「えェーそうなんですかぁ! すごいですねえ……!」
わざとらしく両手に頬に添えたまま、笑顔をキープしすぎて引き痙った表情筋が痛い。できるだけ目元をやわらかく、口角だけは死んでも下げないように。眉を少しだけ下げて、声のトーンはいつもよりオクターブ高めに。
全神経をフル回転させて、あたしは必死で『合コンさしすせそ』を駆使していた。さすが、知らなかった、すごい、センスいい、そうなんですかァ。正直、この5パターンでどこまで乗り切れるか、不安だ。でも、やらなければならない。どうしても。
「ええ、だから僕、言ってやったんですよ。よりによって合コンでショーペンハウアーはないだろって」
「あはは、そおですよねー!」
(なんだその、小便小僧みたいなものは)
微塵もわからない。でも、そんなことは言えない。
目の前の男性――佐々木さんは、楽しそうににこにこしている。並んで入ったカフェの、センスのいいライティングが壁を白く照らしている。真っ白いバックライトを背負ってなお、彼は眩しくて、爽やかで、とんでもなくかっこよかった。
佐々木さんと知り合ったのは駅前の本屋さんだ。彼はいつも小難しい学術書のコーナーにいる。そんな彼をどうして知ったのかと言えば、いつも読むコスメ専門誌のコーナーに行くのに、どうしてもその棚の前を通るからだった。
最初は、かっこいい人だなあ、とぼんやり思うだけだった。でも、あまりにもしょっちゅう見かけるので、なんとなく気になるようになった。どんな本を読んでいるんだろう、と思って、一度こっそり後ろに立って、彼の立ち読みを立ち読みする、という意味のわからないことをしたことがある。そのときの彼は、よくわからない言葉がずらずら並ぶ、よくわからない本を読んでいた。
賢そうな人だしな、と思って離れようとしたとき。初めて、至近距離で彼の瞳を見た。その目は好奇心や喜びや、あたしの知らないなにか素敵なもので、きらきら輝いていた。きれいだった。
きっかけなんてそんなものだ。単純なあたしは本屋でたまたま見かけるイケメンにやすやすと惚れ込んで、欲しくもない雑誌や本を言い訳にいそいそ本屋に通い詰めた。見ているだけで幸せだった。
でも、転機はいきなり現れた。転勤だ、と言われたのだ。いちおう県内ではあるものの、沿線がまるで違う地域への転属だった。もうこの駅で降りることはなくなる。彼のあの瞳を見ることができなくなるのだ。
迷った時間は少なかった。あたしはなけなしの勇気を振り絞って、彼の前に立って、そして。
「その本、前に読んでわからなかったので、内容を教えてもらえますか……!」
思いっきり裏返った声で言った。彼はきょとんとしていたが、あたしが順番を間違えたことに気付いてしどろもどろになると、ふ、と楽しそうに吹き出した。
「違うんです。あの。怪しいものじゃなくて、えっと、あ、名前――」
「ああ、僕ですか? 佐々木です。佐々木祐也」
「え? あ、違いますその、あたし! あたしのえっと、大島は――ぐむ、げほっ」
「だ、大丈夫ですか?」
「……舌をかみました……」
「大丈夫ですか⁉」
清水の舞台から飛び降りる思いで声をかけたあたしは、ちっともスマートではなかったし、かわいくも素敵でもなかった。でも、佐々木さんはあたしの誘いを受けてくれた。わざわざ同じ本を揃いで買って、お会いするときまでに予習しておきますねと笑ってくれた。天にも昇る心地だった。
――それが今はもう、地面にめりこみそうだ。
あたしは頬に当てた両手をキープしたまま、あははは、と引き痙った笑いを浮かべている。佐々木さんは楽しげだが、あたしはただただ必死だった。
(なんで昨日眠れなかったんだあたしのバカ……!)
服やメイクやアクセサリ、香水からバッグに至るまでファッションショーを繰り広げて、あれこれ準備したて。そのせいでいつもより遅い就寝となって、ベッドの中でシミュレーションして、赤くなったり青くなったり。妄想と夢想と想像と、ありとあらゆるものが脳裏を巡って、アドレナリンとドーパミンとセロトニンがどばどば出た。ものすごい夜だった。
そして――見事に一睡もできなかった。
知恵熱が出なかっただけ、まだいいだろう。でも、睡眠不足の代償に、あたしの左頬には見たことないほどひどい吹き出物ができてしまった。ファンデーションでもコンシーラーでも隠しきれず、不自然に赤い円形を頬にくっつけたまま、あたしは死にそうな思いで待ち合わせの場所に行った。そして今に至るというわけだ。
「はー、そうなんですねえ! すごいなあ! さすがですー!」
(……だめ、自己嫌悪で死にそう)
自分でも、これがどれだけ薄っぺらい相槌かなんてわかってる。でも、初めてのデート(とあたしは一方的に思っている)で、彼の前で、できるだけいい格好がしたかったのだ。せっかく待ち合わせからここに来るまで、死ぬ気で左頬を死守したのだ。手を離すわけにはいかない。
「でも、嬉しいですよ。まさかこの本に興味を持ってる人が、こんなに近くにいるなんて」
「え、ええーそうですかあ? すごい偶然ですよねえ!」
嘘だ。本当は佐々木さんと話がしたくて、あの棚の本を片っ端から全部、目次だけ読んで回ったのだ。でもそんなことは絶対に言えない。言ってはならない。絶対ドン引きされるから。
「最近興味が出てきたんですよねー」
「へえ。社会人になってから興味持つって、珍しいですよね。なにかきっかけが?」
「え? あ、えっとー……そ、そうですねえ……!」
あなたが好きだからです、なんて言えるか。いっそ言ってしまったら少しは楽になるのかもしれないが、引き換えになにかが壊れる。彼の信頼とか、声をかけてからの二日で積み重ねたものとか、今のこの時間とか。
(絶対、絶対、格好つけてやる……!)
あたしは決意も新たに、ぎゅう、と頬に押し当てた手に力を込めたのだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――
(……ほっぺた、痛そうだなあ)
僕は人の良さげな笑みを浮かべながら、目の前の大島さんをそっと見つめた。彼女は不自然なほど頬にてのひらを接触させたまま、引き痙った笑みを浮かべている。受け答えも上の空だし、持ってきた本についての話も、いまいち要領を得ない。
(虫歯かな。それともにきび? どっちだろう)
コーヒーを一口。大島さんもストローでカフェモカを飲む。頬の手は離さない。どうしてこれで僕が突っ込んでこないのか、彼女は不思議に思わないのだろうか。
「……まあ、いいけど」
ぼそっ、と言う。大島さんは気付かない。ただ必死な顔で、僕を見て微笑んでいる。不自然なほどの作り笑顔。
たぶん僕に気があるのだろうなあ、というのは、話しかけられてすぐにわかった。でも、彼女が告げた本の名前は間違っていなかったし、目次の内容もちゃんと知っているみたいだった。だからこうして、話をしてみることにしたのだ。でも。
(この人、たぶんこのジャンル、ぜんぜん興味ないんだろうな)
二言三言話しただけで、それはもう丸わかりだった。僕は少しだけがっかりして、でも、落胆で視線をテーブルに落としたとき。ふと、目に入ったのだ。揃いで買った本、そのあちこちに貼られた付箋や、引かれたマーカー、たくさんの書き込みに。
(……まじめな人なんだなあ)
おそらくは僕と話すためだけに、ここまでの時間と労力を捧げた人。そう思うと、胸の底に火が灯ったような気持ちになった。それだけで、不自然な笑顔も、薄っぺらい言葉も、なんだかかわいく思えてきた。
「ええー、すごーい、さすがですねえ!」
「はは、そんなことないです。大島さん、褒め上手ですね」
「え、あ、いやえっとそれはないです‼ ……あ、いえ、あーえっと」
「……っふ」
面白い人だ。上っ面のぺらぺらの相槌の裏、ちょっと焦ったときに、彼女の〝素〟が見え隠れする。それがなんだか妙に楽しくて、ちょっとかわいい。
(にきびですか虫歯ですかって、いつ聞こうかなあ)
きっととても楽しい反応を見せてくれるだろう。考えるだけでわくわくする。
僕は数分後の未来を想像して、くすくすと肩を揺らした。僕の内心も、見抜かれていることも、なにも知らない大島さんが、よくわからないけど楽しいですね、みたいな笑みをつられて浮かべていた。ものすごくかわいかった。
FIN
37分
3362字
おわり!!!!!!!!!!!!!!