江澄の見合いが悉く失敗に終わるのは、彼の出す条件が常軌を逸した厳しさだからであるとか、あまりに苛烈な性格ゆえに相手が恐れをなしてしまうだとか、巷間では好き勝手に言われているが、実際にはそうではない。
 口ではあれこれ言うものの、どれも江澄にとってはさして重要なことではなかった。
 金凌に良くしてくれる、ということだけは極めて重要だが、それとて、最大にして唯一の条件に当てはまるならばおのずと紐づいてくるもののはずだった。
 江澄はただ、誰かの唯一になりたかった。
 相手は誰でも良かったのだ。江澄のことを一番に考え、あなただけを愛していると言ってくれるならば、誰でも。
 だが、江澄は同じだけの愛情を相手にも捧げてやることは出来なかった。自分がそれを望むならば、相手も同じことを江澄に望んでいる。そんな簡単なことにさえ長年気付かず、多くの縁談を棒に振った。
「生憎ですが、わたくしはあなた様のお母様にも、お姉様にもなって差し上げることはできません」
 見合い相手の年若い娘に、面と向かってそう言われたこともあった。
 江澄の求めていた、不均衡で手前勝手な要求を的確に言い表したその言葉に、江澄は怒りを感じるどころかむしろ感心した。
 ──なるほど、私は母や姉を求めていたのか。
 言われて初めてそれに気付き、以来、見合いをするのをぱたりとやめた。
 いるわけがなかった。
 母でさえ、ありのままの江澄を愛さなかった。理想の息子でないことを嘆き、もっと努力をしろと叱った。
 姉でさえ、江澄だけを愛さなかった。姉の愛情と慈しみは、家族と、そのほかの大勢の人間へと向けられていた。
 江澄は、もはや誰にも選ばれることの無い己を悟り、欲することを諦めた。
 執着の対象は雲夢と、甥と、鬼道を使い夷陵老祖の名を騙る輩の三つに絞られた。
 三つもあれば、十分であろうとも思われた。
 文字通り、嵐のような観音廟での出来事のあと。
 江澄がそれまで執着していた魏無羨の幻影は彼の手を離れ、代わりに魏無羨の形見ともいうべき金丹だけが胎の中に残された。
 胸には風穴があいた心地だというのに、長年共にあった金丹はあたたかく、滾々と霊力を生み出し続けている。
 蓮花塢と江氏を捨て、金丹と自分の命までもを失った魏無羨は、それらと引き換えにたった一人の愛する人を手に入れた。その人に愛されて暮らす日々を手に入れた。それがどれほど得がたく幸せなことか、果たして本人は分かっているのだろうか。
 江澄も、この金丹を引き換えとすればあるいは、と考えて、あまりの滑稽さに自嘲する。これはもともと魏無羨のものであって江澄のものではないのだから、引き換えになどなるはずがないではないか。
 とうに手放したはずの寂しさがぶり返してしまうのは、当の魏無羨があまりにも幸せそうに笑っているからだ。その笑顔を一身に受けた藍忘機も、とろけるように目を細めて、道侶の顔を見つめ返す。
 見ていられなくて、江澄は早々にその場を辞した。
 金凌の座学について相談すべく、雲深不知処を訪れていた江澄は、ひどく疲れた顔で客坊への道を急いだ。
 本来ならば、藍宗主である藍曦臣と話をすべきところである。しかし彼はいま閉関中とのことで、名代の藍啓仁と話をするつもりであった。
 ところが、その藍先生はこのところ体調がすぐれないとのことで、遊歴に出ていたはずの藍忘機が呼び戻されていたのだった。
 先ごろ金氏の宗主になったばかりの金凌の、座学の開始時期や期間について、細々と相談するだけだったので、相手は誰ても差し支えなかったのだが、こんなことならわざわざ出向かず、書簡にすればよかったと今更ながらに後悔する。
 江澄としては、藍先生に直接「金凌のことをお願いします」と言いたかっただけであり、藍忘機と無機質なやりとりをしたり、何故かくっついてきた魏無羨とべたべたとくっついている様子を見せられる予定などまるでなかったわけである。
 去り際に魏無羨の手からひったくってきた天子笑の甕をぶら下げて、白い小石の敷き詰められた小径をゆく。案内などなくとも、勝手知ったる道だった。
 その時ふと、やわらかく甘い香りが江澄を引き止めた。よくよく周りを探してみれば、刺桂の白い花がさながら夜空の星のようにぽつぽつと咲いている。
 この香りを肴にすれば、少しは気がまぎれるかと、葉の棘も気にせず一枝手折り、酒と一緒にぶら下げて歩いた。
 と、そこへ。
「おや、これは江宗主」
 背後から突然声をかけられて、江澄は飛び上がって驚いた。
「た、沢蕪君……。驚かせないでくれ」
「失礼。お見掛けしたものだから、つい」
 驚きにばくばくと早鐘を打つ胸を思わず手のひらで押さえてから、江澄ははっとして天子笑を持つその手を後ろへ引っ込めた。
 今は閉関しているのではなかったのか? あなたこそ、どうしてこんなところをうろうろしている。随分と窶れたようだが、出歩いていて大丈夫なのか。
 色々と言いたいことはあったが、思わず口をついて出たのは、
「雲深不知処では、草木を採るのも禁じられていただろうか?」
 まるで先輩に教えを乞う、座学生のような言葉であった。
 藍曦臣は少し驚いたように目を瞬かせてから、思わず、といったふうにふっと笑った。
「いいえ。採りすぎさえしなければ、いっこうに」
「そうか、ならば良かった」
「私たちも、山の草木を薬として煎じたり、部屋に花を飾ったりはしますから」
 そのようなことも、このところすっかり忘れておりましたが。
 そう付け加えて、藍曦臣は江澄の方へ一歩、近づいた。
「お話は、もうお済みですか?」
「ええ。金凌が春から世話になります」
 改めて拱手の礼を取ろうとするのを、藍曦臣の手のひらがやんわりと押しとどめた。
「もしよろしければ、こちらでお茶など、いかがです」
「はあ、私は構わないが……」
「そう、良かった」
 微笑んでみせる頬は、窶れていてもなお、美しさを損なってはいなかった。
 寒室に招かれ、卓の前に座らされた江澄は、わけが分からぬままに藍曦臣と差し向かいで茶を喫することになってしまった。
「……良ければ、この花は寒室に。それとこれは……、あなたの義弟から奪っ、預かっていたものだ。返しておいていただけるか」
 ずっと後ろ手に隠していたものを差し出すと、藍曦臣はまた笑った。
「まったく、忘機にも困ったものだね」
「…………」
 返答に困り、江澄は差し出された茶に口をつける。そして、思い切り眉をひそめた。
 舌を刺すほどに渋いのに、香りは薄く、まるで出涸らしかと思うほどに不味い。
 ちら、と上目遣いで向かいに座る男を見れば、茶杯を前に困ったような顔をしている。
「このところ、どうにも味がよく分からず」
 茶を淹れるのも随分と久しぶりで、と恥じ入るように目を伏せる美丈夫に、江澄はため息を返す。
「ならば、ご無理なさらぬがよろしいかと」
 何のつもりかは知らないが、飲みたくもない茶につき合ってやるほど江澄も暇ではない。
 杯を置いて腰を上げかけると、藍曦臣はいよいよ必死の面持ちで、「お待ちください」と江澄の手を引いた。
「ああ、それならば、こちらを」
 言うが早いか、片手で天子笑の甕を掴むと、いまだ茶葉の残る茶壷になみなみと注ぎ入れた。
「沢蕪君、何を」
「このように、酒に溶かして飲む薬もあるのです。ごく偶に、のことですし、これはただの茶だけれど」
 そうして新しい茶杯に満たされたのは、茶の色をほんのりとうつした銘酒で。
 江澄は、目の前に出されたそれを仕方なく口にふくみ、そして目を丸くした。
 元から香り高い酒が、さらに深みと奥行きを増し、まろやかになっている。先ほどの出涸らしはなんだったのかと思うくらい、素直に美味い。
 蓮花塢の荷風酒と似たようなものだろうが、それとはまた違う、ふくよかな味わいだった。
 江澄の表情を見て、藍曦臣はほっとしたように息をついた。
 そして、
「例の……観音廟のこと、ありがとうございました」
「ああ、なんだ、そのことか……」
 江澄は、藍曦臣が自分を呼び止めた理由をようやく理解した。封棺大典と前後して、崩れた観音廟の後始末をしたのは、おもに雲夢江氏だった。
「ずっとお礼を申し上げねばと思っていました。私が礼を言うのもおかしな話かもしれないけれど」
「あそこは雲夢の管轄だ。私が始末をつけるのは当然だろう」
 礼を言われる筋合いはない、と言おうとして、やめた。
 その代わりに江澄は目を伏せて、杯の中の酒を呷る。空になったところへ、すぐに酒が満たされる。
「あなたは飲まないのか?」
 どうせ、飲んでも味など分からないのだろうが。
 江澄は少しだけ伸びあがって茶壷を取り、藍曦臣の杯にも酒を満たす。少し迷ってから、藍曦臣は袖の向こうで杯のふちに口をつけた。
 こく、こく、と喉が鳴る音がして、それから、みるみるうちに藍曦臣の双眸から涙があふれた。飲んだ酒が、そのまま目から零れ落ちたのかと思うほどに。
「寂しい」
 そう言って、藍曦臣はぽろぽろと泣いている。
「そうだろうな」
「分からない。どれだけ考えても、私には、何も」
「そうだろうな」
「分からないことが、許せない」
「そうだな」
「あなたには、分かりますか」
「分かるわけがない」
「つらくはないのですか」
「つらくなかったことなどない」
「…………」
 藍曦臣は両の手のひらで顔を覆うと、そのまま肩を震わせてしばらく泣いた。
 江澄はただ黙って、その様子を眺めていた。
 卓の上に置き去りにされた刺桂が、淡く、甘い香りを放っている。その香りと、さめざめと泣く男の姿を肴に、江澄は酒を飲んだ。
 取り残された男が二人、差し向かいで。
「……もう、皆、いなくなってしまった」
「そうだな」
 藍曦臣は、そこではたと顔を上げた。返事があったことに驚いた様子だった。顔を覆っていた手を外し、いま初めて気づいたような顔をして、江澄の顔をまじまじと見た。
「…………なにか」
「いえ」
「お邪魔のようならば、私はお暇するが」
「いいえ。ここにいてください」
「…………」
 返事をする代わりに、自分と、相手の杯に酒を注ぐ。
 満たされた杯と、江澄の顔とを交互に見て、藍曦臣はぽつりと言った。
「もう、あなたしかいないのか、と」
「はっ、確かにそうだな」
 あの嵐の夜を共にし、それぞれの傷を知る者は、互いに。
 江澄は、ひと息に杯を干すと、呆けていた藍曦臣の手を取って引き寄せた。
「ならば、傷の舐め合いでもするか?」
 そう、相手は誰でもよかったのだ。
 互いを、互いの唯一とするならば、誰でも。
 
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余り茶に福あり
初公開日: 2021年12月01日
最終更新日: 2021年12月01日
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