1【アン】
『隣国との関係悪化。戦争は不回避か』
アンはそんな陰鬱なニュースで目を覚ました。
部屋には昨夜、父親が転がした酒瓶で荒れ放題。片づけなければならない、そう思いながら部屋の中を見渡してもその本人は見当たらず、もうすでに出かけた後のようだ。
街の外ではパレードが開かれており、道沿いのこの家にその華やかな音だけが聞こえている。
服を着替えて部屋を出る。仕事に、――行かなければ。
街を歩いていると色んな人を見かける。陰鬱なニュースが出回っている割にはだれもその話題を口に出すことはない。人々は相手にすらしてなくて。あの隣国のことだ。また、同じことを繰り返して自滅するのだろう。なんども同じことを繰り返す隣国にみな呆れ疲れている。
「ありがとうねぇ。困っていたの」
「いいえ、私こそ。お役に立ててよかったわぁ」
街の向こう。――新しい店だろうか。見知らぬ建物からおばあさんが出てきた。確か商店街のパン屋のおばあさんだ。
その相手をしているのは見知らぬ女の人。その女性はガーネットの魔女帽子とマント。ペリドットのスカートの若い人で。
思わず目で追ってしまうほどの、美しい女性だった。
「……綺麗な店」
それから、何度か足を運んだ。
隣国では魔女という人種がいて、人々に幸せをもたらすのだと。富と栄誉と幸福を授ける魔術を扱う、――それが魔女。店員の女性が被っている帽子は、まさに絵本の中で見た魔女そのものだった。
「なんのお店なんだろう」
仕事に行く前と帰る時の二回。ショーウインドウから店内を眺めるだけではあったのだけれど――。店内に入ることは出来なかった。
なぜかって?
一部が黄色く変色した麻布のシャツ。大きくぶかぶかなシアンのジャケット。少しくらいはおしゃれをしたかったが故のバーミリオンのスカーフ。
みすぼらしいこの服では、この煌びやかな店に入る勇気なんてなくて。
「あら。私になにかよう?」
そういった心理を読んだのかはさておいて。
「……わ、わわっ」
目の前にいたのはショーウインドウから覗いでいるだけだったあの女性だ。遠くで眺めているだけだったが、こうして近くで見ると。ほんのりと肌から香るおしろいのにおいが鼻をかすめる。
「どうしたの? ボク」
「……!」
「少しくらい、お茶していかない?」
その声が気遣う声だということを分かっている。けれど、自分の中に在るコンプレックスと対抗心ゆえに、その優しい気遣いに反発してしまったのだ。子どもだからと言い訳をして。
去っていく自分を眺める彼女の表情を蔑ろにして。
「ボクじゃない! 子どもでもなーい!」
走りだすと止まらなかった。そのまま走り去って……。
今日も、この店に入ることができなかったのだ。
2【ルナ】
ルナは店の鍵を閉め、店のドアのウェルカムボードを確認する。昨日の夜から『CLOSED』になっているそれを今日ひっくり返すことはない。
「あれ、ルナさん。今日はお休み?」
「いえちょっと、買い出しに行かなくちゃいけなくて」
「そうなんだ。また、店に行くよ! ばあちゃんの薬をもらいに行くからね」
ここに店を構え始めて数週間。段々とお客が増え、段々と店として繁盛してきた。ここならば落ち着いて商売ができるだろう……。少なくとも追われることはなく安全に。
「コルト、私。貴方の分まで……」
商店街につくとなんだか通りの向こうが騒がしい。なにかもめ事をしているようでその怒鳴り声は段々と大きくなっていく。
「なにかしら」
その声が、男性と若い女性であることまで分かってきた。若い女性。いいや、まだ幼さを残す女の子の声だ。怒鳴り声に発展した時、その声の正体を知った。
「取り消しなさい! ……私のお父さんはそんな人じゃない!」
「取り消せだぁ? やだね。何度でも言ってやらぁ。お前の親父はろくでなしだ! 朝から晩まで酒酒酒。お前だって飽き飽きしてるんだろ?」
「……、お父さんは。あんな人じゃなかったって!」
「でも今はろくでなしだろ?」
目を潤まし抵抗する幼い少女。
『ボクじゃない! 子どもでもなーい!』
それは、昨日ショーウインドウから覗いていた彼女だった。
人だかりの人々は、彼女のためになにをするでもなくただ眺めている。気づけばとっさに動いていた。ぎりぎりと悔しさをこらえる事しか出来ない彼女が不憫だったのもあるだろうけれど。なぜか他人事のように思えなかったのだ。
「その子を離しなさい!」
「なんだぁ、てめぇ」
「……その子がなにをしたというんです? 私には貴方たちがよってたかって、彼女をいじめているようにしか見えませんでしたが」
どうして周りはなにも言わないのか。どうして助けようとしないのか。疑問には思ったものの、まずはこの少女を助けなければ。
「あぁん? ねぇちゃん。俺らが誰か知らない? おーおー、こりゃとんだ世間知らずのお嬢さんときたもんだ。俺らは金貸しや。こいつのおとーちゃんが俺らから借りたお金を返さねぇから返してもらおうとしてんの」
金貸しや。聞いたことはある。貧富の差が激しいこの国で合法とされているとかなんとか。
「どこもかしこも。……所詮、変わらないのですね」
ルナは、ポケットの中に忍ばせておいた鉱石を手のひらに置く。こちらに向かってくる男たちがにやにやと厭らしい笑みを浮かべている。虐げられる彼女はキッと目を吊り上げながらも、足元はぶるぶると生まれたばかりの小鹿のように震えている。
彼女を守らなければ。
「我に答えよ、我に力を。この時を永遠に繋ぎ止めよ」
その瞬間、閃光は人々の忘却を促した。
3【ルナ】
「大丈夫?」
「いいえ、平気ですこんなの……いたっ」
ルナは少女を連れかえって店の中で介抱していた。先程は良く見えなかったが彼女の身体には細かな傷が何個も出来ていた。一つ一つが痛々しい。ひっかき傷、擦り傷、鬱血痕。
「ひどい傷……」
「あ、いいえ。それはお父さんの」
しばらく固まっていたのだろう。ガーゼを貼る手が止まっていた。
「私の名前は私はルナ。貴方は?」
「アンといいます。すみません、助けてもらっちゃって」
「いいえ。いいのよ。……ごめんなさいね。私この国に来たばかりで、余計なことをしちゃったかしら」
「いいんです! いつもは我慢しているけど。でも、今日のあいつらの言い方は我慢ならなくって。それに」
ルナは、アンの顔を見つめる。その瞳はまじりっけのない真っすぐな瞳。
「おねぇさん、かっこよかったので!」
「……――そんなことないわ。私は我慢ならなかっただけ。誰だって、誰かが殴られているのを見たい人はいないじゃない?」
「確かにそうですね。この町の人は助けてくれないから」
「そういうもの、なの?」
「そうですね。なんだろう。深入りしないというか」
「そう」
「あ、でも! 悪いだけじゃないですよ! 惨めにならないというか。いい意味でも悪い意味でも他人事なので」
ルナはアンの傷を見る。その怪我は今日だけのものではない。きっと今までも父親から暴行を加えられていたのだろう。けれど、誰も助けてくれなかった。先ほどの彼らみたいに。
「私ね。魔術師なの。これは鉱石魔術と言って……。私のおばあさんのおばあさんから続く、大切な私だけの魔術」
ルナは机の下に隠していた煌びやかな鉱石たちをアンに見せる。アンの瞳の中は宝石のように輝いていた。ルナはその中からひとつを机の上に置き、呪文を唱える。
祈るように。神にこの声が届くように。
「我に答えよ、我に力を。迷える子羊を癒したもう」
アンの腕に残っていた傷が光の粒となって。高く、高く、高く。
「昔、よくお母さんが私に施してくれたの。これできっと」
「すごいすごいすごい! おねぇさんすごいですよ! こんなの見たことがない!」
「よかった。傷が残っちゃうと……」
「ありがとうございます!」
アンはしばらく傷が消えた腕を眺めていた。ルナは神妙そうなその表情が気になって、思わず声をかけてしまう。紅茶に溶けゆく蜂蜜のようなアンの髪が風に揺らめいて輝く。
「どうしたの?」
「……おねぇさん。この傷はお父さんが……暴れて。ううん。お父さん昔はそんな人じゃなかったんです。お母さんが死んじゃって。必死で働いてたのは知ってる。でも病気になっちゃって。お医者さんは治せないって。そしたら、どうでもよくなっちゃったみたいで」
ふつふつと考えた言葉を一つ一つ零していくかのような台詞だった。アンは、しばらくうつむいていて、なにを考えていたのかルナには分からなかった。
「おねぇさん。その魔術、教えてくれませんか? 私、お父さんの病気を治して。そうしたら、お父さんが元に戻ってれるかも……」
「それは」
「難しいのは分かっています! でも、でも! ……でも」
握りしめたこぶしが震えているのをルナは見る。力なく振り下ろされたこぶしが心の内に在る自信のなさを表していくかのようだった。いつもならば諭して断ることをしたのだろう。彼女とはここで知り合ったばかりの他人だ。店の軒先で出会っただけ。街中で手を差し伸べただけ。お客さんでもない。ましてや友人でもない。そんな相手の事情をすべて解決できるほど、魔術は万能ではない。
そんなことはよく分かっている。
『ルナ。君は生きて。生きて欲しいから。だから』
――あの時、自分にもっと力があったのなら――。彼は死なずにすんだのだろうか。
「分かった。簡単なのから教える……。それでもいい?」
「本当に! やった。ありがとうございます!」
あの時の後悔を、忘れることは出来ない。
「……私、まだ」
この少女に重ねているのだろうか。ならば今度は絶対に失敗しない。ルナは、かつて未熟だった幼い自分のことを思いながら無邪気な少女の横顔を見つめていた。
3【アン】
ルナに鉱石魔術を教わるようになってからひと月が経っていた。
「アン、じゃあここは自分だけでやってみて。アンならできるはずよ」
ルナは、不器用でなかなか覚えられない私に根気よく付き合ってくれた。何度も何度も、丁寧に分かりやすく。そのお陰もあってか段々と少しずつ覚えることができた。初歩に関してはこうしてひとりに任せてもらうことも多くなり自分でも確実に身について来たと思う。
「……頑張るね!」
次回はもう少し難しいものを教えてもらえるかもしれない。
「アン、とても呑み込みが早いから、私も教えるのが楽しい」
「ほんと!? 良かったぁ。嬉しい……」
ルナのアトリエの中はとても綺麗で神秘的だ。ルナが言うに、魔術師には使い魔と言うのがいて、それは魔術師ごとに異なるのだという。ルナの使い魔はこのアトリエ中に漂って泳ぐ深海魚たちだった。初めは慣れなかったものの……。だって、身体が透き通っているリュウグウノツカイが足の間をすり抜けて泳いで行ったり、地面に這うカンテンナマコを踏みそうになったり……。とにかく、縦横無尽に泳ぎ回る彼らに悪戯をされそうになったこともままあるのだ。
けれど、透き通ってほんのりと光る深海魚の彼らたちを眺めるのは楽しい。
メンダコが柔らかい身体をもちもちと漂わせていて、その様子がたまらなく愛おしい。
――ここはまるで、深海魚の庭のようだ。
「ルナ、段々使い魔たちとも仲良くなってきたと思わない?」
「そうねぇ。でも、初めのころにみんなが悪戯をしてきたのは、嫌がらせではなくて構って欲しかったみたいだから……。あんまりこの子らも慣れてなかったのかもしれないわ」
「え! そうなの!」
ルナの使い魔たちは深海魚ということもあって表情が読みずらい。ルナは上手くコミュニケーションを取っている様なんだけれど。そこまでに至るにはまだまだほど遠い。
「ぐぬぬ……、私には分からないや」
「えっへん! だって、子どもの時からずっと一緒にいたんだもの。この子らのことが分かってなきゃ、魔術なんて使えないもの!」
早くルナに追いつきたい。その思いが修行というルナとの二人きりの時間に駆り立てる。
「ルナの魔術、いずれ私も全部習得して――」
「あ、ごめんなさい。全部は無理だわ。この鉱石魔術は術者が体内に持つ魔力と反応して、呪文を唱えることによって発動する……。だからつまり、相性があって私が使える魔術がすべてアンが使えるかというとそうではないの、よ……」
ルナは、説明をしながら手を止める。手を止めた理由は、この説明に対して顎が外れるほど愕然としたアンのうなだれた顔を見たからだろう。
「ルナ、早く言ってよぉ」
「ご、ごめんなさい。そうね、魔術師が希少なこの国では、常識ではなかったわね。ごめんなさい」
ルナはこほんと咳ばらいをして解説を続けた。鉱石魔術というものは、鉱石という魔力源を用いて行う魔術である。さきほどのルナの説明にあったように、鉱石は魔力の塊であり、魔力を持つ術者の体内にある魔力と反応し、呪文を唱えることによって発動する。そのため、術師との相性の合う合わないで使える魔術が異なっていく。また、体内の魔力と反応した鉱石を、呪文でコントロールするように魔術を発動させることが重要なのだという。鉱石を砕いた量で発動できる魔術が変動するため、ルナは常にあらかじめ砕いた鉱石を瓶に詰めて持ち歩いているのだけれど――。
「うっへぇ。覚えることがたくさん……」
「疲れたかもね。休憩にしましょ!」
ルナは、お茶の準備をして休憩をしようと促す。持ち込まれたティーカップから漂う香りは、この前一緒に街に出た時に買った茶葉だった。そこから続くのは他愛もないいつもの会話。この前開いた新しい喫茶店のことだったり、美味しかったケーキの話。そして、隣国との戦争の話。
「町の人、みんな噂しているものね。どうなるんだろうって」
ルナはいつも隣国の話をする時、深海の底のような暗い瞳をしている。使い魔たちもなにかを感じ取ってかみんな巣の中に隠れてしまう。なにかあるのだろう。けれど、詮索してこの関係性を崩すことになんとなく抵抗感を感じていた。聞くのが怖い。いつか話してくれる。
それまで、待とう。
「ルナも、子どもの時にこうして修業をしたの?」
ルナにこう聞くと、ルナは懐かしいような遠い目をした。
「うん。私は母にこの魔術を教えてもらったの。母は、おそらくこの魔術を私に……教えたくなかったのかもしれないけれど、幼い私はそんな母の心の内を知らなかった。母に何度もせがんで。初めは簡単なものを。母は少しずつ教えてくれて。でもある日、母はこれ以上は教えられないと言って、やめてしまったの。だから私は母の書庫から本をこっそりと抜いて……」
「どうしたの?」
ルナはしばらく黙っていた。なにかを考えているようでその瞳にはなにも映っていない。
「――……結婚して幸せになることだけが、幸せではないのよ。母はそう言いたかったんだわ。でも、結婚して私を産んで、育てて。子どもにこの魔術を教えることが幸せだと、母も幼い時から周りに言い続けられて。それが幸せなのだと信じ込まされていたのだと思う、けれど。母が私にこれを教えたくなかったのは、私が――」
思いつめたような誰に言い聞かせるわけでもない独り言。なにを思いだしたのか。そんなことは分からない。嫌な出来事を拭い去るようにルナは静かにこう続けた。
「私、隣国から逃げてきたの」
「隣国って……、戦争をするかもしれない国の?」
ルナはこくりと頷く。それからルナは何も言わず、沈黙だけが続く。どうしようもなく際限なく続いてしまった沈黙の最中。あ、と次に口を開いた時、ルナの声が重なった。
「アン、占ってあげる。――そういう気分なの。お願い」
なにかを考えているルナが気になった。けれど、おそらく話してはくれない。
「うん。いいよ」
「……ありがとう」
なにを考えていたんだろう。なにをそんなに思いつめているのだろう。ルナはたまにこうして遠い目をしている。さきほどの子どもの時の話もそう、自分の生い立ちについてなにか隠していることがあるかのような。けれど、質問しようとするとなぜかためらいがあった。そう踏み込めるほどまだ仲良くなっていないのかもしれない。はぐらかされて教えてくれないかもしれない、聞いてしまえば嫌われるかもしれないという恐れ。
けれど、いずれ知ってみたい。ルナという美しい女性のことをすべて。
それは好奇心? いいや違う。おそらく違う。
この思いは、まだ分からない。いったいなんなのだろうか。
4【アン】
数日後、ルナと待ち合わせをして街へ出た。ルナは新しい鉱石が欲しいのだと言い、知り合いのお店を何個か渡り歩いていた。この街にも魔術師が何人かいるようで、ルナは店主から話を聞く度に詳しい情報がないかせがんでいた。
「だれか、知り合いを探しているの?」
「え!? なんで?」
「え。だって、」
店主が隣町に魔術師がいるという度に、ルナは『どんな人だったか』、『どこにいるのか』を詳しく聞こうとする。その様子は必死と言っても過言ではないくらいで――。
「ルナの、大切な人?」
「ごめんなさい。つい……。でも、貴方の時間を奪ってしまおうだなんて、そんなことは思っていなくて。 ……いいえ。言い訳だったわ」
ルナは少し顔を曇らせ、また黙り込む。
「別にいいよ?」
「ありがとう、アン。そうね、私には探している人がいるの。この国に逃げ込んできた時に、バラバラになってしまったけれど、でも、いつか。会えるんじゃないかと」
ぎゅっと、首にかけたペンダントを掴んで握りしめるルナに、私はなんと声を掛けたらいいのか分からなかった。ルナの生い立ちも、素性もまだ知らない。知りたいと思ってもまだ勇気が足りない。
「ルナ、わたし、ね」
この気持ちは、なんであるのかまだ分からない。友情、なのだと初めは思っていた。年齢が近い友達に向けるような親愛。けれど、これはそれよりもさらに深い。
ルナの、悲しい瞳の理由が知りたい。
ルナのことを、知り合いの魔術の先生としてではなく、もっとさらに深く深く。
私は、ルナのことを――。
「ば、……る、と?」
突然の、ルナの驚いた声で顔を上げる。ルナの目線の先にいたのは、ひとりの男の人だった。ルナと同じ年くらいの立派な軍服に身を包んだ青年だ。ほこりひとつないその服は、まっさらで凛々しい。けれど、その青年の顔には影がかかり、その表情を見ることは出来ない。
「バルトッ!」
ルナは持っていたバケットを地面に落とし彼に駆け寄っていく。
「良かったぁ、私、貴方は死んだのだと……。でも、諦めきれなくて……」
ルナは彼の顔をしばらく眺めて硬直する。スッと離れて後ずさる。
「ルナ、えっと、この人は……?」
「アン! 下がって! この人は、こいつは、もうバルトじゃない!」
え? と、声を発するよりも早く。
男の人は空中に向かってなにかをばら撒いた。それがルナとの修行の中で何度も目にした鉱石の結晶であることにアンは遅れて気づく。ルナがポケットに忍ばせたそれを発動させなければ、アンは怪我を負っていただろう。それほど、向こうの方がひとまわりもふたまわりも格上だった。
「なんでっ、鉱石魔術をっ」
「それは、私が彼に教えたから。私の、一番弟子は、彼。だったから」
アンの前に立ちふさがるようにルナが立っていた。
「え?」
「ごめんなさい。バルトはもう死んだの。死んだはずなのよ。だから、あれはバルトじゃない」
「それってどういう」
「詳しい説明はあとで。今は彼を、……倒さないと」
男はなにも言わずゆらゆらとこちらを伺っている。
「彼が死んだの。私が一番よく知っているはずなのに、諦めきれなくてごめんなさい。一瞬でも嬉しいと生きていて良かったと思ってしまってごめんなさい。……殺すから。今度はちゃんと殺してあげるから、痛くないようにしてあげるから。だから、」
それは神に懺悔するかのように。
「辛い思いをさせてしまってごめんなさい」
けれど、ルナのその思いは果たされることはなかった。ルナが次に魔術を使う前に、青年はルナのみぞおちに鉱石で出来たタガーナイフを突き刺していたのだ。ゴフッとルナが血を吐いたのを聞く。
私は動くことができなかった。
目の前でルナが攻撃され続けるのをただ眺める事しか――。
「アン、……っにげ……て」
街の人の悲鳴を聞いて、ようやくこれが現実に起こっていることなのだと認識する。
動かなくては。動かなくては。でも、私に何ができるのか。
「……そこの、お前」
地面に倒れかかったルナを抱きかかえた血だらけの青年は、すべての処理をし終えた後ようやくアンの存在に気付いたようだった。冷たく凍るような瞳がアンに向けられる。
「ルナ・カルブンクルス=ガラマンティクス。彼女はこちらで預からせてもらう。私の目的は、彼女を回収することであり、君の殺害ではない。ここから早く立ち去るべきだ。同様、私はこの街にいるものの殺害も命じられていない。安心してくれたまえ」
彼が身につけている軍服について、前に見たことがあることに気づく。
その白く輝くような軍服は、隣国のもの。近年、勢力を上げ続ける帝国のもの。
「もっとも、君はもうすでに動けやしないさ」
青年は地面に座り込むアンの前にしゃがみ込む。
「ここでなにもせずに、その無力さを別に噛みしめなくてもいい。魔術を使えない君らをどうこうしたいわけではない。ただ私は仕事をしただけなのだから」
目の前にいると、濃厚な血の匂いが鼻をくすぐる。その血がすべてルナの返り血であることを恐ろしく思う。近くで見ると彼の顔がよく見える。青年の顔は端正で、肌の色は陶器のように真っ白だった。ルナの『バルトはもう死んだ』という言葉を思い返す。目の前にいる青年には生気がなかった。
こんなに間近にいるのに呼吸音がしない。肌のぬくもりを感じない。
「今日の日のことなど忘れ、ただ平穏に――過ごせばいい」
「あ、貴方は、なにものなの」
「それを知る必要はないよ、お嬢さん」
最後の鉱石魔術を彼がどう発動したのか分からなかった。
パチンと、軽い音がして、目の前から青年とルナの姿が消えていた。
5【アン】
ルナがあの青年と共に消えてから数日が経っていた。
「……そういえば隣国のこと、全然、知らないや」
ルナのお店を掃除している時、ふと考えた。そういえば、ルナのことを私はまだよく知らない。ふんわりとした優しくときおり寂しそうな印象なのに、どこか強く勇ましくてぶれない芯があるところ。そんなしなやかな強さを持つようになった理由を――私は知らないのだ。
知らなければいけない。
『今日の日のことなど忘れ、ただ平穏に――過ごせばいい』
あの時、あの青年に言われた言葉が頭の中で反芻する。知らなければいけない。けれどそれは、知らなくても良かったこと。踏み込んで知ってしまえば後にはもう戻れない。
「ううん。知るんだ。――私はルナを、助けなきゃ」
今日、ルナのお店に来た理由。かばんに缶詰めと水筒と、ありったけの鉱石を詰めて。
――隣国、グウェリオン。
そんな異国の地に足を向かわせたのは、宵闇が辺りを包み込むようになってからだった。
6【アン】
隣国への道はそう厳しいものでもない。関所を通ってしまえばその場に広がっているのは視界すべてを覆いつくすかのような草原。城壁も堤防もないまっさらな地平線の果て。ゆえに、隣国まで続く古い街道を進んでいけば辿り着くだろう。隣国が戦争を仕掛けるかもしれないのにこんなに自国の防壁手段がなくていいのだろうか、子どもの時にそう思って父に問い詰めたが、大人はみんな口をそろえて『あの国がそんなことが出来るはずがない』と、相も変わらず城壁を造ることはしなかった。
「……けれど、グウェリオンは隠れて力を――」
おそらくそうなのだろう。見下されたから、だから復讐を誓う。常に強者だったからこそ、ではなく弱者だからと見限られたこその反逆。後者の方が恐ろしいことを周りは気づいていないのだ。
「怖い。けど」
グウェリオンに侵入する。ルナがどこにいるのかを突き止める。
――自分がやらなければいけない。
「さて」
しかし、逆にグウェリオンに侵入することは容易なのだろうか。その答えはノーだった。
かつては貿易が盛んに行われていた――、だからこそ伸びていた街道は、ところどころひび割れて崩れ去っていた。ここから推測するにもう長い間、この街道は使われていない。
歩いている影はどこにも見当たらない。
そういえば大人にグウェリオンについて聞いた時、あの国には悪魔が住んでいるだとか、人攫いに会うから絶対に近づくなとかそういうことは聞いたけれど、実際にどんな国なのか聞いたことがなかった。どんな国であっても、ましてや隣国ならばどんな文化を持ちどんな人が住んでいるのだとか、聞いたことが一つくらいはありそうなものなのに。
――あの国には親戚が住んでいるのよ、とも聞いたことがないのは変だ。
「悪魔が住んでいる……」
そんなことがあるはずがない。そんなことがあってたまるものか。
けれど、目の前に広がる景色はそうだとしか思えなかった。関所にいる彼らには生気がなかった。仮面をかぶっているその先に見える瞳には生者としての光がない。そういえば思い返すと、あの時にルナを攫った青年の瞳も虚ろで焦点が合っていなかった。淡々と機械的に話される言葉もそうだ。それにあの時『貴方は死んだ』と、ルナは言っていた。思い浮かぶ最低が脳裏によぎる。
「ルナ、お願い。無事でいて――」
けれどどうやってこの関所を突破する? 私の鉱石魔術はまだまだ未発展だ。目線をそらしてその隙に侵入する? けれど、そのためにはどんな鉱石魔術を使えばいいのだろうか。
「ああ、どうしよう……分からないや……」
悩む声に重なるように見知らぬ誰かの声が耳に届く。その声は、草原を吹き抜ける風のように静かで落ち着く優しい声。
「お困りですか? 僕で宜しければ助けになります」
「誰っ!」
どこから聞こえるかも分からない声に向かって叫ぶと、その声は少し困ったように戸惑ったように。どこを振りかえっても声の正体を視ることは出来ない。
「ああ、すみません。いきなり声をかけられても困りますよね。形を、変えます。上手くできるか分からないけれど……」
声はそう言うと、地面に足をついた。足をついた、それはそう見えたからであって、実際にそう行動したわけではない。そこに足はすでに無く、ふわふわと宙に浮く光の粒だけがあっただけなのだから。
「――僕の名前は、バルト。ルナ・カルブンクルス=ガラマンティクスを師とする、鉱石魔術の使い手。君の兄弟子でもあり、すでに僕の命はとうに潰えた。ここに在るのはただ声を発することしか出来ない魂だけ。僕はもうルナを助けることは出来ない。だから。代わりに君の助けになろう」
あの時、ルナを攫った青年。その彼がその姿のまま、そこに立っていた。
7【ルナ】
地下にこのような施設があることは噂で知っていた。けれど、実際その場に入ってみなければ分からないことというものはある。実際、地下室の牢獄をイメージして得られるじめじめした空気の重さだとか、陰鬱そうにうなだれる兵士の死神のような顔だとかは、おおよそ見当がついていたものだ。けれど、培養液に浸った人間については、予想を上回るもの。だかしかし、ここまで護送してきた弟子の様子を見ればわかる。彼はもうすでに死んでいる。彼の身体に剣が当たり赤い血潮がはじきだされたのも見ている。彼は確かに死んだはずだ。けれど、無理やり四肢を動かされてここに立っている。
「我が故郷は、神への冒涜さえも恐れぬようになったのですか」
「何を今さら。利用価値があるものは死んでいても使う。お前もそれをよく知っているはずだ」
それが冒涜以外の何物ではないことをよく知っている。
「お前は裏切った。その力は故郷にすべて捧げるものと知りながらお前は隣国に逃げた。本来ならばその場で処刑をしても良かった。けれど、お前を生かしてここに連れてきた理由は何か。――ルナ・カルブンクルス=ガラマンティクス。お前には利用価値がある。支配ができないのならば、お前の弟子のように物言わぬ死体になった後で、無理やりにでもグウェリオンの兵士になってもらう」
「抵抗すれば?」
「死体になるのが早くなるだけだ」
「でしょうね」
ここに連れてきた時点でうすうす気づいている。以前のように恐怖で支配し魔法を行使させる目的ではない。初めから自分を殺す目的でここに連れてきた。わざわざ愛弟子がアンデッドになった姿を見せてまで。
「貴方たちのやり方は汚い。そうまでして、のし上がることに何の意味があるのですか。貴方たちは餓死する子どもを見たことがないのですか。路上での垂れ死ぬ民を見ないから。だから、だから、我が故郷はこんなにも汚れて、もう以前のように戻ることはない」
「戦争で負けたのが大きな間違いだった。それまでは強くだどの国にも負けなかった。だから我々は戻らなければ」
「それがそもそもの間違いなのです! 何百年前の話をしているのですか。もうすでに今、生きている人間がその記憶を持ち合わせてはいない。周辺国の誰も、覚えてはいないでしょう。なのになぜ、過去にしがみつく必要がある。過去の過ちを繰り返して、また同じことを繰り返す? だから変わらない。変われない。前に進もうとしない限り、この国はいつまで経っても過去のままなのですよ!」
ぴしゃんと、頬に衝撃が走る。男の顔が、険しく歪んでこちらを睨む。
「それの、なにが、悪い」
目の前にいるのはバルトではない。バルトの身体を借りいるだけのまがい物。かつて愛した彼はそこにはいない。そんなこと分かっているはずなのに。
「……私は、彼を、バルトをこんな姿にした貴方たちを絶対に許さない」
「勝手にしろ」
男はひとつの牢屋の前に立ち、ドアを開けた。
背中を押され振り返ると無情にもドアは締められる。バタンと、重い鉄格子は音を立てる。かけられた錠は何重にも巻かれた鎖にかけられており、引きちぎるのは難しそうだ。
「大人しくしていろ」
倒れて触れた冷たい石造りの壁は雨露に濡れている。隣の牢もその隣の牢も、鉄格子の向こうには人形のようにうなだれて地面に座り込む人間がいた。私と同じように連行された者たちだろう。食事も満足に与えられていない。みなやせ細っていて今にも死んでしまいそうだった。
――私も、彼らと同じようになってしまうのだろうか。
「……ふう」
タンタンタンと靴音は段々と遠くなり、やがて聞こえなくなった。辺りはシンと静まり返っている。粗末なベットの上には気持ち程度に薄いぼろきれが置かれておりそれを敷いて座った。ギイときしむ音がしたものの身体を休めるには十分そうだ。
――誰か、助けに来るだろうか。
「いいえ、無理ね。この国は入るのも出るのも難しい」
私が逃げることが出来たのはバルトが時間を稼いでくれたから。己を犠牲にしてまで逃がしてくれたから。彼は死んだのだ。死体となり変わり果てたバルトをあの時のまま――、自分の弟子だった、生きていた頃の優しい彼と同じであると錯覚した。私は愚かだった。
死んだと分かっているはずなのに心のどこかでは生きていることを望んでいる。
「バルト、やっぱり私はね」
貴方が生きている可能性を、どうしても探してしまうの。この国から出て別の場所で働いていれば忘れられると思っていた。けれど、それは所詮、気休めだ。この国がそうである限り、貴方は死んでも働かされる。私がうんと遠くの国へ逃げることが出来なかったのは、それが気がかりだったから。遺体になった貴方の身体を国はどうするのか。魔術師はその魔術を体に蓄積する。
魂が離れていても身体さえあれば国はそれを使うかもしれない。
――それが、遺体を無理やり蘇生させるアンデッド化だとは思わなかったけど。
この国は、そこまでするほどに追い詰められているのだ。
「もうなにも伝わらないわね」
母は、私に魔術を教えたくはなかった。その理由はこの国の将来を見据えていたからに他ならない。母が子どもの時に何をしていたのかを知ることはなかったけれど、母は自分がしていることを娘にやらせるようになることを恐れたのだ。
退屈な牢の中で、ただ思考を搔きまわす。
弱気になるなと鼓舞しても、思い出すのは過去への後悔ばかり。
ぼすんと軋むベッドに身を預けると、そのまま何も考えなくて済む夢の中へ思考を放りだした。なにも考えたくはない。空腹に呻く腹の虫も、もうどうでもよかった。
8【アン】
「何か策があるのかい?」
「え?」
「……もしかして、今から考える?」
バルト、そう名乗った彼は不安そうにこちらを覗く。顔なのだろうそこから、目を細めた瞳が見えたような気がした。
「難しい、かな」
「そうだなぁ。グウェリオンは国民を外に出られないようにしている。けれどね、グウェリオンに外から入って来る人はなかなかいないんだ。だから、――中に侵入するのは容易い」
「じゃあ!」
「でもね、アン。よく聞いてほしい。グウェリオンに入ることは簡単だ。でも、この国から出ることは難しい。最悪、殺されて僕のように死してもなお身体を使われ続ける……なんてこともあり得る。それでも君は、彼女を――助けたい?」
覚悟がどれくらいあるのかを問われた。バルトにルナを攫われた時、私は何もできなかった。目の前にいるバルトの魂から自分がどんな目に遭ったのかを聞いた。グウェリオンは魔術師を人体実験して改造している。バルトのように死んだ者さえも使う。
――正直怖い。生きて帰ることが出来ないかもしれない。私が死んでしまったらお父さんはどうなる? お父さんは私なしでも生きていけるのだろうか。
「うん。助ける。ルナにまだ教えてもらっていないことたくさんあるから」
「そう、か」
「それに、お父さんのところに帰らなくちゃ。きっと……」
「アンちゃんはお父さん思いなんだね」
「――う、うん」
「じゃあ、僕も全力でお手伝いするよ」
違う。
「ん? どうしたの?」
「いや、ううん。なんでもない」
ルナに魔術を習うようになったのは、お父さんに元に戻って欲しかったから。お母さんをなくす前の優しいお父さんになって欲しい。真面目に仕事をしていたあの頃に。お父さんと二人で頑張れば借金も全部返せる。そう信じていた。けれど、ルナに魔術を教えてもらって分かった。
お父さんは、たぶん、元には戻らない。
私の優しかったお父さんは、もういないんだと。
「彼らが国の外に出る時の抜け道があってね。僕が死んだ後に彼らを追ったときに見つけたんだけれど……、そこに向かえば入れるはず」
「バルトは、どうするの」
「僕は魂だから、そうだな。君が持っている宝石を見せて?」
バルトがそう言ったので、懐に入れていた小袋から何個かの宝石を見繕って掌に乗せる。バルトはその中の一つを選んで、光の粒は舞い踊るかのように宝石に装飾を施す。
きらりと光って収まるとその中から声がした。
「よし。僕を耳につけてくれ。そうすればここから助言をするから」
「……うわぁ……綺麗」
それは小さなイヤリングだった。中心には、金に飾りつけられた琥珀が輝いている。
「