④
ガリガリガリガリ。
オクタヴィネル寮寮長部屋では、絶えずペンが忙しなく動かされていた。部屋の主であるアズールの髪は、いつものスタイルは見る影もなく、ぼさぼさになっている。
「アズールぅ、まだやんの~~? 俺もう飽きた」
「別に隣で見守っていてくれなんて誰も頼んでいませんよ。というかお前は今日も授業でしょう。サボるんじゃありませんよ、これ以上僕らの印象が悪くなったらどうしてくれる」
「アハ。今更すぎぃ」
間違いない。そもそもフロイドの生活態度の悪さこそ今に始まったことではないし、そんなものが可愛らしく思えるほど、自分にかけられている嫌疑は人道を外れている(尚、大会目前のマジフト部員の膝を割ったり、ハーツラビュル所有のフラミンゴを丸焼きにしたりと、フロイドの非行も十二分に非人道的であるが、アズールはそれを知らない)。
アズールはぼりぼりと頭を掻いて、机に広げた資料を睨んだ。
「てか実際どうなの? マジに小エビちゃん殺そうと思ったんじゃないわけ?」
アズールのベッドに下半身だけを預け、だらりと上半身をぶら下げたフロイドはのんびりとした口調で尋ねた。ユウにあだ名をつけはしたが、それは別に親しみからではなく、カニちゃん(エース)とかウミネコくん(ルーク)同様、呼びやすさ、覚えやすさ重視の結果であって、その安否はぶっちゃけどうでもいいのだ。へぇあの雑魚死んだんだ、程度のものである。
「違いますよ、殺すなら刺し違えてでも確実に殺しますし、こんな面倒なことしてません」
これも違った、と呟きながらペンを強く握りしめて、アズールはため息をついた。
陸のエレメンタリースクールで用いられている資料集の隅には、非魔力保持者の身体には魔力処理機関が存在しないとの旨が、確かに記載されていた。しかし、どの文献を漁っても対処法は書かれていないのである。魔力処理機関の有無が明らかになっているということは、過去にも自分と同じ過ちを犯した人間がいるはずだ。それも一件ではないだろう。原因が明らかになるまで、数えきれないほどの同じ失敗が積み重なって然るべきなのだ。だのに、そういった歴史への言及がない。つまり、対症療法すら存在していない。
「ふぅん。でもアズール、そんだけ探してないならもう無理じゃね?」
「あ? 僕の限界を勝手に決めるなよ」
「いや、ちげぇし」
「うるさい。邪魔がしたいだけなら今すぐ出て行け」
「聞けって。アズールの限界とかじゃなくて、そもそも問題として成立してないでしょって話。だって今回って“ない”せいでお手上げなんじゃん。そんなのどうしようもねぇよ。俺でも思いつかねぇのにアズールが考えるだけ無駄でしょ」
「……いつから僕より優秀になったつもりですか」
「は? どっちがスゴイとかじゃねぇだろ。馬鹿なの? タコのくせに脳みそ足りないの? ひらめきは俺、考えるのがアズール。いつもそうじゃん」
分かっている。フロイドは自分を嘲っているわけでも、侮っているわけでもない。自分はいくらでも努力できる恵まれた人間だが、0から1を生むことが出来る才を持ってはいない。フロイドは逆だ。そういう話だ。
普段は押し殺しているどうしようもない劣等感に冷や水をかけたアズールはペンを手放し、フロイドにチョコレートを投げた。
「すみません、八つ当たりでした」
「別にいーけど。マ、小エビちゃんって結構しぶとそうだし、平気じゃん? うっかり死んじゃっても、ムショくらいなら付き合ったげてもいーよ。気に入らない奴マッポの前でボコせば一発っしょ」
「馬鹿ですか。お前、ゲテモノ食べられないでしょう」
「それアズールもじゃね? ジェイドも連れてけばどうにかなりそうじゃん。アイツ頭おかしーし楽勝楽勝。そんでお勤め終わったら海帰ろ。無理して陸に居続けることないじゃん。かっけぇ靴履けなくなるし服も着られなくなるけど、その分面白いことしてくれるんデショ?」
「……まぁその時は。何なら服役中にだって出来ることはあるでしょう」
へらへらと犯行声明を出すフロイドに、そんならもういいかと机上を片付けるアズール。なんだかもう自棄っぱちになってしまった。謹慎に入って早三日。碌に食いも眠りもせず、鬱々と調べものを繰り返し、自分の罪を数えていたのだから仕方がない。
弱者に情けをかけてみたのが良くなかったのだろうな、今更善人面をしようとしたのがよろしくない。先月ジェイドのテラリウムを壊してしまった咎を債務者に押しつけてしまったのも、なんならこの世に生まれてしまったのも良くなかったのかも。人道を外れてると言われたってそもそも自分は人間じゃなくって人魚なわけで、人道なんて生まれた時点で踏み外しているのだし。
こんな調子で、少しずつ少しずつ謙虚に卑屈になってしまったのだ。
「カァ!」
「「は?」」
アズールとフロイドが二人でチョコを食べながら、いやでも投獄されたとして実際耐えられる気はしないな、と微妙な顔をしていると、突如として現れたカラスが窓際で大きく鳴いた。此処はアズールの部屋であり、アズールの部屋はオクタヴィネル寮の中にあり、オクタヴィネル寮は海中にあるからして、野生のカラスなぞいるはずもなく。不意を突かれて素っ頓狂な声を上げた二人は、すぐにクソッタレ学園長か、と思い至る。
『アーシェングロットくん。おや、二人揃えば夢に見るほど猟奇的!でお馴染みのリーチくんの、1センチ余計に邪魔な方もいらっしゃる。ン、どうせご存知でしょうからいいでしょ。監督生くん、とりあえず峠は越えたようですよ。意識はまだ戻っていませんが、魔力による体内の破壊、壊死は止まったようです。今後はこれまでの分の治癒やらなんやら……まぁ色々ですね、やっていきますから。ハイ』
カラスが嘴をぱかりと開けると、今度はカラスらしい鳴き声ではなく、クロウリーの喋り声がスラスラと流れ出てきた。
視覚と聴覚のギャップがえげつくて気持ち悪ぃ、とフロイドが何かを吐き出すような身振りをする。
「……そうですか、それはよかった」
『エェエェ、本当に、もう、これ以上喜ばしいことはないですよ。というわけで声音が全然嬉しくなさそうなアーシェングロットくん、とりあえず君の処分とか諸々を検討するべく臨時寮長会議を行います。監督生くんが死んでしまっていたら当然即退学でしたが、どうにかなりそうなのでチャンスをあげます。私、優しいので』
「ありがとうございます」
『どういたしまして。ではまた後ほど!』
どういう原理かは分からないが、海中に繋がる窓から飛び去ったクロウリー(カラスの姿)を見送り、アズールは大きく息を吐いた。
ユウが一命を取り留めたのはよかった、本当によかった。即退学を免れたのも有難いことだ。弁解の機会が与えられるのなら勝機はある。だけど、それよりもだ。
「1センチ余計に邪魔な方」
「ん〜〜、言わなくても分かるけど何? あと次その呼び方したら殺す」
「鳥の丸焼き、食べたくありません?」
「さんせ~~い」
⑤
「これは彼を擁護するというわけではありませんが……」
臨時招集された他の寮長たちの顔をぐるりと見回した後、リドルはクロウリーを見据えて切り出した。例の如く頬杖を突いているレオナも、無関心であるかのような顔をしたまま、三角形の耳をピクリと動かした。
「各々ご承知の通り、魔法はある種の神秘といえ、それの根源である魔力はより純粋、より自然なものに宿るもの……所狭しと文明が敷かれた陸よりも、余白が多い海の方が自然であって、海において魔力を有しないということは稀です」
「生まれてもすぐ淘汰されますしね」
クロウリーの補足に、リドルとアズールが小さく頷く。
何から何まで司法の下にある陸の社会と違い、どうしたって海から野生を取り去ることはできない。人魚とそれ以外の生物の棲み分けが、陸での人間と猛獣のそれほどハッキリしていないのだ。
「アズールも、その補佐的役割を担っているジェイドも、海の出身です。いくら勤勉な彼とはいえ、魔力の処理機関を持たない人間について知らないということは、十分納得できる話でしょう。陸と海の間には歴史的遺恨があって、未だに交流が乏しい面もあります。珊瑚の海は寒帯。交易が少なく、人間の居住区もほぼ皆無ですし、尚のことでは?」
リドルの問いかけに、クロウリーは今度は腕を組んで「フム……」と小さく呟いた。
理にかなった説明ではある。野次が飛んでないところを見ると、他の面子も対抗する気はないようだ。
「魔法士になるべく陸に上がることも、レアケースといえばレアケース……。とはいえ、疑わしきは罰するというのが、この件に関するボクの意見ですが。アズールは、暴力のような分かりやすい愚かな真似はしないと思うけれど、監督生を嫌悪していたのも事実。ボク個人の意見を言わせてもらえるのなら、彼の犯行だと思います。感情は、時に理屈を超える」
本当に擁護するつもりはなかったらしい。ただリドルが公正な人間だっただけだ。
はじめて自分の言い分を支持するような意見を出してくれる人間がいた、とアズールが喜んだのも束の間であった。完全に信用がない。
これだから学友などというまやかしは信じないことにしているのだ(そもそも、リドルはアズールを学友と思っていないが)。誰も彼も、こちらが益のために繋ぎ止めようとしなければ、卒業と同時に縁が切れる存在だ。
「みなさんはどうですか?」
「アタシはアズールはやってないに一票。だけど疑われるような無様な生き様と、アタシの時間を奪ったこと、その二つにおいて痛い目は見てほしいわね。有罪」
「ヴィル先輩、そんないい加減なことでは困ります」
「あらリドル、気に入らない?」
「ええ、全く」
「そ。マ、文句を言いたければ、アタシをアンタのとこの寮生にしてみせることね」
実質無罪。この中でかなりの常識人枠であるヴィルが味方についたことに、アズールはひっそりと安堵した。
クロウリーも、右手の人差し指を立てて、ヴィルからの一票をカウントする。リドルだけが不服げに、ぎりぎりと歯を食いしばった。
「アズール氏にはいろいろ助けてもらってるけど……校内での様子は拙者はよく知らないから置いといて、部活ではかなり怨念こもった発言してましたしおすし……ぶっちゃけテラ怪しす。ギルティでは?」
「シュラウドくん、簡潔にお願いできますか?」
「ヒッ、小声早口を暗に咎めてくるタイプのクソ教師……! 文句があるならもっとストレートに言えよ……これだから権力を手にした汚い大人は……」
今回の臨時会議を休めば問答無用で留年と聞かされたために珍しく生身で出席しているイデアであるが、やはりボリュームダウンと、その代わりのスピードアップは免れなかった。
どこかで無理を通すために引っ込めた道理が、また別のどこかからひょっこり顔を出す。引きこもり属性のオタクとは、そういう生き物なのである。
「シュラウドくん?」
十割自分に非があるのにも拘わらず悪態をついたイデアに、クロウリーはもう一度声をかけた。イデアの発言をなかったことにしているのではなく、自身を賞賛する言葉しか届かない便利な耳をしているのだ。誰も傷つかず、結構なことである。
「ゆ、ゆ、ゆゆ有罪です!」
クロウリーの左手の人差し指が、右手に倣ってピンと立つ。
アズールは、もしまた部活に出席することができたら、必ずやあの引きこもりチャンピオンに報復してやる、と心に誓った。リドルに上げて落とされたことよりも、少なからず心を許し、向こうもそうであると思っていた人物からの有罪判決の方がつらいものがあったからだ。決して落ち込んでいるわけではないが、許しておけるものでもない。
「続いて同じく三年生のマレウスくん……と言いたいところですが、彼は欠席です」
「……そもそもあんな常に行方知れずのトカゲ野郎の意見、聞く意味はねぇだろ。社会不適合っぷりはそこのカイワレ大根にも負けてねぇんじゃねえか」
「ヒッ、飛び火した」
レオナが馬鹿にしたように言うと、ムカつきはするものの怖くて何も言い返せないイデアが小さく悲鳴を上げた。姿が見えなくとも悪態をつくとは、随分余裕のないライオンである。
余談にはなるが、耳目に蓋をして、持っている手札で勝負しようという気がまるでない、レオナのような宝の持ち腐れ人間のことが、アズールは大嫌いだ。イソギンチャク事件のこともあって好感度はとうにどん底であり、ついつい胸中で中指を立ててしまう。
「まあまあそう言わずに……。今日の会議のことは彼も知っていますよ。ただ、監督生くんの回復に関する検討会にご協力いただけるとのことで、そちらを優先していただきました」
クロウリーの言葉に、アズールのひっそりと張っていた虚勢がみるみる萎んでゆく。
ユウの詳しい現状については、この会議が始まる前に、最低限ではあるが聞かされていた。
魔力傷害の治療に迂闊に魔法薬などを使えば、本来のそれとは違う効果を発揮する危険性が高い。そのため、直ちに命の危険があるというわけでなくなったユウに対しての処置は、十分な議論を要するとのことだった。学生という立場ではあるものの、現段階で十分に優秀な魔法士であり、しかもユウの事情を把握しているマレウスが駆り出されるのは当然のことだろう。
それだけ深刻なのだ。持ち直したとはいえ、明日ぽっくり逝くことも、まだ十分考えられる。
アズールは、途方もない現実に丸腰で立ち向かっていた。ある意味命一つの存在が軽い環境で生きてきたがために、間近な死の想像が甘かったのだ。自他ともに認める、冷静を体現したような男であったのに、最近はそんな姿もすっかり鳴りを潜めている。
「そーかよ。まあ俺ぁタコ野郎がどうなろうと知ったこっちゃねぇが、そいつの性格からして、仕留め損なっておめおめ露見、なんて事態をここまで放ってはおかねぇだろ。なら意図的じゃねぇ。草食動物もタコ野郎も、単純に物を知らねー間抜けだったってことだ」
「なるほど? アルアジームくん、貴方はどうですか」
想定外のレオナからの評価を、クロウリーの右手が二票目としてカウントした。自分への認知のゆがみはともかく、意図的に害したのではないことを理解してもらえていることに、アズールは息をつく。
絶望している暇などないのだ。アズールには、為すべきことが山積である。とにかく再びユウに会い、過失を詫び、必要ならばユウの怒りを受容するために、立場を守らなくてはならない。
「オレは……アズールは本当に知らなかっただけなんだと思う。もし、そうじゃなかったんだとしても、アズールはいなくなったりしちゃいけなくって、ええっと……ごめん、俺はバカだからうまく言えないんだけどさ。もし監督生が帰って来た後につらくなっちまったら、そこにはアズールが必要だって思うんだ」
自信なさげに、けれどもいつもの快活な笑みでそれを誤魔化したりすることなく、カリムは自身の手元に視線を落とし、拙い言葉のままに続けた。
「アズールのことを悪く言いたいわけじゃないぞ? でも、恨まれるようなことをしたんなら恨まれなくちゃいけないっていうか、なんかそういうもんだって、オレは思うんだ」
おそらく「親友」のことを考えているのだろう。カリムの表情は歪んでいた。
ジャミルがオーバーブロットして以降、カリムには少し影が差したようだった。当然と言えば当然で、良いとも悪いとも言い切れない、相当に人間らしい変化だった。
「カリムさん……これは誓って嫌味とか皮肉ではなく、あなたは本当に良い方だ」
関係性に名前と意義を見出すのは、奪われた人間がすることなのに。
黙っていればどんどん落ち込んでいくような人間を好むアズールは、途端にカリムが近しい存在に思えた。暗いのは壺の中だけだと思って逃げていたくらいであるから、お日様が陰ってしまうなど、考えてもみなかった。
「ま、監督生はきっと大丈夫だし、アズールを恨んだりするような奴じゃないよな! アズールがわざとやったんじゃないって言うならなおさらだ! 俺はお前を信じるぜ!」
前言撤回、太陽はいたって健在である。これまでの深刻な雰囲気を消し飛ばすかのように、唐突にいつもの調子に戻ったカリムに、アズールは嫌悪感を持ち直した。
カリムとユウは、本質はともかく、表面的なところでは随分似ている。そうだ、ユウに穴だらけの報復をするくらいなら、全てを投げうってカリムを滅ぼすだろう。そのくらい、自分が有罪になることは馬鹿げている。
アズールは賢いので、そうは口にしないままカリムを睨んだ。これこそが、紛うことなき生理的嫌悪というやつだ。
「オヤ、正直想定外ですが……疑わしきは罰せず、ですかねぇ」
「私、優しいので」という常套句がお留守なあたり、無罪放免にするだけの理由もなければ、処分に付すだけの理由もないことに、クロウリーがどれだけ手をこまねいているかが窺えるというものだ。本当はアズールのことを悪意の犯人と思っているだろうに。
「ローズハートくんも、納得していただけますか」
「……納得は、できません。しかし、僕の独断がものを言う場でもないでしょう。学園長のご判断に従うまでです」
「そうですか。では、我々は監督生くんの復調を祈るのみ、ということで……今日はこれまで!」
クロウリーは、票を数えていた両手をあっさりと下ろし、お得意の転移魔法で瞬く間に姿を消した。次いで寮長たちも、終わった終わったとばかりに欠伸をしたり、自寮に戻る支度をしたりと、途端に緊張を解く。
「アンタ、今度のは対価なしよ。迷惑料」
「ああはい、勿論ですよ」
長く短い裁判が終わった。わずかに放心状態だったアズールは、ヴィルに声をかけられたことで我に返った。
「今度の」とは、例の美容用品のことだろう。時は金なり。迷惑をかけたことに違いはないのだし、それで済ませてもらえるのなら寧ろ有難い。素直に首肯する。
「いいわ。……じゃあまあ、気張りなさいよ」
なんだかんだと、この学校で最もマトモ、常識人であるヴィルだ。何の含みもなく、年下の自分に心を配ってくれているのだろう。悔しさだとかそういうものには蓋をして、アズールは小さな笑みを返した。
「ええ、ありがとうございます」
傷つけた分だけ傷つく。道理とはそういうものだ。だから今度はきっと、長い苦しみになる。
アズールは、鏡の間を一番最後に後にした。
⑥
「もう聞いたか? 例の」
「例の?」
「監督生だよ! とうとうやられたって」
「えっ。やられたって……もしかしてアーシェングロット?」
「トーゼン、それ以外ないだろ。天涯孤独の奴にあそこまで出来るのなんて、あのイカれタコ野郎くらいだって」
「双子もなん? あからさまにヤバい方とか結構気に入ってなかったっけ」
「知らんけど、そんなん気分だろ」
「ああ、お得意の」
ヒソヒソ、ジロジロ。廊下を歩いてみても、教室に座してみても、視線と噂話はつきまとった。
ユウはなんだかんだと、この学園の生徒全体に気に入られていた。ほどほどに狡くて、しかし他人の尊厳を脅かすことはせず、能力主義とはかけ離れたところにある凡庸さ。利用価値はないが、害もなさない、中継基地とでも言えばいいだろうか。とにかく名状し難い心地よさを持つ人間だったからだ。特に、クラスを同じくする者たちは、昼休みに中庭で馬鹿をやってみたりとなかなか楽しい思い出を築いていた。
だからこその、非難轟々のこの現状だ。
「もうマジで何なの、うっぜぇ。アズールぅ、アレ、絞める?」
「おやめなさい。ない罪を認めるようなものでしょう」
「だって〜〜」
「フロイド。気持ちは分かりますが、アズールの言う通りだと思いますよ。今は我慢です」
「……ムカつくぅ」
今回ばかりは本当にとばっちりであるフロイドとジェイドの機嫌はというと、言わずもがな最悪であった。口調は平時と変わらず穏やかなジェイドも、フロイド同様キャンディを噛み砕いたりペンを折ったり、力任せの奇行を重ねている。
「フロイド、お前そんな調子で食堂に行って平気なんですか? いつもみたいに、煽られたら拳で素早いお返事なんて困るんですよ」
「……なあにエラそうに説教こいてんだよ。全部お前が間抜けなせいじゃん」
「フロイド」
むしゃくしゃをそのままに、フロイドはアズールをぎろりと睨んだ。
面白いから組んでるし、大抵のことは許す。けど、それで不愉快な思いをするんなら本末転倒じゃん。
本気で責めるつもりはないけれど、嫌味の一つくらいは言いたい。その程度の苛立ちだったが、思いのほか語気が荒々しくなってしまった。フロイドがやべ、と思ったときにはもう、片割れが「これ以上イラつかせてくれるな」と言わんばかりの呆れ顔をしていた。アズールが深刻に受け止めてはいなさそうなのが、せめてもの救いだ。
アズールとジェイドは何かあると徒党を組む仲良しさん(勿論友達という意味ではない)なので、アズールが拗ねると、ジェイドがエレメンタリーの学級委員長みたいな態度に出て鬱陶しいったらないのだ。
ジェイドの家族はオレなのに、なんで2対1になる時はオレが1側かな。普通アズールじゃね?
フロイドは、雑巾絞りの時といい、ずっと不満であった。一方、「オレが出来ちゃう子なせいだろな」という自覚もある。やんぬるかな。
「……ん~~、雑魚殴っちゃいそうだから部屋戻って寝るぅ」
「……まあ暴力よりサボりの方がマシですかね。ジェイドは? どうします」
「いやですね、アズール。これ以上僕に飢えを我慢しろと?」
「愚問でしたね」
ギュルゴゴゴニンギョギョギョメキッ、という壮絶なジェイドの腹の音を合図に、去ってゆくフロイドの背を見送った二人は食堂に向けて歩を進めた。
・・・・
学園が一日で最も活気づく時間、ランチタイムになれば、嫌われていようといなかろうと、生徒たちは食堂に吸い寄せられる。
その中でもトップレベルのスピードで大きめの区画を陣取ったジェイドは、慣れた様子で大量の料理をバランスよく三角食べしてゆく(この男は常に山盛りの料理が載った皿三枚を相手取っているので、学園中でジェイド・リーチのバミューダトライアングルとして有名である)。
「アズール。それだけですか?」
「食欲がないんですよ」
テーブルにやってきた人影にジェイドが顔を上げると、ナッツや野菜がお上品に彩りよく盛り付けられたサラダボウルだけを手にしたアズールが立っていた。もごもごとソーセージを飲み込むジェイドを見て、それすらも気持ち悪いというように、アズールはげっそりとした面持ちで席に着く。
「おや、僕並にデリケートですね」
「ああはいそうですね、まったく完全にはっきり同じ気持ちです。それよりもお前、行儀が悪いですよ」
「失礼。ただこれはすぐに対処した方がよろしいかと……」
右手に握ったフォークで肉を突き刺し、左手に握ったスマートフォンを何やら熱心に見て、咀嚼を続けたままアズールとの会話を続ける。ジェイドが案外生き汚い人魚だということは重々承知しているアズールも、それを取り繕いもしないというのは見過ごせない。
アズールが窘めると、ほんの少し悪そうな顔をして、でもやっぱり改める素振りは見せないまま、ジェイドはアズールに自分のスマホを差し出した。
「『監督生大丈夫かな。魔法性崩壊症だろ?資料でしか見たことないよ、俺。悪いけどアーシェングロットのことは許せない』……うちの生徒のマジカメですか?」
「ええ」
画面には、若者なら誰でもよく知るマジカメのタイムラインが表示されていた。アイコンに使用されている画像を見るに、おそらくサバナクロー寮生のアカウントである。しかし、特におかしな呟きや素敵なチャームポイントがあるようには見えない(つまり、接触メリットがあるようには見えない)。今流行りの、悪の権化オクタヴィネル寮長を悪し様に言うだけの、ありふれた呟きである。
「それが何か」
「おやおや、本当にお疲れのご様子」
スマホを突き返して、まるくきれいなトマトを口に運んで、アズールは尋ねた。すると、ジェイドはにたにたと笑った。
僕を馬鹿にするとき、本当に楽しそうだなこいつは。
無論ジェイドはアズール以外をコケにするときも楽しそうではあるのだが、それはともかくとして、アズールはぴくりとこめかみに力を入れた。
「この方、カリムさんと同じくらいアチラに行ってもおかしくなかったと評判で……ですから、わが校には珍しくそちらのご友人がフォロワーに」
この学園と対を成すアチラ。すなわちロイヤルソードアカデミーだ。信じ難い内容に、アズールは耳を疑った。
「はあ? カリムさんでも繋がっていないでしょう」
「それはジャミルさんが蛇蝎の如く嫌悪して徹底的に排していらっしゃるので」
「ああ、ナルホド……いえ、そんなことより、部外者がいるなら話は変わってきますよ。監督生さんについては学校側から箝口令が敷かれています。処理は?」
アズールは、今年度のはじめから、イデアと共に学園の秘密保持への協力をクロウリーから依頼(命令)されていた。学園の秘密保持と広く銘打ってはいるが、結局は監督生にまつわる情報を死守しろと、そういうことだ。よって、ジェイド(ときどきフロイド)を巻き込んで、監督生関連の話題にはある程度目を光らせている。だが、監督生は自分たちと違い、恨みばかり買うような生き方はしておらず、特段ネット上で話題になることもないので、最近はそれをやや怠っている節があった。それに何より、この学園の生徒は、外部に友達がいないのが特徴なので。
しかし、こんなことになっている以上、警戒しておくべきだったのに。にしたってこの男は本当に、何を考えて生きているのだろう。他者を完全に掌握しておかなければ気が済まない性癖とか、そういう感じがする。十年余り一緒に居てまだ分からないのだから、きっと一生気持ち悪いのだろうな。
アズールは自分の甘さを呪い、ジェイドの憎たらしい優秀さと気持ち悪さに感謝した。何事も早期発見が肝心だ。情報と癌は、ほぼ同じものである。
「ええ、まあ。それほど時間もたっていませんし、事情を知らない人間からしたら、すぐに消えてしまったちょっとよく分からない呟きです。気にも留めないでしょう」
「……なら問題はないですかね」
一安心ではあるが、イデアに頼んで何かしらの警邏システムを構築してもらう必要がある。
今あの人に頼みごとをするのはかなり癪だ。癪だが、仕方がない。でもあの場で庇ってくれなかったのだし、今回は報酬はなくてもいいだろうか。
アズールはまだ臨時会議でのイデアのマイナス方向援護射撃を許してはいなかった。あれは完全に背中から撃たれたと言っていいだろう。
「ええ。ですからアズール、あなたが今真に心配なさるべきは、次の実験のペアについてでしょうね。D組と合同でしょう? あの調子ではおそらくフロイドは欠席なので、奇数になります」
「……今回の提出課題は一人では」
「そういうことです」
提出課題は「ザナドゥのしずく」。ザナドゥというだけあって、理想郷にたどり着いたかのような極楽を見せてくれる薬品だ(ちなみに、その性質ゆえに中毒性が高いので、人体への使用は違法となっている。主に魔法生物の成長促進剤として用いられるが、生命倫理的観点からの批判も多い。とはいえ、現代の医療・農業分野では魔法生物の需要が非常に高く、人為的な成長促進は今後も続いていくと推察される)。
精製の工程は複雑かつ膨大であり、最低二人以上で取り組むのが基本だ。腕が四本あって足りるか足りないか微妙なラインなのだ。魔法薬学や錬金術を得意とするアズールといえど、一人で挑もうとは思わない。無謀が過ぎる。
さて、普段のアズールであれば、実験においてパートナーは引く手あまたであり、今から食事を終えたらそのまま足取り軽やかに実験室に向かえばよいだけである。しかし、繰り返しにはなるが、今は嫌われ者であるので。
「フロイド……!!」
さっき逃がすのではなかったと悔やんでみてももう遅い。あの気分屋(しかも機嫌は最悪)を寮まで呼びに行ったとしてもほぼ確実に動かない。それに、本当に寮に帰っているかも怪しい所だ。学園中を探し回る手間をかけてまでほぼ負け確の懇願をする気も時間も、アズールにはない。
「なんだアズール、随分ひどい顔だな。悩み事か?」
「ジャミルさん!」
アズールが頭を抱え、ぐぅぅと低い声で唸っていると、ジェイドの後ろから、ジャミルが愉快そうにひょっこりと顔をのぞかせた。
ジェイドは口をパンでいっぱいにしながら、軽く会釈だけをしてみせた。食事中は警戒心も礼儀も疎かになるのだ。ジャミルはそれを一瞥するも、礼儀作法について説教するなんて世話をカリム以外に焼く気はないので、特に反応することはしなかった。
「眠れていないのか? そうだよな、いくらお前といえど監督生のことは胸が痛むだろう。次の時間は医務室でゆっくり休んだらどうだ」
「いえ、ご心配いただくほどのことは……」
「なんてな。誰がお前の心配なんてするものか。対価はいらないから、次の時間は俺と組め」
わざとらしく身振り手振りまでつけてアズールを心配する様子を見せたジャミルは、アズールが苦しそうに愛想笑いを浮かべようとすると、一蹴。鼻で笑って、高慢に命令を下した。悪評が立ちまくっている自分よりも酷くこき下ろされるだけでなく、しっかり自分の黒歴史を風化させてくれているアズールを嘲るのが、楽しくてたまらないのだ。
「え? よろしいんですか? こちらとしては願ったりかなったりですが……」
アズールはジャミルから漂う愉悦感を察知しながらも、その申し出に声を弾ませる。
ジャミルは下剋上失敗以降、己の優秀さを隠そうとしない。それどころかひけらかす節すらあるので、実験のペアとしてはこれ以上ない人物なのだ。
しかし対価なしだなんて怪しい。カリムなら分かるが、ジャミルである。そんな気持ちが顔に出ていたのか、ジャミルが呆れたようにため息をついて言った。
「win-winなんだよ。俺も成績が欲しい。機嫌のいいフロイドがいないならお前がベターだ」
「おや、しかしジャミルさん。アズールに与していると思われれば不愉快な目に遭うやも……」
ゆで卵を最早丸呑みのように腹に押し込んだのを最後に食事を終えたジェイドは、口元を紙ナプキンで丁寧に拭いながら、いたずらっぽく笑って言った。ウツボの人魚のくせして、蛇のような男である。まあ、無駄に長い所は似ていると言っていいかもしれないが。
「ジェイド」
余計なことを言うんじゃない。お前は誰の味方なんだ。
若干の怒気を孕ませて名前を呼んだアズールは、ジェイドが事あるごとにちょっと自分を貶めようとすることを思い出してしまった。こういう時、アズールはジェイドと一緒にいる理由を見失う。ああ、同じ海に生れ落ちてしまったばっかりに、といった具合に嘆くわけだ。
「ハッ。俺がお前ら三人に邪魔されたことを知ってて与していると思うような馬鹿は放っておくし、そんな馬鹿に、俺をどうこうできるような奴はいないさ」
「それはそれは、頼もしいことですね」
「ジャミルさん……あなた、なんだかんだ言ってやはり僕とお友達に」
「いや、それはない。カリムと友達になるくらいない。別に、落胆するほどはなからお前に期待してないってだけだ」
全力の否定。ジェイドは、その勢いにパンパンに膨れ上がった胃袋がひっくり返りそうになるのをどうにか抑えつけて、アズールにやさしく微笑みかけた。
「一件落着、おめでとうございます……ンフッ」
⑦
空を飛んでいる。
直感でそう思った。全身に感じる圧力と、踏ん張りどころを失った内臓。幼いころから憧れては思い描いていた空中浮遊と比較してしまうと、正直なところ多少期待外れな感触だが、現実とは得てしてそういうものだ。
しかしどうしたものか。目が開かない。今まで生きてきた経験則的に瞼があると思われる部位に力をこめてみても、うんともすんとも言わない。もっと正確に言うならば、力をこめるという行為さえできない。これは何だ。また何か厄介事か。次はどこの寮長がバブッたというんだ。
ユウは、自分が、上下前後左右といった一切の方向を失っていることに気がついた。からだを持っているという感覚はあるのだが、そのからだにおける「部位」という概念が抜け落ちてしまっている。自分は何か大きな塊で、今思考している意識だけを抱えているとか、そういうような。加えて、何の音も聞こえない。こんなに静かなことってあるだろうか。
あ、もしやこれが、ありのままの姿になるということか。ひょっとして、自分は今「魂」そのものになっているのではないかしら。
そこまで考えたユウは、自分は飛んでいるとか生きているとかそういう次元でなく、「実存している」のだという気がしてきた。空気と同じくらいに希薄で、しかし惑星と同じくらいに雄大かつ絶対な存在に、なっているような。
そうだ、自分は「ユウ」などではなく、世界を循環する何か大きなエネルギー体だったに違いない。名前などない、すべての世界に遍く在るような。
「何を呆けている、人の子」
「へ」
突如として介入してきた、低い男の声。何かに溶け消えようとしていたユウの意識は、それにギュン、と引き戻された。知覚していた「すべて」が遠ざかっていく。
同時に、直前まで朧気だったからだが輪郭を取り戻し、先ほどまでと一転、ドクドクと痛いほどに心臓が脈を打ち始める。反射的に開かれた口からは、やけに懐かしいような自身の肉声が飛び出し、ユウは妙な感動を覚えた。しかし、瞼の方は、依然重たいままである。
「傷ついているとはいえ肉体は問題なく生きているというのに、どこにもお前自身が見当たらないから探してみれば、こんなところまで来ているとはな」
「……ツノ太郎?」
不当に高圧的というわけではないが、他人に対して上から物を言うのが当然というような声音に、抽象的かつ自己完結的な独特の言い回し。聞き覚えのあるそれに、ユウは今初めて手にしたように感じる、他人のものとすら思える記憶から、ひとりの友人の名を手繰り寄せた。暗闇に向かって、確かめるように問いかける。
長い眠りから目を覚まし、それまで見ていた夢の内容が、靄がかかったようでどうにも思い出せないときのような感覚の中、なんとなくではあるものの、自分がかなりマズい状況にあったということは理解できたのだ。おそらく、さっき正にあの瞬間、友に声を掛けられることがなかったら。その先を考えることが、たまらなく恐ろしかった。
「いかにも、お前の良き隣人だ。この僕が直々に迎えに来たんだ、このような何もない、退屈な所に長居は無用だろう?」
ユウは、もうずっとしまい込んでいた「帰りたい」という言葉が、腹の底の方から浮かび上がってきたのを感じていた。しかし、今ここでの返事にはそぐわない、そう判断して曖昧に頬の筋肉を緩める。
「んと……さっぱり状況把握ができてないんですけど、今どんな感じですかね」
「ん? ああ、まだ目が開いていないのか。人間というのは本当に壊れやすくて困る」
「え、壊れやすいって何ですか、私割れ物注意な感じですか。繊細ドラマチックヒロインポジですか」
どうして自分は今「帰りたい」と素直に言わなかったのだろ。何もいけないことなんてなかったはずだ。
友人に笑いかけながらユウは考え、そしてすぐに「あ、いやだな。考えるのは私の仕事じゃない」と自問自答のプロセスを構築する脳みそに待ったをかけた。かけてやれば、ほどほどに優秀な脳みそはすぐにちゃらんぽらんモードに移行して、さっきよりもナチュラルに、へらへらとした表情を作り出してくれる。
「溶けてしまっても元に戻す手段がある分、ガラスの方が幾分マシだな。人間は一度溶けきるとどうにもならない。……ところで、繊細ドラマチックヒロインポジとは何だ? いや、それは後だな。そう悠長にしてもいられない」
あ、後で説明はしなくちゃいけないんだ。忘れてくれないかな。この人ジョーク通じにくいの忘れてたな。
新たに生じた面倒に、ユウが自分の無駄口を悔やんだところで、「ほら、これでどうだ」という声が聞こえ、辺り一面がまばゆい光に包まれた。
「うぁ!」
違う、何かが発光したのではなく、自分の目が開いたのだ。
ユウは、ぼんやりと白くトんでいる視界の中でもはっきりと分かる、真っ黒い特徴的なシルエットにそう理解した。
結局何が起きているのかはまるで把握できていないけれども、まあ致し方ない。どうせ魔法だ。この世界の難しいことは大体魔法。そう結論付けたユウは、目の前の黒い影の上部(つまり顔がありそうな辺り)に向かって言った。
「ごめんツノ太郎、まだしばらく何も見えなさそうだからとりあえず連れて帰ってもらっていい?」
「フッ、フフ……この僕を馬車代わりにするのは、世界広しと言えどお前くらいだぞ、ヒトの子」
「お、やった。お褒めに預かり光栄です、ツノ太郎」
楽し気に笑う影に手を取られて、恭しく頭を下げるか下げないか。その一瞬で、ユウは先ほど取り戻したばかりの意識を手放した。
⑧
パチリ。
驚くほどはっきりと「起きた」と知覚した瞬間、ユウは渾身の力を以て叫びそうになった。それはもう、かつてあげたであろう産声を軽く凌駕するくらいの叫び声をあげられそうな勢いだった。だって、視界がぎょろりと蠢く黄金の瞳で埋め尽くされていたのだ。ホラーには耐性があるつもりだったが、いざ実際に味わってみると分かる。たとえB級ホラー映画の仕掛けだって、現実に起きれば号泣発狂ものだ。
だが、結局ユウの叫びは声にならなかった。パシリ、と口元を押さえつけられたからだ。そして、押さえつけてきた手の指先にひんやりとした感触の鉤爪があることに気がついて、ようやく自分をのぞき込んでいる人物(目覚めた瞬間は化け物だと思った)の正体がクロウリーであると思い至った。しかし、相手がクロウリーだからといって、押さえつけられて安心などできるはずはないので、どうにか体制を変えようと身を動かすと、さらに上からの力が増した。
えっこれどうしろと?あと何、今気がついたけど全身めちゃくちゃ痛い。えっ無理無理無理無理ーマンショック。
ユウは涙目になり、このわけがわからないくせに絶望的な状況を打破してくれる第三者の介入を願った。
「あらヤダ、ホントに目覚ましましたよこの子! しかもすごく元気! 若いってスバラシイですねぇ! ちょっとクルーウェル先生、見てくださいよほらほらほらほら」
「貴方は馬鹿ですか! それは痛がっていると言うんです!」
発言の8割がインモラルな自称(調)教師、クルーウェル様の存在にかつてこれ程感謝したことがあったろうか。
大丈夫かと言って駆け寄り、上に覆いかぶさっていたクロウリーをはじき飛ばしてくれたクルーウェルを、ユウは心の中で拝み倒した。実際に拝むには体がバッドコンディションすぎるが。バッドボディー!
「……めっっっちゃ身体痛いんですけど、今私どうなってる感じですか」
「全臓器、筋肉で重度の熱傷、裂傷、壊死がカーニバル中」
「え、死体?」
「というのは嘘だ」
「どうして嘘ついたんですか」
「今は全身筋肉痛ってところだな」
「なるほど筋肉痛……え、今は? 今はって言いました? つまりなんですか、アレですか、過去の私は全臓器、筋肉で死のカーニバル開催してたってことですか?」
「してたな」
「してましたねぇ」
何でもないことのように頷いてみせたクルーウェルに、ぬるりと会話に参入してくるクロウリー。悲しいかな、ナイトレイブンカレッジには、生徒の命の危機に何ら動揺しない性根の腐った教師しかいないのか。
ユウは、こんな大人しか周りにいなかったのにどうして助かったのか首を傾げ、人生で初めて神に感謝した(とはいえ、ユウは無宗教の民であるからして、この感謝がどこの神に行くのかは全く不明である)。
「どうしてそんなことに」
「そこですよ、そこ。監督生くん、貴方アーシェングロットくんに魔力を分けるよう依頼しましたか」
「……? はい、空を飛びたいと言ったら、飛べると言われて」
「……うぅん、クルーウェル先生、どう思いますか」
「限りなく黒に近いグレーですね」
「グレー、ですよねぇ……」
グレー、とは。
揃って渋い顔をしてウゥン、と低く唸り声をあげる教師たちに、ユウは眉間に皺を寄せた。いい加減どういう状況か把握したいのに、どうにも置いてけぼりだ。
「あの…………ぁ」
いや待てよ、そういえば自分はさっき何処かやばそうな場所でやばそうなことになって、ツノ太郎に助けられたりなんかしなかったか。どういうことかは分からないけれど、「連れて帰る」と言われて今ここで目を覚まし、おそらく瀕死状態から回復したところ。そしてこの場にいない先輩とのやりとりを確認され、何やら深刻そうな教師たち。
事情を説明してもらうべく口を開いたユウは、クルーウェルたちに質問を投げかける前になんとなく答えに辿り着いてしまった。
「もしかして私が今こうなってるのって飛ぶために分けてもらった魔力のせいで、アズール先輩が殺人未遂犯扱いされてたりします?」
「ご名答。なんだ仔犬、随分冴えてるじゃないか。睡眠は十分みたいだな」
「……ヤ、これに関しては推理が当たってもやったね事件解決だなんて言えやしないんですよ、えぇん……アズール先輩に何て謝れば……?」
「謝るんですか?」
「謝りますよ」
「何故だ、お前が無知であることは仕方ないが、向こうはそうではないぞ」
ナンセンスだとでも言いたげな顔をするクルーウェルに、ユウは、小さく首を横に振った。
「無知に仕方ないもクソもないですよ、先生。それは主観に取り入れちゃいけない主義主張トップ3に入ります。アズール先輩は事実無根の嫌疑をかけられた、つまり私は迷惑をかけた、だから謝る、それだけです」
「前から思っていたが、お前の故郷は随分と背負いたがりなんだな」
「おぉ、私個人の意見でしかないので国民性だと思わないでくださいよ、羞恥で死にます」
「コラコラ監督生さん、一応死にかけてたんですから軽々しくそういうこと言うんじゃありません!」
めっ!とわざとらしく窘めてくるクロウリーにニヤリと笑って、ユウは拳を突き上げ、叫んだ。
「生還したからこそ言えるんですよ、いのち、サイコー!」
そして同時に、反動で激しく痛んだ体に悲鳴を上げ、それを見た教師二人はやれやれと肩をすくめた。
夜明けの光が、病室の窓を覆うカーテンの隙間からひっそりと差し込んでくる頃のことであった。
⑨
「監督生~~! お前、何急に死にかけてんだよ!」
「そうだぞ! 僕たちに何の断りもなく!」
「全くだゾ、オレ様のお世話も放置しやがって、ゆ、ゆ、許せないんだゾ! 次同じことしたら、子分なんか燃やしちゃうんだゾ!」
シャリシャリという小気味の良い食感を楽しみながら、寮のゴーストたちからの見舞いだという林檎を食べている最中、病院だというのにドタバタと騒がしい足音が聞こえてきた時から、ユウとて覚悟はしていた。していたけれど、実際我慢するかどうかは全く別の話である。
「うるっっっっさい! 心配かけたのはゴメン! でもここ病院なんだし静かにしてってテテテテ……」
「か、監督生、しっかりしろ!」
「ふなぁ! 子分、どこが痛いんだゾ!」
「カントクセ――――!」
「お前らなぁ……見舞いに来て、怪我人の体調悪化させてんじゃねぇ」
喜劇のようなやり取りを繰り広げる問題児二人+一匹と監督生に、その中に交ざらずにいたジャックが、ため息まじりに呟いた。相変わらず逞しい腕で、ベッドの上のユウにしなだれかかった三人を持ち上げることも忘れない。
「あ、ありがとうジャック……。でもまぁ、もう怪我人っていうほど怪我人ってわけじゃないんだ。体の損傷はよくわかんないけど完璧に修復されてるらしいし、今はもう酷い筋肉痛だけって感じ」
「そうか……にしたって、無理はするなよ」
「うん」
ポリポリと、あからさまな弱者を前にどう振る舞えばいいのか、いまいち正解が分からないのだというように頬を掻くジャックに、ユウは心が綻んでいくのを感じた。
「でもほんどによがったなぁ……学園中、監督生さんの話で持ちきりで、話す人によっては死んじゃってたりしちゃったんだよ」
「えぇ……なんか監督生は二度死ぬ、みたいでイヤだな……」
胸の前で腕を組み、くりくりとした大きな瞳をうるませ、可憐な笑みを浮かべるエペルの言葉を聞いて、ユウはげんなりしてみせた。すると、ジャックによって引き離されたはずのデュースがズイ、と満面の笑みを寄せて、親指を力強く立てた。
「安心しろ、そんな縁起でもないこと言う奴は僕とエースでシメ、ボコ、黙らせておいた!」
「ウン、デュースく〜ん、全然言葉選べてねぇよ? それ」
「なに? そうか、言葉って難しいな……」
通常運転のエースにその場の全員が苦笑し、ジャックが喧嘩っ早いのは直せとツッコミ、いやお前が言うんだ、とエースがさらにツッコむ。そんな光景があまりにも穏やかで、ユウは、ただ寝ていただけで特に自ら苦難を乗り越えてきたわけでもないが、帰ってこられてよかったと切に感じ、ゆるりと微笑んだ。
「あのさぁ、カントクセー」
「ん、なぁに、エース」
「いやさ」
ユウの笑みを見て全員がやっと落ち着き、病室がわずかな静寂に包まれたところで、エースが、頬をぽりぽりと人差し指でかきながら、徐に口を開いた。
「魔法はダメでもさ、オレ、手品とかならいくらでも教えられるから」
だからやりたいことあるんなら、まず俺らに一番に教えてよ。
じっと、ユウを見つめてそう告げるエースの顔は、どことなく傷ついたように、寂しそうであった。エースの真剣さにつられたユウは息をのみ、他の4人もやはり、先ほどまでに比べて表情を硬くした。
分かっている。みんな怒っているのではなく、心配してくれているのだ。
「……ゴメン、みんなに言えなかったとかじゃないんだ。ただ、言っても困らせるだけだと思ったし」
「別に謝ってほしいわけじゃねぇよ。でもさ、困らせるとかそんな遠慮、今更じゃん」
「うん、アリガト……」
「おー……」
「ハハ……」
「……………………」
ユウの元居た世界でもそうそうなかった、友情の再確認のための儀式のようなやり取りに、部屋全体にぎこちない空気が流れる。エースもユウも、徐々に目を逸らしはじめ、この空気をどうしてくれようかと、全員が同じことを考えた。その時である。
「そ、だよね、監督生サン、エース君たちに迷惑かけられっぱなしなんだし、たくさん我儘言っちゃいなよ」
勇者エペルの登場だった。全員の目に生気が戻る。よも、このビッグウェーブを逃すまじ。
「な、なんだよそれ! エペルこのやろー、俺がいつ監督生に迷惑かけたって言うんだよ!」
「シャンデリアとか……イソギンチャクとかじゃねぇか?」
「ぐっ……! それ言うならデュースだってそうだろ!?」
「な、じゃ、じゃあグリムもだ!」
「ふなぁ!? オレ様は子分の面倒を見てやってるんだ! 勘違いするな、なんだゾ!」
「だからみんなうっさからである。
ああ、待っている人がいるって素晴らしいな。でもじゃあやっぱり、私の帰るところはまだ先なんだな。
ユウは、自分を置いてきぼりにして再びワイワイやり始めた四人と一匹を眺めながら、ぼんやりと思い出す。もはやすっかり懐かしくなってしまった、マンションの7階に位置する、父と母の待つ我が家を。
⑩
「アズール、監督生さんがあなたを探し回っているみたいですが、お会いしてさしあげないんですか?」
「あぁ、はい、新しい顔が手に入ったら考えます」
机の上に積みあがった手紙を、そのほとんどが悪意をわざわざご丁寧に成文化したものと知りながら、アズールは一通一通開いてゆく。この学園の生徒は飽きっぽい悪童ばかりであるからして、おそらくもう少しの辛抱といったところだろう。
人間のなり損ない、デブ、サイコ、異常者、犯罪者、人殺し、ペド、マザコン。もう何でもいいから書いてやれの精神なのだろう。特に厳選されてもいない言葉に、大した威力はない。とうの昔に履修済みの語彙ばかりだったからである。
といっても、デブの一言だけは、あまりに長い時間抱えて腐った傷が痛んで腹の虫が治まらないので、そう書いた手紙の主には、ママにおしめを変えられる夢を見る呪いを飛ばしてやった。今のアズールはむしろスリムなので、正当かつ相当な抗議である。
「おやおや。加害者でありながら、その気である被害者との話し合いから目を背けるなんて、さすが、マナーは完璧ですね。驚きました。やはり壺入りは違います」
「……あのお人よしは、どうせ賠償を請求しようとしやしませんよ」
「マア、そうでしょうね」
ジェイドがニコニコと、契約違反者を絞り上げるときのように、ゆったり迫ってくる。ユウのことなど、そんなに気にしてもいないのにだ。圧倒的に正しい方に立って、間違っている者を叩くポジションプレイが、対アズールに限っては気持ちいいったらないからだ。
「では一体僕に何ができると?」
「開き直りですか」
「…………わからないんですよ。償えもしない、許されるばかりの罪なんか背負ったことがない。それなら許されず、罪悪感に追い立てられていた方が、よほど罪人らしい。もういいだろ、放っておいてくれ」
結局、必要な手紙など一枚もなかった。アズールは、大量の、手紙だった屑ゴミに向かって発火魔法をかけ、それらが真っ黒な灰になったところを、浮遊魔法でゴミ箱へと飛ばした。
何もかもが面倒で、鈍い頭のまま、復学したらしいユウのことを思い浮かべる。
傷跡は残っていないと聞くが、本当なのだろうか。魔法がトラウマになって授業に差し支えてはいないか。自分を恨んでくれてはいないか。
いろいろなことが気になりはするけれど、やはり、許されてたまるかという感情が、全てを塗りつぶしていく。評価と実態が伴わないのは、何であろうとみっともない。
頼むから、誰かこのロクデナシを強く罰してくれ。そうしたら「自分は罰を受けたのだから、償ったのだから」と、堂々と生きてゆけるので。
アズールは今この瞬間、刑罰の必要性を誰よりも強く感じていた。悪いことをした者は、等しく鞭で打たれるべきだ。強い電気の流れる椅子に縛り付けられるでも、こん棒でつま先の骨をすっかり粉砕されるでもいい。とにかく、罪に相応しい罰で以て許されるべきなのだ。
罰は人を救う。罪の意識を希薄にするからだ。
「そう言われましても、あなたが罪悪感を独占して酔いしれている様を見て面白いのなんて、精々3日程度ですよ。もう食傷気味です。さっさと監督生さんと交流して、学校中から虐げられているカワイソウな僕たち兄弟を労わってください」
「ハァ? 虐げられるのは弱者の運命でしょう、僕の知ったことか」
「アズール」
断罪してやろうという、ハッキリとした声音だった。紛れもない強者であるジェイドが、今まで逃がしていた不快感を、そんなに罰が欲しいのならくれてやると、馬鹿でも分かるような怒りに変えたのである。アズールは、一瞬思わず目を逸らし、再度気持ちを作り直してから、冷たく吊った二つの目に向き直った。
「グズでノロマなタコがどれだけ惨めったらしい精神を抱えて、加害者特有の小狡い卑怯な自罰傾向に陥っていたって、僕は一向に構いません。ええ、構いません。何度だって言います、湿った場所でゴミを漁ることしかできないドブネズミのように生きたいのならご自由に。ですがそれに僕とフロイドを巻き込まないでいただけますか」
息をつく間も、つかせる間も入れず、ジェイドは流れるようにアズールを詰った。結局、慈悲の精神の寮に振り分けられてしまうくらい、甘い男なのである。
「歩み寄る努力を勝手な理屈で踏みつけにする。いつか見た小魚たちのようですね。見下げ果てた根性です。過去が泣きますね」
言い捨てるやいなや、ジェイドはアズールの首根っこをつかみ、廊下へと放り出した。通りがかりの寮生が、突如目の前に現れた尻もちをつく寮長の姿にキョトン、と呆けている。
「ここで打ち止めだというのならそれでいいです。もう二度と僕の視界に入らないでください。こちらも貴方のことなど、綺麗さっぱり忘れてしまうので。大丈夫ですよ、僕もフロイドもそういうのは得意なので」
「ジェ」
「それでは」
バタン。口で言ったみたいに、くっきりした音だった。
自分の部屋なのに、もう自分は入ることができないらしい。
いよいよ本当に学園内での所在を失ったアズールは、とりあえず痛む尻を持ち上げ、何やら警戒態勢であると噂のオンボロ寮の方へと向かうことにした。二本足とは、なんてったって道を歩くためにあるのだと、ようやく思い出したのである。
アズールが5000マドルを受け取ってから、2か月と24日目のことだった。
⑪
「何しに来たんすか、先輩」
「エースさん、あなたもいらしてたんですか。監督生さんはご在宅で?」
「よく平気でいられますね。俺ならムリだわ~~」
しばらく空き家となっていたオンボロ寮は、以前にも増して古ぼけたようだった。うっかり壊してしまわないよう、ひんやりとしたドアノッカーを四回鳴らすと、果たして出てきたのは監督生ではなかった。いたって予想通りの展開である。
今にも手が出そうな後輩を前に、アズールは、話を通しやすくなるからここらで一発殴られておくかなどと、やっと通常運転に戻りつつある頭で考える。
「エース」
「な、おい、出てきちゃダメだって! デュースと中居ろって言っただろ」
「こっちこそ言ったでしょ。先輩が会ってくれるなら、そのときは邪魔しないでって」
「いやお前」
「大丈夫。必要ならちゃんと頼れるから、私」
さあ右でも左でも鳩尾でもどんとこい、とアズールが全身の筋肉を緊張させた瞬間であった。薄く開けられた戸の向こうで、目当ての人物の声がした。挑発的だった後輩はあからさまに狼狽し、完全に意識を背後へと飛ばした。
つけ入る隙があるのなら逃がすな。多少の傷を負ったって、絡めとったらこちらの勝ち。
ずっとそうやって生きてきたアズールが、絶好のチャンスを逃すはずが、逃せるはずがなかった。
軽くなった戸を押し開き、グイと薄い身体を滑り込ませ、ずっと怖れていた無傷の異世界人だけを見つめる。
「監督生さん」
声は震えるはずもなかった。ここ最近うだうだグルグル考えていたことなど、もう忘れてしまった。自分がまだ取り返せる場所に、まっすぐ二本足で立っている実感が、全てを塗り替えていた。
「先輩! ね、エース」
「…………なんかあったら呼んで、絶対。隣の部屋いるから」
「ん、絶対」
ユウが頷くと、一度ギロリとアズールを睨めつけてから、エースは廊下の奥の部屋に入っていった。それから、ユウが「どうぞ」とその手前の部屋のドアを開けた。
「……監督生さん、今更ということは重々承知しています。貴方が復学されてから、逃げ回っていたことも否定しません。ですが」
「すみません、先に一つ」
「何でしょう」
「私も先輩に申し訳ないと思ってることと、あの日の空が綺麗で、私が幸せだったことは知っておいてください」
「は」
「先輩が今からしてくださるであろう謝罪は受け入れますよ。なんかちょっと違っちゃいますけど、避けられたことはそこそこムカつきましたし」
「ハァ」
「でもホント、やばかったらしい期間は、当たり前ですけどこれっぽっちも意識なかったから、私は全然辛くなかったし。念願の空を飛べて楽しかったし……これはまた別の話なんですけど、個人的なゴールも再確認したし」
「僕が言うことではないですが、貴方死にかけた自覚ありますか?」
「実を言うとあんまないですね。ほら、辛くなかったから」
「ああ、貴方本当に致命的な馬鹿なんですね、可哀想に……」
「待って。謝る気あります?」
「なんか失せました」
「はぁ!?」
こんなはずじゃなかった。本当に、こんなはずじゃなかった。何がと聞かれれば難しいが、とにかくもっと深刻な、何も間違えてはいけない時間を過ごしに来たのに、どうして。
アズールは軽口をたたきながら、とにかく困惑しきりであった。こんなことがあっていいのかと、叫んでしまいたかった。しかし一方で、そういえばこいつはこういうやつだった、と深く納得もする。
「声が大きいですよ」
「いや先輩がそうさせてるんですけど」
「分かりました分かりました、一回しか言わないので、その小さな脳によく刻んでください」
スゥ、と久々に意識して呼吸をする。肺呼吸にも随分慣れた。最初は気持ち悪かった空気の感覚が、今は何やら清々しくすらある。
「……この度は。本当に、申し訳ありませんでした。貴方のことを自分の知識だけで判断し、危険に曝しました。今日まで、この場を設けることを放棄したことも重ねてお詫びします」
一度頭を深く下げ、しばらくユウの靴を見つめ、再びゆっくりと起き上がる。予想通り、ユウは安堵した表情をしていた。
「……やっぱり、先輩はそうですよね」
「そう、とは」
「上を見てる人ってことです。必要のないこと、身を落とすことには自分を一片だってくれてやるものかって、そういう感じの。犯罪なんてもってのほかでしょう」
「……まあ、はい」
「先輩のお心がそんなに安くないことは結構知ってるつもりなので、今回のことで私が怒ったり悲しむことなんて何もありませんよ。私も先輩も、知りながらこれからも生きてく、それだけです」
言うと、ユウは、あの日5000マドルを渡した時のようにニカッと笑った。それでアズールは本当に「それだけ」に思えた。
そして実際、「それだけ」で良いらしかった。気づけば、エーデュースをはじめとする学園中の生徒が、ただアズールを困者扱いするだけの日々であった。
結局、空を飛ぼうがなんだろうが、「それだけ」なのである。
⑫
尞の消灯時間はとっくに過ぎ、町の人も寝静まった頃、遠くで宝石鳥が鳴いていた。金属をトンカチで叩くような音と、鉱夫の掛け声のような、陽気な調子の低音が山の方から微かに聞こえた。冬になるとやってくるこの鳥は、春になれば、まさに「宝の山」をもたらしてくれる。その姿自体は地味な灰色一色であるにもかかわらず、卵の殻は黄金でできているのである。
そんな静かすぎない宵闇の中、赤毛の青年二人が、真っ白な制服には不似合いなタバコの吸い殻を踏みつけ、スマホ片手を片手に噴水広場でだらだらと時間を持て余していた。昼間は子どもたちや商人の声で賑わう広場も、今だけは、誰のものでもない。安穏とした春の再来が約束されて嬉しそうな町の雰囲気とは反対に、胸にざわざわとした不快感を抱える、将来に希望が見出せないお年頃の青年たちが、ぼんやりとやさぐれるには格好の場所である。
「なんかさぁ、別に愛校心があるとかってわけじゃないんだけど、向こうの奴らが悪ぶってえらく調子づいちゃってんの普通に意味分からんくない? ださいし弱い、魔法もこっちより低レベルのくせして、勝手にこっちをライバル視してんじゃん。悪いけど、フリでも社会に適合できない奴らとかこっちは眼中にもないから、って感じだけど」
「反抗期を真剣にやっちゃってる感じ、見てらんないよナ~~。肩ぶつかったら乱闘とか、いつの時代よ」
「治安世紀末すぎ、賢者の島に住んでていい人材ではない。あ~あ、あいつらがあんなに楽しそうに生きてけるんなら、本心じゃなくたって、結構頑張ってる俺らがもうちょっと幸せでもいいもんじゃない? 運命のかわいこちゃんに出会ったりさぁ」
「分かるわ。まともに生きてる人間が、バカやってる人間よりつまんないのはマジでど~して?」
「んな。そんでさ、向こうに信じらんないくらいのお人よしがいんだけど」
「あぁ、アルアジームの坊ちゃん? 有名よな。でもアレはアレで、人の話全然聞かないしNRCって感じはするけどな」
「ヤ、そいつもだけど、別の奴」
「他にもいんのかよ、闇の鏡ぶっこわれてんじゃないの?」
「いやそれが割とガチかもって話なんだけど……ちょっと”おかしな”話してもいい?」
「そうゆ~の大好きなんだけど」
誰といても癒せない孤独と不満を抱えた夜には、悪戯な妖精がやってきて、人間を惑わせる。古くから変わらない、ワンダーランドの歪みの一つである。
⑬
「そういえば、死にかけたおかげで学園長が結構改心してくれて」
放課後の図書館、テストが近いわけでもない今、本に囲まれて勉強に勤しむ物好きなど限られている。閑散とした図書館の空気が案外和やかに緩んでいることを、NRC生の大半は知らないだろう。
ユウは、アズールの向かいに座って課題に取り組んだまま、普段よりわずかに抑えられた程度の声で世間話を切り出した。
「おやまぁ、ユウさん、話す相手を間違えてはいませんか? よく確認することをお勧めしますよ。相手に無駄な心労をかけたくないのなら」
「大きくとらえれば先輩のおかげなんでお礼言っときますね」
「あぁ、会話に相手はいらないタイプですか? 今後の参考にさせていただきますね」
「冗談ですよ」
「冗談にならないんですよ」
せっかく周りが忘れてくれたのに記憶を掘り返されてはかなわない、とアズールはユウを一睨みして言った。
「それで? 改心というのはどういうことです。あの人が能動的に何かに取り組もうというのは、あまり想像できませんが」
「や~~、私もそんな風に思ってたんですけど、なんか急に「帰る方法、ちゃんと探してますからね! 豪華客船に乗ったつもりで安心していてくださいヨ!」とか言われて」
「自分の下で死なれてからあなたの関係者に責められる可能性に、やっと思い至ったんじゃないんですか?」
「あ、そういう……」
「想像ですが」
「いや、一番ありそうです。あのカラスの頭に保身以外の文字があるとは思えませんよ」
「それに関しては同感ですね」
じっとりと、それぞれが「私、優しいので!」と言いながら厄介事ばかり運んでくるクロウリーの笑顔を思い浮かべ、それからちょっぴりの沈黙を迎えて、目前の課題文を無意味に何度も目で追ってみる。ユウもアズールも、集中力の切れ目に到達したのである。
帰るのか。
生き物は、小さな意味でも大きな意味でも、いつか帰る生き物である。だから不思議なことは何もないのに、妙な驚きが全身に広がった。
そしてユウは、今まで感じなかった類の名残惜しさに、そういうことね、と納得をした。頼ったのも、庇わなくていいことで許したのも、普通なら逃げだすような重いシチュを経ても同じ時間を共有しているってのはまぁ、うん。
気がつけば、ただただ恥ずかしかった。ここまで自分に鈍感だったのかと、脇に変な汗がにじみ出てくるようだった。
一方のアズールは、結果は間違いなく愛だが、原因物質も生成方法もまるで謎という、もうとにかく不可解な現象に発狂しそうであった。
感覚だけを受け止め、信用するほどの強さは、アズールにはないからだ。気まぐれという一種の「感覚」で心に傷を負ったことのある生き物は、自分にそれを指針とする生き方を許さないものである。つまり、理屈は人間(あるいは人魚や妖精)が生み出した不完全なもので、それを補うものが「感覚」だと気がつかない限り、アズールは永遠にはふれられない。
閑話休題。とにかく、図書館の孤独な二人は猛烈に寂しくなって、同じくらい恥ずかしくなった。
「……なんか、眠くなってきちゃったんで尞に帰、りますね? 多分私これ以上いてもやらない、かな~~」
「そ、そうですか。僕もそろそろラウンジに顔を出そうと思っていましたし、はい、ちょうどよかったですね」
「そうですよね、お忙しい所本当、いつもありがとうございます」
「別に構いませんが、えぇ、マ、はい」
「それじゃ……」
「ええ、また……」
また、なのか。
誰も、図書館の空気を知らない。大好物である、若者の幸福の気配に集まったゴーストたちのほかには誰も、である。
⑭
「あなたのことは憎い。でもそれと同じくらい、あなたを愛しく思うんです。僕を選んではくれませんか」
学園全体がよく見渡せる、本校舎の屋根の上。落下防止のフェンスもついていない、誰の邪魔も入らない場所に、幼児の落書きのようなアズールの心は落とされた。
好きだという言葉は使えなかった。好きではないからだ。顔を見て、その口から紡がれる言葉を聞けば、人生観やものの捉え方の違いに、体が痒くなるような苛立ちが生まれる。にもかかわらず、軽口をたたきあっていたいし、見つめていてほしいし、他のすべてから奪って奪われたいとも思う。ひどい矛盾を孕んだ心だった。
「……ぅうん、えっと、ありがとうございます? でも場所のチョイスここであってますか? 正直間違っててほしいんですけど」
サバナクローの面々までも巻き込んだ全面戦争の果て、アズールはユウを嫌悪した。学園内で見かけることがあれば眉を顰めて舌打ちさえしたほどだ。時間が経過するごとに多少緩和され、例の事件以降はそれなりに親しくやれるようになったとはいえ、根本の苦手意識というものはそう変わらなかった。だから、こんな告白は双方にとって全くの想定外だと言える。
それよりも、ロケーションに悪意を感じるのだけど如何。ひとつ間違えたら次の朝日は拝めなそうだなあ、などとユウは呑気に怯えた。
「茶化さないでください」
「茶化してるんじゃなくて純粋な感想なんですが……」
ユウは苦く笑い、あからさまに困ってみせた。そもそも、告白をされるなんてことが初体験なのだ。生まれてはじめて。どうにかなりそう。
しかも相手はまさかの、いつも敵みたいな顔をしたアズールで、両想いという奇跡ときた。これだけで十分脳内はてんやわんやなのに、どうも告白にトゲがあるのだから、そりゃあキャパオーバーにだってなってしまう。
「でも私もアズール先輩のこと好きですよ。……いや待ってください、選ぶってそういうことでいいんですよね?」
しかし、とりあえず返事をしないことには始まらないので、ユウも想いを伝えてみた。伝えてはみたが、やはりチクチクした告白が自分の解釈とは違う意味を孕んでいるのではないかと不安になって、そもそもの所に立ち返る質問もした。
「抽象的な話は好きではありません、質問や意見があるなら明確、かつ簡潔に」
いやどっちだ。
アズールの顔が不快そうに顰められたのをみて、ユウはますます不安になった。理路整然としたものを好むのは知っているが、恋愛なんていう本能100%みたいな領域にもそれを適用するのはそっちがマナー違反では?
ユウはわずかにイラッとして、思い切って再度口を開いた。
「さっきからメチャクチャ厳しいですけど、私一応告白されてるんですよね? 違いました?」
「違いませんが」
「あっよかった、独り相撲してんのかと」
一言で片付けられてしまった。
あまりにあっけなく疑心暗鬼が解消され、次に何を言うべきか分からなくなったユウは、今度は急にアズールの端正な眼差しに気恥ずかしさがこみ上げてくるのを感じた。
なんてったって、好きな人なのだ。恋人になれそうなこの状況で舞い上がらないはずがないし、アズールはただでさえ美しい人(正確に言えば人魚)であって、端的に言えば激ヤバのヤバ、ヤバ谷園の無理茶漬け。顔は赤くなったりしてなかろうか。どうにかバレないうちにこの緊張状態を解かなければ。ユウは、風に冷えた手のひらをそっと頬に当てた。
「えっとなんだっけ……あっそう、選ぶって信用することだと思ってるんですよ、私、ウン。だから、そういうお付き合いをするんなら、一つ約束をしてほしくって」
「約束?」
「はい。私は先輩が好きだから心を尽くしたいし、実際そうするつもりです」
好き。再度口に出してさらに実感する。ユウは、すっかりめっきりアズールにときめいてしまっている。
膝を包むふわふわとした感触に、まともに立てているかどうか不安になる。せめて声は震えないようにと、お腹に力を込めた。
「それを信用しろと?」
「いえ、さっきの告白を聞くに、先輩は多分私を許してはいないし、疑わずにはいられないと思うんです。責めるつもりはないですよ、関係って積み重ねだし。でも、私も乙女の端くれとして、最低限の絶対的信用が欲しい」
「つまり何です」
「えと、なんて言ったらいいです? う~~ん……隠さないでください?」
「対象を明確に」
「事実と心?」
「さっきから何故疑問系なんです」
一方、こんな場面にあっても契約という言葉を使わないユウを、アズールはやはり苦々しく思っていた。
約束に何の意味があると言うのか。たとえ法を犯しても、誰も知り得ないのなら罪は成り立たない。隠し事をするために嘘をついても、貫き通せばいいのだ。以前のユウだって、そんなことを言っていた。
「……いいでしょう、約束です」
アズールは、約束の内容も意義もよく分からないままに承諾をした。とにかく、胸の内の愛を適切に処理してしまえれば何だって良かったのだ。
「ありがとうございます! 末永くよろしくお願いしますね、先輩!」
「突然プロポーズですか? 陸の女性は随分とはしたない」
「だから扱い!」
アズールは、ユウを愛していても、決して好いてはいない。許せもしない人間のことを、好きになれるはずなんてないのだ。ここまでも、今後もずっと、恋のように甘やかなことはない。ただただ手中におさめておきたい。欲とほぼ同値の、もっと大きな感情だ。
だから、騒がしさを纏ってかがやく笑顔にどこか浮ついてしまうのは、不快感のせいに違いないのである。
⑮
「そういえば学園長」
寮長会議の終わった鏡の間で、他の寮長が去るまで珍しく油を売っていたアズールは、今思い出しました!という顔で学園長に向き直った。一方、アズールを「時は金なり」が強迫観念として染みついてる子、として認識しているクロウリーは、ひょっとして進路相談とかされてしまうのかしら、なんて教師としての自分の信用性を過大評価する。
「ハイ?」
「私、晴れてユウさんとお付き合いすることになったんですが」
時が止まる。クロウリーが仮面の下で二回ほどゆっくり瞬きをして、喉の奥の方から「ァ、カぁ」などとカラスの出来損ないの如き声を絞り出す、たっぷり5秒間、アズールはこみあげてくる笑いを殺すのに精いっぱいであった。
「……アーー、3年生のユウくんですか? いいですよね、彼、ゴリゴリの武闘派って感じがします。噂によると、極東の伝統武術の有段者らしいですよ。何かと恨みを買っている君にはうってつけのボディーガードかと」
「ユウ先輩とではなく、オンボロ寮の監督生さんですが……学園長が先輩に惹かれているようだということは、もうはい、しっかりと伝えさせていただこうと思いますよ。お任せください、僕の手にかかれば明日にでもその想い、叶えてさしあげましょう」
ようやく動き出した空気も、その中に舞う埃が一番動的に思えるほど、のろのろとしていた。速度に反比例するように、アズールの心は潤っていく。鳥は焼かなくても美味しいのである。
「ハァ? どうしてですか、エ? どうしてなんです」
「いえ、どうしてと言われましても……」
「だってだって君たちは、いくら仲良くなってみたってそういうことにはならないはずでは?」
「つきましては、学園長が懸命に探してくださっているという、ユウさんの帰る方法とやら、見つかったら僕にも真っ先に教えていただいても?」
ピタリ、とそれまで頭を抱えたり、長い手足をバタつかせて発狂していたクロウリーは動作を捨てた。真剣な、いつかの学園長室での低音が、空気を震わせる。
「……それは、どういう意図でのお願いなんです? アーシェングロットくん」
「どういうって……当然、愛する人との別れには覚悟を持って挑みたいですから、万が一にもその日に知るなんてことを避けるためですよ」
しかし、アズールという男はこと計算においては群を抜いていて、完璧なシナリオを演じる天才であるところ、しっぽを巻いて自身の役を脱ぎ捨てるような真似はしな