夜叉の命が尽きるまで、その呪いは彼を縛り続ける。
それと関連すると思うが、犬夜叉は自分の気持ちを表す語彙の手持ちがあまりにも少ない。
……いや、少し語弊があるかもしれない。
言葉そのものは知っているかもしれないけど、その言葉と自分の気持ちが結びつかないんだと思う。
言葉に出来ないというより、気持ちを表現する言葉が分からないといった具合なんじゃないだろうか。
まして悲しさのような感情そのものを犬夜叉は自覚するのが難しい。
それを自覚してしまっていたら、犬夜叉はきっと生き残る事は出来なかったと思う。
犬夜叉の生きなければならなかった世界において、心なんてものは必要ない、むしろ邪魔になるものの筈だ。
怒りや苛立ちは戦う力に変換できるけれど、悲しさや寂しさは自分が孤独だという現実をより一層強く感じさせる。
だから犬夜叉の心は頭が理解する前に怒りと悲しみを分離させて、後者を心の奥に押し込めて蓋をするようになったのだ。
そうして、加害者意識と罪悪感、嫌悪感や怒りを抱えた犬夜叉が出来上がった。
「50年前と、私達と旅をしていた頃、その感覚になる頻度は変わらないの?」
「いや、………かごめや弥勒達と旅してた時は減ってたし、今だって昔ほど多いわけじゃねえ」
「それはきっと、犬夜叉の心が本来の形を取り戻してきてるからね」
「本来の形?」
「ええ。犬夜叉は気付かない?最近は“半妖”って言われる事あんまり無いでしょ?」
「そりゃあ………まあ、」
「あんたを傷付ける……ううん、悪意をあんたに向けてくる存在が近くにあまり居ないって事。それでも感情が溢れてくるのは、押さえつけていた今までのものが少しずつ出てきてるのよ。犬夜叉は自分を責める人だから。……でもね、あんたは責められるような事はしてないわ。本来責められるべきなのは、犬夜叉じゃない筈よ」
誰も護ってくれない中で、それこそ自分の生死が掛かっている状況で、不本意にも他者を傷付けてしまった事。
そうしなければ生き残れなかったのに、それが罪だと言われるのはおかしな話しだと思う。
もしもそれが正論だというなら、それは自分を護ってくれる存在が居て居場所がある者の考え方じゃないだろうか。
自分しか自分を護れない中で、自分以外の全てが命を狙ってくる状況でそれを言える者など、きっと存在しない。
そして恐らく犬夜叉の罪悪感は、変化という部分からも来ている。
瀕死の状態で“それでも生きたい”と望んだ結果の変化。
そんなものは生き物として当たり前の欲求だし本能なのに、その思いが変化の引き金になってしまった。
そして──────変化した自分が犯した殺戮。
他者を、人間を傷付ける事を恐れる犬夜叉にとってその事実は受け止められないくらいの悲しさと悔しさだった筈。
その思いが彼の中に深く根を張って消えない。
例え自分を責める者が居なくなったとしても、彼は自分を責める事をやめない、やめられない。
なんだか私のほうが泣けてくる。
でも本当に泣きたいのは犬夜叉だから、私は犬夜叉を抱き締めて涙を隠した。
挙動不審になっちゃう犬夜叉には申し訳ないけど、これはこれで愛おしい。
ねえ、犬夜叉。
どうすれば、どれだけの時間を費やせば、あんたの心は自由になるのかな。
「もう………自分を責めなくてもいいのにね」
容赦なく自分を責め立てて、痛めつけるあんたを、どうすれば救い出せるのかな。
犬夜叉の腕が私の背中に回って、苦しいくらい抱き締められる。
抱き締められるっていうより、しがみつかれてる感じだわ。
「…………なあ」
「なあに?」
「ひとつ、聞いてもいいか?」
「うん?」
「…………俺………俺は、赦されてもいいのか?」
赦されない、赦せない、赦したくない──────赦されたい。
ああ、そっか。
犬夜叉が願っているのは、こんなにも哀しいものだったんだ。
「さっきも言ったけど、本来あんたは責められるべき人なんかじゃないのよ」
もう責めないでいいの。
あんたが他者を傷付けてしまった事は事実なのかもしれないけど、あんただって沢山のものから傷付けられたのよ。
あんたが周りを絶対に責めないのは知ってる。
だからね、周りにだってあんたを責める権利は無いわ。
「赦されて当然じゃない。………もう良いのよ犬夜叉。あんたは充分自分を責めたでしょ?だからもういいの。もう………自分を赦してあげて」
「────────ッ、!」
犬夜叉はもう何も言わない。
だけど、耳許で犬夜叉の小さな嗚咽が聞こえてくる。
もちろんこれだけで自分を責めたり感情を押さえる犬夜叉の癖が治るなんて思わない。
だって犬夜叉の思い込みはかなりのものだもの。
………でも、良かった。
「ほんと、そんな犬夜叉だから私はあんたが愛しいわ」
「…………っ、…どういう意味だよ」
「内緒。自分で考えてよね」
犬夜叉の体がちょっと熱い。
ああ、これは多分泣いちゃったかな。
私までつられてる。
でも私のこの涙は悲しいからじゃない。
犬夜叉のそれも、きっと。
仄昏いあの金色がいつか色を取り戻せる日を願って、私は犬夜叉の胸に頬を寄せて目を閉じた。
了