薄雲と紗のカーテンで滲んだ春の光を、ミシンの白いボディが柔らかく映す。
 静まりかえった校内。いつの間にか慣れてしまっていたらしい喧騒は遠く、僕たちの音だけが響くような錯覚を覚える。僕はリボンを並べた棚にそっと指を滑らせた。入部した頃にそろえたそれらはいつの間にかバラバラの長さになっていて、並んだ種類もだいぶ入れ替わってしまったものだ。
 なぁ、と背後で布を整理していた影片が声を上げた。
「お師さん、この布はどないしよ。もう端切れってことにしてええかな」
「どれ……あぁ、ハロウィンの時に使った。その長さだともう部分的にしか使えないだろう。君の端切れにしてしまって構わないと思うよ」
 そう返事をしてやると影片は手にしていた赤い端切れを脇に置いた箱に大切そうに仕舞った。その箱の中にはすでに色とりどりの布が溢れかえっている。僕なら捨ててしまうだろうなんてことない布のほんの小さな端切れまで、影片はまるでこの世にひとつしかない素材であるかのように丁重にしまい込んでいた。
「そこの群青の。その布は僕が持参したもので部の予算から出たものではないのだよ。君が使うというなら構わないけれど、部費の申請の時には報告しなくていい」
「これはアレやね、イースターの時の。もうすぐ一年くらいなるんか、早いなぁ」
 影片は愛おしそうに群青の布をなでて、よっこいしょ、とあまり格式高くない掛け声を立てて立ち上がった。
「布の整理終わったで~。こっちに積んであるのがお師さんが持ち帰る私物、こっちの棚が部費で買った分、こっちが持ち帰らない私物」
「ありがとう。こちらも終わったよ、ここから右のリボンが部費の分、左は私費だ」
 持ち帰る分を影片が積んでくれた布の上に置き、もう片手に持っていた分を影片の箱の中に入れると、彼は色違いの目を丸くした。
「これは君の端切れ。並べておく分には短すぎるけれど、君なら使ってやれるだろう」
 おおきに、と顔をくしゃくしゃにして笑う影片につられて僕の口角も軽く上がってしまうのを感じた。それを隠すようにして部室の中をぐるりと見渡す。この三年間、一時期を除いては常に何かしらの制作途上の衣装が広がっていた部屋がたった半日整頓しただけで幾ばくか広く見えて、ほんの少し、知らない場所のように見えた。
 思えば、この学院で過ごした三年間の思い出の半分近くはこの部室の中であるような気がする。はじめて仁兎を見つけて飛び降りたのもこの窓からだっただろうか。僕の、僕たちの城だった、この部屋。今日を最後におそらくはもう二度と訪れることはないだろう部屋の主は、もはや僕ではなかった。
 視界の端にまだ乱雑とした一角が目にとまり眉を上げた。
「あそこにあるのは?」
 僕の視線を追って、あぁ、と影片はうなずいた。
「あそこの荷物は多分つむちゃん先輩のやろなって分。後から来れるって言っとったから、とりあえず一カ所に寄せといててん」
「あぁ……」
 言われてみればなるほど、彼のユニットの衣装に使っていた布が見え隠れしている。彼が部室に顔を見せることは少なかったが、思いのほかその痕跡は多く残っていたらしい。
「つむちゃん先輩が来るまで、休憩にしよ」
 影片は僕が持ち込んだティーセットを慣れた手つきで並べ始めた。すっかり忘れていたけれど、これはわざわざ部室用に買いそろえたものだから寄贈と言うことにして置いていこう。
 まだ肌寒い空気の中にかすかな煙が静かな香りとともに立ち上る。影片が選んできた安いが飲みやすい茶葉だ。丁寧に入れられたそれはほっとする素朴な味わいがある。一口愉しんで、お茶請けに添えられたレモン味の飴玉を舌で転がした。
 イチゴ味の飴玉を口に放り込んだ影片は端切れの箱を卓上にあげ、鞄から作りかけらしいパッチワークを取り出した。大小不揃いのカラフルなそれはすでにそれなりに大きいがまだ面積を広げていくつもりらしく、箱から取り上げた素材を矯めつ眇めつ眺めて吟味し始める。
「随分大きい作品を作るんだね」
 奥歯で飴玉を砕くと人工的なレモンの香りが鼻に抜ける。
「大きめの膝掛けにするんよ。ほら、こないだお祖父さまのお見舞い連れてってくれたやろ。あの時作ってもってくわって約束してん」
 先ほど拾ったハロウィンの時の余り布に決めたらしく、軽く形を整えて薄黄蘗に歯車が入った布地の横に縫い止めていく。
「それ、七夕の時のだね」
「おん、腰に巻いてたやつの端切れ。これな、全部Valkyrieの衣装で使った布の端切れなんよ」
 秘め事を明かすかのようにそう言って作品を広げて見せた。無秩序に見えたそれは確かに、すべて自分たちのために作った衣装で見覚えのある素材ばかりだった。
「これ見せながら色々お話ししたらライブをみた気分になれるんやないかって思って。……喜んでもらえるやろか」
 急に自信なさげに視線を泳がせる。
「まだまだ縫製の甘い部分はあるが、配色センスは悪くないし何よりコンセプトがしっかりしているから、あの人の審美眼にも適うだろう」
「ほんま!? せや、多分材料余るし、マド姉ェの分も作ろ!」
 この辺の小さすぎる端切れとか使って、と影片は膝掛けを一旦置いて箱をあさり始めた。放置された布地を手に取って検める。縫製が甘いとは言ったものの、入部当初に比べればかなりしっかりした縫い目だ。元より繕い物の経験はそれなりにあったようだから針を持ったこともない輩に比べればアドバンテージはあったのだけど。
 縫い目をたどって、継ぎ合わされた布をひとつひとつ指で追っていく。
 それは僕たちの歴史の縮図だった。ひとつひとつを覚えている。ひとつたりとも忘れはしない。
 これは七夕の時の肩にかけた布。これは流星祭の余り。これはイースターの時の、これは二人になって二枚目のCDジャケットを撮った時のもの。エトセトラ、エトセトラ。
「……まさかこんなものから取ってあるとは」
 指が止まったのはValkyrieの基本衣装につかった紅い布地だった。影片も端切れをあさる手を止めて、どこか自慢げに少し胸を反らしてみせた。
「昔っから部室のお掃除はおれの仕事やったし、その時からどうにも捨てきれんくて全部とっといたんよ。まさか自分がパッチワークなんてするようになるとは思っとらんかったけど、我ながら先見の明があるわぁ」
「そうだったね」
 そう、君はそういう奴だったね。そう続く言葉は内に秘めるだけにする。
 君は何一つ捨てられない。ずっと最初からそうだった。手に収まらないほどのものを抱えて押しつぶされそうになって、大丈夫じゃないのに大丈夫だと言ってへらへら笑う。自分は痛みに鈍いから、自分は傷ついても平気だからと本気で思い込んでしまうから、本当に限界がやってくるまで大丈夫じゃないことに気がつけない。君はそういう奴だった。
 そういう君だからこそ、もはや再び舞台に立てないのではと思った僕をすら捨てられなかったのだ。
 二年間のほとんどを一緒に過ごしても謎のままだった影片のことがすんなりと腑に落ちていく。
 どうしてこんなに簡単なことに思い至れなかったのだろう、と一度気づいてしまえばばかばかしいような気がすることばかりだった。影片の生い立ちについては家で預かることになったときに聞いていたし、ゴミ捨て場から様々収集してくる癖も知っていた。影片の根底にあるものに気づくための要素はいくらでも転がっていたのに、その根底から生まれる芸術の可能性に思い至るまで二年もかかってしまうなど。何も捨てられない君はあまりにも不合理で不条理で、こんなにも人間性にあふれているのに。
「お師さん?」
 黙って布地をなでていた僕を二色の瞳がのぞき込む。なんでもないよ、とはぐらかしてパッチワークを返した。あともう少しで完成やねん、あと二、三枚。影片は拡張作業を再開して、僕は一口安い紅茶を飲む。衣擦れとティーカップの立てる音だけが直射日光の入らない部室に響く。
 静寂を揺らしたのは扉が開く音と、同輩ののんびりした声だった。
「いや~すいません、遅くなっちゃいました。図書委員の引き継ぎ資料をまとめるのに手間取っちゃって」
 聞いてもいないのに遅刻の言い訳をしながら、青葉が入室してきた。
「つむちゃん先輩の分のお茶淹れてくるで。飴ちゃん何味がいい?」
「みかくんのおすすめは?」
「んー、いまある分やとりんごやろか」
「じゃあ、それでお願いします」
 影片となんてこと無い会話を繰り広げながら、青葉はすっかり所定になっている席に荷物を下ろした。
「宗くんとはお久しぶりですね。出国するのってまだ先なんですか?」
「……おおよそ一週間後なのだよ」
 あえて声をかけずにいてもずかずかと踏み込んでくる厚顔無恥ぶりは相変わらずかと思いつつ、無視はできないのもこの時期のセンチメンタルな空気のせいか。
「もうあっという間ですね~。それで今のうちに部室の片付けってわけですか」
「君が来る前にほとんど終わったけどね」
「あ、もしかして怒ってます……?」
「別に、君がいなくても問題なかったのだよ」
「あはは、つむちゃん先輩は委員会のお仕事やったんやろ? それにお師さんとおれで十分やったのは本当やし、気にせんとってや」
 青葉の分のティーセットを手に戻ってきた影片が割り込んで笑う。
「せや、つむちゃん先輩のかなって荷物、あそこに積んでんねんけど」
 思い出したように影片が部屋の隅を指さすと、確認しますねと青葉は席を立った。
「思ってたより俺の荷物ってあったんですね。やっぱりお手伝いできなかったの申し訳ないですよ」
 そんなことをいいながらごそごそと荷物をあさっていたが、あれ、と不意に声を上げた。
「この指ぬき、俺のじゃないですよ」
 ほんまに? と近寄った影片に青葉が手の中の指ぬきを見せる。
「俺の裁縫セットの中身はそろってますから……部の備品とかじゃないですかね?」
「んー、おれのでもお師さんのでもあらへんし、さっき備品リストで確認したときはそろっとったしなぁ……数え間違えたんやろか」
 影片は首を傾げていたが、僕からもちらりと見えたそれに引っかかりを覚えて立ち上がった。
「見せたまえ……これ、鬼龍のだね。いつだったかここで作業したときに忘れたのだろう」
 僕が届けておくよ、と指ぬきを預かる。
「紅郎くん、よく来てましたもんね。俺よりここに顔を出してたんじゃないですか?」
 つぶやくように言って、ぼんやりと部室を見つめた。
「ここ、昔から半ばValkyrieの活動場所みたいになってましたから、ちょっと近寄りがたいときがあったんです。それに……」
 めがねの奥で榛色の瞳が揺れて、青葉はその続きを口にしなかった。
 僕も、何も言わなかった。
 かつて彼が――fineや生徒会が行ってきた所業を、忘れたわけでも許したわけでもない。これからもきっとそうだろう。だからこそ謝罪も贖罪も要求はしない。僕はただ、永遠に糾弾し呪い続けるだけだから。そしてそれをだれよりも理解しているのは目の前の彼のはずだった。
 そうだろう、青葉。僕たちの青春に謝罪はいらない。
「なんだかんだ言って、今年は結構来てただろう、君」
 青葉ははっとしたようにまばたきをして、あはは、とすぐに情けない笑顔を作った。
「Switchの衣装のために、だいぶお世話になりましたからね。助かりましたよ」
 ふんっと鼻を鳴らした。
「小僧やチビすけのためだからね。別に君の世話を焼いてやった訳ではないのだよ」
「またそんなこと言っちゃって……でも助かったのは事実ですから。ありがとうございます」
「……つむちゃん先輩の荷物確認、もうちょいかかりそうやんな、ほかにも別の人の道具とか混ざってるかもしれんし。おれ、お茶淹れ直すわ」
 影片がそういったのを合図に、僕は元の席に、青葉は目の前の荷物にそれぞれ戻った。
 テーブルの上に残っていた飴玉をひとつ口にする。色からしてグレープ味らしいが、目隠しをしてたべたら判別できないであろう味がした。
 開け放った窓から、遠くに人の声が聞こえる。誰かが学院にやってきたのかもしれない。
 ――仁兎に出会ったのも、こんな日だっただろうか。
 俗物どもへの憤りをこの部屋で布にぶつけていたあの日。かすかに聞こえた歌声に惹かれて見下ろした先に彼を見つけて、僕は気がつけば飛び降りていた。天使がいると思ったのだ、目を離したそのすきにふっと消えてしまいそうな天使が。
 仁兎、僕の最高傑作。彼の人間性を、その行く末を、今なら穏やかに言祝げるだろう。
 僕たちはひどく遠回りをしたのだと思う。あんなに一緒に過ごしたのに、離れた後になって君を完全に理解するなんて不可能だと理解したのだからね。
 仁兎とのことだけではない。影片とのことも、鬼龍とのことも、生徒会とのことも全て、僕たちが辿ったこの三年間は決して最善の道ではなかったかもしれない。どれか一つが違っただけで、僕たちの結末は全く異なったものになっていただろう。その結末はもしかしたら、今日至ったこの結末よりも幸せで正しいと思えるものだった可能性すらあるのだ。
 きっと僕たちは、誰もが少しずつ正しくて、同時に少しずつ正しくなかったのだ。全知全能の神ではない僕らは完全に正しくはあれないが、だからこそ人間らしく足掻くのであって、辿り着いた結末もそこに至る過程も正しかったのかなど証明できないとしても、それらすべてを後悔だけを以て振り返るべきではない。足掻いたことにこそ意味があるのだから。
 下校を促す鐘が鳴る。いつの間にか日は傾き、春の雲に霞んだ夕日が僕らの影を長くしていた。
 あの後、僕たちはぽつりぽつりと他愛ない話を幾らかした。本当にしょうも無い思い出話だ。あの時の衣装は大変だったとか、あの時の作品は気に入っているとか。そんな話をしながら荷物をまとめて影片が部室の鍵を閉めて、校門にさしかかったところで青葉が立ち止まった。
「俺、宗くんたちとは反対方向ですから」
「あぁ、そうだったっけ」
「宗くんの出国の日取り、良かったら夏目くんに教えてあげてくださいね。お見送りに行きたいと思ってるはずですし」
「元よりそのつもりだったよ。全く、今生の別れでもなんでもないのだけれどね」
 僕が軽くため息をつくと、榛色の瞳を細めて、青葉は穏やかに微笑んだ。
「……それじゃ、俺はこれで」
「……あぁ」
「つむちゃん先輩、またな~!」
 互いに背を向けて、僕たちはそれぞれ歩き出した。
 影片と二人、夕焼けのなかを歩く。言葉数が少ないのはきっとセンチメンタルな春風のせいだ。二年間一緒に通った道を二人で辿って、いつものように左に曲がって、ふっと隣の影が立ち止まった。
「影片?」
 振り返ると、影片はT字路に立ち止まってそわそわとしていた。一瞬眉をひそめて、ああ、そうか、とようやく思い出す。
「昨日から別だったね」
「……おん」
 昨日、影片は本格的に引っ越しを終え、昨夜からは単身用の部屋で一人暮らしを始めたのだった。
「今日の夕食の当てはあるんだろうね」
「昨日のうちに色々材料買うておいたんよ。安いスーパー近くて便利やわ」
「それなら、いいのだけど」
 言葉が途切れる。身のうちにあふれる千の言葉も憶の言葉も、このたそがれにはふさわしくないように思えた。
「……明日、またお祖父さまのお見舞い行ってもええかな? 約束の膝掛け、今晩のうちには完成できると思うんよ」
「それなら、明日のお昼にうちに来たまえ。ちょうど兄が見舞いに行くと言っていたし、一緒に行こう」
 それを聞いて、影片はぱっと顔を明るくした。
「んじゃ、また明日」
 まだ慣れない明日の約束をして、僕と影片はそれぞれの家路についた。
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初公開日: 2022年01月03日
最終更新日: 2022年01月03日
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