人を信じる、というのは信じないことより遥かに難しい。自分だけを信じて道を突き進む方がどんなに楽かを知っている。そうしてあの男もきっとそうなのだろう。俺の知る【沈清秋】という男は他人を信じて生きるような人間を鼻で笑い、侮蔑の目で見るような人間であると理解していた。
──あの男は誰かを信じることなど決してない男であったはずだった。まさしく、今この時、こんな言葉を聞くことなどないはずなのだ。
『私はあの子を、信じている』
信じている、だと?
いつからお前はそんな顔でそんな言葉を吐くようになったんだ?
柳清歌は思わず怪訝な顔で目を細めた。
俺の知る沈清秋とは、誰が信じろと言っても決してその意見を曲げることはない。俺の知る沈清秋ならば、他の誰が大丈夫であると後押ししてもその言葉を信じることなど決してないのだ。
そういう奴の態度を何度も見てきた。
そんな男が果たして、「信じる」など口にするものだろうか。
■
「信じられんな」
パッキリとした澄んだ声で柳清歌は沈清秋を一瞥した。沈清秋はハハ、と笑みを顔に浮かべながら困った顔であの出来損ないの弟子を庇い続けていた。
「おお、師弟。あの子の行いは愚かなものだった。だが、傷つける気はないのだ。私からよく言っておくから、どうか許してやってはくれないか」
なあ?と沈清秋は眉を下げて申し出てきた。
柳清歌は、いつからかこの沈清秋を認め始めていた。険しい顔を少し緩めてしまうほどには。
人として尊敬をするところもなかったこの沈清秋という男は、ある日、人が変わったかのように態度を改めてきた。私のことを親しく「師弟」と呼ぶようになったり、「仲良くしよう」と言ってくる始末である。この男が仙師でなければ別人であると疑うほどにその態度には落差があった。そんな沈清秋と接しているうちにいつしか柳清歌も少しずつこの男を認めていた。
「洛冰河、あの男は決してお前にとって善い者ではあるまい。それはわかっているのか?」
「……わかっている」
沈清秋は急に重苦しい顔になると唇を噛み締めてそう言った。場が静まり返る。
洛冰河はまだ寝ているようだった。あんなに顔を真っ赤にして熱を出していれば当たり前である。棺桶に眠るドラキュラのように微動だにしなかった。そして沈清秋と柳清歌はそんな洛冰河の吐息を聞きながら静かに声を発していた。
「わかっているならいい。……好きにしろ」
「あっ……!待っ、」
柳清歌が椅子から立ち上がり、まさに今部屋を出て行こうとしたその時である。沈清秋が言い終わらないうちにバン、という大きな音共に扉は開かれた。
「沈峰主はここかな?」
そう言って無遠慮に静まり返った部屋に入ってきたのは天琅君その人であった。
(what the fuck!とうとう型式だけのお伺いはやめたのか!?)
(というかなんだって天琅君が今、ここに!?)
「おお、そんなに驚いてくれようとは」
天琅君はおおらかを体現したかのような者であったため、陽気に笑うと固まって動けない沈清秋と柳清歌に目配せをした。しかしその飄々とした態度は柳清歌には逆効果であることも沈清秋は知っていた。さすがは百戦峰の峰主。こんな真夜中の就寝前だのに剣を呼び起こすとすぐさま剣をしなやかに持って臨戦体制に入ったのだ。
(別に峰主だし懐なんか気にする必要もないけど!けど!?こんなところであの壮絶バトル始めちゃったらあのクソッタレの春! 山! 恨!で広まった俺の身の潔白への溝がさらに深くならない!?)
そう。何を隠そう今ここに清静峰の峰主と百戦峰の峰主、そして噂のナイスゲイ洛冰河がいることは、ここ近辺に住む街人にしられてしま知られてしまっているのだ。それはもちろん夕方の我が弟子、洛冰河のいらぬ一言が招いた柳清歌との何戦目かの戦いによるものだったのだが……。
「……天琅君ともあろうものが、こんな夜更けに何用だ?」
沈清秋は極めて冷静を取り繕ってそう尋ねた。
(そもそもどっから入ったのかって話から聞きたいけどね!)
「沈峰主、お忘れではあるまいよ」
クイッと人差し指を押し曲げた天琅君と同時に沈清秋は膝から崩れ落ちる。その様子を見兼ねた柳清歌が素早く身体を受け止めて肩を抱いた。
「っすまない」
「何をされた?」
「…………」
沈清秋が答えづらそうにそっぽを向くと、ふふん、と何かを察した(おそらく間違い)天琅君は楽しそうに「峰主は今、私の思うがままである」と言った。