アンジュは緊張していた。
何故なら今日は2月14日。バースならば世間がチョコレートに湧き上がる日だ。もちろんアンジュも例外ではなく、先日バースから期間限定商品をいくつか取り寄せた。しかし、今はそれだけではない。鞄の中に恋人へ渡すためのチョコレートを潜ませ、彼の部屋の前に立っているからだ。
シュリは喜んでくれるだろうか。
シンプルなビターチョコレートからフルーツピュレやスパイス、お酒の入っているものまで揃っているシュリのためと言い切れそうなショコラアソートを選んだ。甘いものがそこまで得意ではない彼にチョコレートを贈るのはどうなのだろうと悩む気持ちは確かにあるけれど、この中のひとつを気に入ってくれたならと、アンジュは今ここに立っている。
大きく息を吐き出し、「よし」と気合を入れ、ドアホンのボタンを押し込んだ。
数秒と経たずに勢い良く、アンジュとは反対側に扉が開いた。その奥には嬉しそうな笑顔を纏う部屋の主が立っていた。
「よく来たな、アン」
シュリはアンジュの名前を言い切る前に表情を変え、真剣な眼差しで来訪者の顔を見下ろした。高いところから降る鋭い視線にどきりとする。けれど、注がれる想いの意味をアンジュはよく知っている。
「……頬が強張っている。何かあったのか?」
伸ばされた右手の親指がアンジュの頬をすりと滑る。不安にさせないためか恐る恐る触れてくるシュリの指に自然と口元が緩んだ。
「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫ですよ。シュリに渡したいものがあって、その、喜んでもらえるかどうか不安になってただけなんです」
「渡したいもの?」
柔らかく温かい目線に和らぎを覚えつつ、アンジュはハンドバッグからラッピングされた箱を取り出した。
「チョコレートです。いろんな味が楽しめるように詰め合わせを選んでみました。どうか、受け取ってください」
私の、シュリへの想いを。
アンジュが小ぶりな箱を両手で差し出すと、シュリは扉が閉まらないように足を動かしてから大きな両手で受け止めた。ふたりの指が一瞬だけ重なり、伝わった熱に名残惜しさを覚えながら離れていく。
アンジュの手から移ったチョコレートはシュリの両手に包まれている。包装紙に貼り付けられているリボンシールを愛おしそうに指がなぞり、包装紙の模様の上を紅い双眸が走る。瞬きと同時に小さく頷くシュリを微笑みながらアンジュは見つめる。
「……確かに受け取った。ありがとう、アンジュ」
「気に入ってもらえるといいんですが」
「おまえが選んでくれたものを気に入らないわけがないだろう。……腰を据えて堪能させてもらおう」
入ってくれと促され、アンジュは開かれた扉をくぐる。
背中の向こう側から錠の落ちる音が聞こえた。
テーブルの上で包装紙が開かれていく。慎重にテープを剥がし、丁寧に包みを広げていく恋人の様子が何となく新鮮に映る。普段の彼なら豪快に開けそうなものなのに。私が贈ったものだからかと考えそうになる自分を制するために、アンジュは目の前に置かれたコーヒーを飲み込んだ。
「ほう、綺麗なものだな」
箱の中から出てきた四角の小さなチョコレートにシュリは小さく息を吐いた。ひとつひとつ模様や色の違うそれらをまじまじと見つめるシュリ。そんな彼をアンジュもまた眺めている。
付いていた説明書と中身を何度も見比べ、シュリはショコラをひとつ口の中に投げ込んだ。一度顎が大きく動いた後、シュリの表情が変わった。目尻が僅かに下がり、動き続けている口元が上がっている。
良かった、美味しいみたいだ。
不安が安堵へと姿を変えて、アンジュはほっと胸を撫で下ろした。
「美味いな」
口の中身をすべて飲み込んだシュリが包装紙を畳みながら言う。どうやら彼が食べたのはスパイス入りのものだったらしく、苦みと香りが好みだったのだそうだ。時間をかけて少しずつ食べるのだとシュリは箱に蓋を被せた。
「どれも気になる味ばかりだった。よく見付けたな」
「ふふ、気に入ってもらえて良かったです。バレンタインだったので見付けやすかったんですよ」
「バースの風習か?」
シュリがコーヒーを飲む手を止めて尋ねる。
「イベント、とでも言うんですかね。チョコと一緒に……愛を伝える日なんです」
「そうか、愛か……」
「はい、愛です。……伝わりましたか?」
「……ああ、受け取った。十二分にな」
言うとシュリは止めていたコーヒーを一気に煽った。「これと一緒でも美味いのか」と嬉しそうに呟き、カップを手にしたまま椅子から立ち上がる。
「おかわりは?」
「いえ、まだ入っているので大丈夫です。ありがとう」
「そうか」
ふと柔らかく微笑むと、シュリはアンジュに背を向けてキッチンへと歩いて行った。
広い背中が見えなくなったところでアンジュは手の中のマグカップを眺める。気に入ってもらえたことだけでなく、「受け取った」と答えてもらえたことが嬉しくて、全身が熱を持っているような気がしてくる。嬉し泣きとは少し違うけれど、自分の中から何かが溢れ出てしまいそうな感覚まで湧き出している。ただただ良かったと体を満たす喜びに浸りながら、まだまだ熱の残るコーヒーの香りを堪能しつつ体の奥へ注ぎ込んだ。シュリが淹れてくれたそれの美味しさに胸の奥がさらに温かくなる。
もう一口とカップに口を付けると同時にシュリが部屋へと戻ってきた。
けれど、おかわりを入れに行ったはずの彼の手にカップは握られていない。右手は体の横を歩き、左手は背中の後ろに隠れている。
「アンジュ」
まさか、と考えるよりも先にシュリがアンジュの隣に辿り着き、彼女を見上げるように膝をついた。
「おまえに、これを」
後ろから出てきたのは薄桃色と白の不織布で包まれた一輪の赤い薔薇。根元を握る指の近くでは柘榴色のリボンが光を反射させている。
「チョコレートじゃなくてすまない。だが告げたいものはおまえと同じだ。……どうか、受け取ってほしい」
体から飛び出してしまいそうになる熱をアンジュは両手で抑え込む。唇に当たる指が震えているように思える。
「……すごく嬉しいです」
顔から離れた細い指がシュリの左手に伸びる。角ばった関節を過ぎ、手の甲をなぞりながら両手で彼を包んだ。
「ありがとう、シュリ。大切にします」
目を閉じてアンジュは言った。触れる部分から伝わるシュリの熱を、彼の想いを忘れないように確かめてから、掌を花にむかって滑らせる。アンジュの手の動きに合わせてシュリの指がゆっくりと開き、花はアンジュへと移った。
「……喜んでもらえたなら、嬉しい」
「喜びますよ! 喜ぶに決まってます! ……知ってたんですね、バレンタイン」
紅い花弁に顔を寄せつつアンジュは言う。
そんな想い人を柔らかな表情で見つめながらシュリはアンジュの隣の椅子に座り直した。
「『花を贈る』と書いてあったんだがな……『花で愛を告げる日』だと……」
「贈るものは国で違……あ、住んでいる地域で違ったみたいで。チョコじゃないものを贈っている友人も居ましたよ」
「……そうか。なら、いい」
「ふふ。それにしても、こっちにも薔薇ってあるんですね」
「……取り寄せてもらった」
シュリの指がアンジュの頬にかかる髪に伸びる。爪の表面に持ち上げられた毛束が耳の後ろまで逃げた。
「俺は花に詳しくないから、……相談して、この花に決めた。……おまえの知っている花のままで良かった」
そう言われてアンジュはもう一度花弁に顔を近付ける。
薔薇だ。私の知っている地球の花。聖地には無い故郷の花。
細かい部分は変わっているのかもしれないけれど、時間が過ぎても在ってくれる愛しいもの。あの街にあったものが今も受け継がれて続いている。どうか在り続けてほしいと願って止まない大切な場所。
「シュリ、見せてくれてありがとう」
震える声でアンジュが笑う。
「俺も見たかったんだ」
「それでも、ありがとう」
シュリの手がアンジュの後頭部に伸び、ふたつの影が重なる。
ふたりの間で赤い花弁が静かに揺れた。