その人は椅子に座ったまま、両手を広げて窓を見つめていた。白い頬に朝の陽光が差し込んで、うっすらと光っている。
きれいな人だな、とぼくは思った。横顔の稜線、半開きになったくちびるから細い吐息がこぼれて、見開かれた瞳は不思議なほど澄んでいる。
広げた両手を空に掲げるようにして、彼女はただぼうっと外を見つめている。胸元のバインダーをぎゅっと抱えると、ぼくは意を決して彼女に話しかけた。
「おはようございます」
返事はなかった。食い入るような視線は窓に向けられたままで、横顔がぼくを探知した気配はない。
小さくため息をつくと、ぼくは彼女の横に立った。ぺら、と紙をめくって、声をかける。
「吉村瑞希さんですね。今日から担当になりました、篠田です。よろしくお願いします」
「……」
瑞希さんは返事をしない。まあそうだろう。ここで普通に振り返って挨拶なんてできたなら、ぼくはここへ呼ばれてはいない。
「ご主人から伺っているかもしれませんが。今日は顔合わせというか、ご挨拶に」
じっと観察する。反応はやはり、ない。美しい横顔は外を見つめたままだ。半開きになった口元にも、不自然に見開かれた瞳にも、取り立てて変化はない。
「失礼します」
そっと歩み寄り、顔を覗き込んだ。こういう人特有の症状、瞳孔が開いている。こんな窓辺に腰掛けて、朝日がまぶしくないのだろうか。いや、でも。
(瞳孔が開くと、世界が輝いて見える、か)
〝戻ってきた〟人から聞いたことがある。あのときは世界がきらめいて、すべてが美しくて、蕩然として、ただ幸福だったのだ、と。
瑞希さんの横顔は表情がなくて、蕩然とか、恍惚とか、そういうものは感じられない。この人の目に世界はどんな風に映っているのだろう、とふと思った。これほど食い入るように見つめるほど、彼女の世界は美しいのか、それとも。
そのとき、ふ、と視界の隅でなにかが動いた。瑞希さんの手だった。腕を広げて、手のひらをかざして、まるで光を抱きとめているみたいだった両腕が、ゆっくりと動いている。まるで見えないガラスを撫でるみたいな動作に、ぼくはかすかに目を細めた。
ぺら、と紙をめくる。たしかに記述があった。どういう意図の仕草かは書かれていなかったが、よくやる仕草らしい。
腕時計を見る。そろそろ時間だ。結局、とくに目立った収穫はなかった。初回だから仕方ない。
ぼくはバインダーの紙を整えると、さて、と居住まいを正した。
「そろそろ行きますね。あとでご主人が着替えを持ってこられるそうですよ」
「……」
反応はない。美しい瞳がじっと見つめる先、窓の外を、ぼくはそっと見た。外はきらきらしていて、朝の光に満ちている。そういえば、彼女がこうして窓を見つめて手を広げるのは晴れの日だけらしい。
退室しようと思ったが、気が変わる。最後にひとつだけ、尋ねた。
「瑞希さん。どうして、いつも手を?」
「……」
ほとんど独り言みたいな問いかけだった。返答など期待していない。
だが、ぼくの予想は裏切られた。薄く開いたくちびるがわなないて、小さな呼気の音。
「――きづいてほしいから」
ほとんど消えかけた、かすれた、小さな声だった。ぴく、とぼくの指先が動く。
「……気付いてほしいって?」
「かみさまが」
「……」
慌ててバインダーの紙をめくった。ペンを取り、書きつける。ぼくは慎重に、神様がどうしたんですか、と問いかけた。瑞希さんは眼球をぴくりとも動かさないまま、吐息混じりの声を出す。
「みているの」
「瑞希さんを?」
「ちがう」
「じゃあ、なにを」
「きづいてほしいから、手をふってる」
「……」
さらさらと書きつける手が震えた。唾を飲み込む。ぼくは彼女の視線の先をおいかけた。うす青い晴れた空、その向こうに、真っ白い満月が見える。そこから少し離れたところに、ぽつん、と浮かぶ白い点。
「瑞希さん」
くちびるを一度噛んで、ぼくは言った。
「神様は、そこにいるんですか?」
「――そう」
「ッ……!」
どくっ、と心臓が高鳴る。ぼくはがりがりとペン先で削る勢いで文字を書くと、あの、と呼びかけた。
「神様に気付いてほしいから、手を振ってる?」
「そう」
「気付いてくれるんですか」
「わからない、でも」
「――でも?」
ぼくの声は半ば引きつっていた。瑞希さんはただぼんやりしたまま、半開きのくちびるを震わせて、開ききった瞳孔を窓の外へと向けている。てのひらが、ゆるゆると動く。
「きっと、きづいてくれる。そんな気がする」
きっと。ということは、まだコミュニケーションは取れていないということか。とはいえ、世界中で空振りばかりが続いた中で、これは予想外の収穫だ。ぼくはため息を押し殺して、最後に形式上の問いかけを口にした。
「返事が来たことは?」
「……」
瑞希さんは答えない。もう〝戻って〟しまったのだろうか。気がつけば椅子の傍にしゃがみこんでいたぼくは、立ち上がって膝を払った。ぽつっ、と小さな声がする。
「へんじ、じゃないけど。ときどき、うたがきこえるわ」
「……っ!」
――当たりだ。
どっ、と一気に鼓動が高くなった。ぼくは震えそうになる声をこらえて、そうですか、と言った。
と、胸元で端末が震える。取り出してみれば、早く戻れ、という催促だった。ぼくは震える指先で、見つかりました、とメッセージを打つ。たちまちものすごい量のメッセージが飛び込んできた。
目の前の瑞希さんは、ぼくらの大騒ぎなど知らずに、ただゆっくりと両手を動かしている。開ききった瞳孔が、なめらかな眼球が、外の光を映して輝いている。
ぼくはほうっ、と長い息をつくと、同僚たちが来るのを待った。おそらくあと十分もかからないだろう。誰もここに期待はしていなかったから、もう少しかかるかもしれないが。
「そうだ、瑞希さん。すみませんが、ご主人の来訪は、しばらく難しいかと」
「……」
もう反応はなかった。彼女はただ、ゆっくりと手を動かして、〝かみさま〟に気付いてもらうのを待っている。ぼくはこくりと唾を飲み込むと、目の前で座っている小柄な女性をじっと見つめた。
――この星におそらくは〝なにか〟が来ている、と。
そう言われたのは二年前だった。奥歯に物が挟まったような物言いは、発表者たちの困惑をそのまま表していた。
どう考えてもなにか来ているとしか思えない。おそらくは知性があるなにか。でも、コミュニケーションどころか、存在を探知することができない。どうやら〝なにか〟と我々では、『認知や認識』そのものの仕組みがあまりにも違うため、存在を感じ取ることができないのだろうと。
人間は機械を使わないと紫外線も赤外線も放射線もわからない。それのもっと強烈なものだと思ってくれていい、とのことだった。隔たりが強すぎて、感知するための機械を作るどころか、そんな感覚が存在することすら知られていなかった帯域。彼らはそこに住んでいる。
とはいえ、得体の知れないなにかが地球を観測している、というのは気味が悪い。敵性かどうかもわからない。もしかしたら、向こうはこちらを感知できて、こちらだけが向こうを感知できていないのかもしれない。それは――あまりにもまずい。
存亡のかかった問題、と人々は言った。まるで陳腐な小説のようだった。だがそれはまぎれもなく現実で、ぼくたちは事態の解決に向けて死に物狂いで動いた。
そうして一年が経って、ようやく、『ごく一部の人間は、彼らを感知できる可能性がある』とわかった。彼らは長い間、ただの狂人だと思われていた、ということも。
あっという間にぼくらのような人間が集められた組織が作られて、ぼくたちは世界中の病院や、個人宅や、施設なんかをめぐりめぐった。収穫はなかった。誰も彼もがただの脳機能がずれてしまった人たちで、ぼくらの求める帯域に焦点があった人はいなかった。
(でも――この人は)
間違いない。このひとは、〝かみさま〟を見ている。
ほっ、と息が漏れた。長い仕事だった。やっと、少しだけでも前進する。
そのとき、ぼくはふと、瑞希さんのご主人を思い出した。彼は思慮深く、慈悲に満ちていて、妻を深く愛していた。ちくりと胸が痛くなった。
これから瑞希さんは、ぼくたちの〝目〟になる。もしかしたら〝口〟になるかもしれない。この人の感覚だけが頼りだ。なぜならぼくらは、〝それ〟を見ることも聞くことも、感じることもできない。そのための機械すらまだない。彼女の感覚を分析すれば、その足がかりにはなるだろうが、あまりにも時間が足りない。
たぶんこれから、この人は人間じゃなくて、重要な施設の一部として扱われることになる。それこそ、天体望遠鏡のレンズみたいなものとして。空に飛ばしたレーダーの反応をキャッチするアンテナみたいなものとして。
(……しょうがない)
存亡のかかった問題、と人々は言った。だから、少しの犠牲はしかたない、と。
それに、命が奪われるわけじゃない。彼女は丁重に保護され、大切に守られ、むしろ彼女ひとりを守るためなら、十人でも百人でも死んだっていいとすら言われるだろう。だが、そこに人間としての尊厳はたぶん、ない。
「……瑞希さん」
そっと彼女の名を呼んだ。返事はない。彼女はただ、不自然に澄んだ瞳で、開ききった瞳孔で、きらきらした朝日を見つめている。きっと常人の何倍も美しいのだろう世界を見つめている。
ゆっくりと手が動く。気付いてください、気付いてくださいと、呼びかけるように。
「すみません」
小さくつぶやく。動くてのひらを見つめて、目を伏せる。
ぼくは半開きのくちびるから漏れる呼気を聞きながら、自分たちがこれからすることのむごたらしさを、静かに思って。〝かみさま〟がこの手に応えてくれることを、強く願った。
了
時間 48分
文字数 3906字
よっしゃおわりー!
ちょっと荒いけどまあデッサンかクロッキーだと思えばこんなもんっしょ
もうちょっと外連味とか見せ場とか作れたらよかったな
即興だけあって構成の作りが甘いけどしゃーなし
初稿だからこれから整えたらもうちょっとマシなものになるかもね
わーありがとうございます!!見てくださって嬉しいです!!!
完全にワンドロなのでちょっと照れますがありがとうございます、嬉しい!
(語彙力……)
感覚器官が異なりすぎて互いを認知できない異星人って概念すきなんですよね……
あきらかに戦闘妖精雪風の影響なんですけど
いやー見てくださってありがとうございました!
では今日はこのあたりでおひらきにいたしますね!
本当にありがとうございました~!!!!