「うまそうだな」
 いつも皮肉めいた刺々しい物言いをする江澄にしては珍しく、思わず、つい心に浮かんだことを漏らした──というふうに、そう言った。
「いま、なんと?」
 卓を挟んで向かい合っていた藍曦臣の方も思わず、といった風情で聞き返す。江澄ははっとしてから、急に慌てた。
「いや、すまない、なんでもない。口がすべった。気にしないでくれ」
「いま、確かに「うまそうだ」と」
「……聞こえていたなら、わざわざ聞き返さないでくれ」
 そう言われても、藍曦臣は聞き返さずにはいられなかった。
 二人が向かい合って座した卓の上には、二人分の茶杯が鎮座している。琉璃釉のかかった美しい──普段、ひとりの時にはめったに使わない、とっておきの──杯である。しかし、中にはまだ何も入っていない。
 所用があって雲深不知処を訪れていた江澄を、お茶でもどうかと寒室に誘ったのは、つい先ほどのことだ。炉の上で、ようやく湯が沸き立った。
 空の茶杯を前にして、江澄が放った言葉はどう考えても不可解だった。
 同じく、とっておきの茶葉で淹れた茶で杯を満たし、藍曦臣は改めて相手の前に差し出した。これは実は、藍曦臣が手ずから調合した茶葉だ。茶の味の違いなど分からんと江澄は嘯くが、含んだときの些細な反応を見て取って、その度に彼の好みを推し量り、あるいは体調なども考慮して、配合を考えるのは藍曦臣のひそかな楽しみのひとつでもある。
「いただこう」
 小さく言って、江澄は琉璃釉の茶杯を口に運んだ。
「うまい」
 吐息とともにこぼれた言葉に安堵して、藍曦臣も茶を含む。今日は少々顔色が優れないように見えたため、はと麦を基調に、よい血を補う黒きくらげや、なつめ、それに陳皮を加えた。ほのかな柑橘の香りが、疲れた心身をほぐしてくれる。
 袖の中で茶を飲みながら、藍曦臣の視線は依然として、目の前の客人の手の中におさまった、気に入りの茶杯へと注がれていた。
 彼が、自分の淹れた茶を好んでいることは知っている。こうして過ごす他愛のない時間を、憎からず思っていることも分かっている。互いに欠けたもののある同士、あるいはよく似た傷を持つ者同士、同情と、憐憫と、気安さと、それにほんの少しの慕わしさ。それらが絶妙に配合された、なんとも言葉にしがたい関係性の二人だった。
「晩吟、もしかしておなかがすいている?」
 ふとそこに思い至って、藍曦臣は菓子でも出そうかと腰を浮かせる。しかし、江澄は否定した。
「いや、結構だ。べつに腹は減っていない」
「では、どうして?」
 茶杯を見て、うまそうなどと言ったのか。それがどうしても気になって仕方なかった。飴色や柿子色ならばともかく、瑠璃色の釉薬は藍曦臣の常識からしてみれば、とても美味そうには見えなかった。
「……随分とこだわるな」
 江澄はため息まじりに杯を置いた。卓の上に頬杖をつくしぐさは、彼がくつろいでいるときのそれである。
「だって、あなたが不思議なことを言うから」
「口がすべったと言っただろう。これは俺の……つまらん癖のようなものだ」
「癖?」
「うん。気をつけていたつもりだったんだがな。つい、気が緩んでしまった」
「どういうこと?」
「別に大したことじゃない。綺麗なもの、美しいもの、あとはまあ、小さくてかわいいもの、そういうものを見るとどういうわけか、とてもうまそうに思えるんだ」
「うまそう、というと……」
「そのままの意味だ。おいしそうだな、と」
「口に入れてみたいと?」
「そこまで具体的な欲求があるわけではない。もう少し漠然とした感慨だな」
「ふうん……」
「ああ、まあ、赤子の頬っぺたや仔犬の足なんかは、口にふくみたいと思うこともあるな」
「赤子……犬……」
「だから、雲夢の市井では『悪いことばかりする子は、江宗主に喰われちまうよ』などと言われているらしい」
「それは、またなんとも……」
「別に悪い子だからといって取って喰うつもりもないんだがな」
 むしろ良い子の方が食い出があるだろう。そんな冗談を言って、江澄は杯を呷った。
 なるほど、とよく分からないながらも頷いて、藍曦臣は江澄の独特の感覚を胸におさめた。
 それからしばらく経った、清談会での席であった。
 会場となっていた雲夢の外れの中規模の世家で、会談後の宴もたけなわのころだった。
 同じ雲夢の地、食べ慣れた料理の味に舌鼓を打っていた江澄のところへ、藍曦臣がつかつかとやってきて、すぐそばにどっかと座った。
「沢蕪君。私になにか、」
 言いかけた言葉を、よく通る大きな声が遮った。
「ここのお料理は、おいしかった?」
「は? はあ、まあ、そうだな。うまかった」
「このうつわは、どう?」
「は?」
「おいしそうだと思うかい?」
「…………」
 周りにいた他家の宗主たちが、話をやめて怪訝そうにこちらを見ている。誰だ、沢蕪君に酒を呑ませたやつは。江澄がじろりと睥睨すると、注がれていた視線がぱっと散り、またもとのようにざざめく声が立ち始める。
「……沢蕪君、少々酒を過ごされているようだ。もう休んではいかがか」
「私は、どうもよくわからなくて。そもそも、藍氏では食事をおいしいともおいしそうだとも思ったことがないものだから」
「ああ、そうだろうな」
 藍氏の座学、あるいは藍氏の宴席に出たことのある者ならば、それは誰でも知っている。甘いのと苦いのがあわさったような、薬草だらけの精進料理を、美味そうだとは思わない。あなたの淹れる茶はあんなに美味いのにな、と余計なことを言いそうになって、江澄は口を噤む。それよりも、いまはこの酔っ払いが余計なことを言う前に黙らせるのが先決である。
「雲夢の味が、あなたの口に合ったのなら何よりだ。礼ならば俺が代わりに言っておいてやるから、あなたはさっさと客坊へ戻れ」
「でも、私もおいしそうだと思うこともあるよ!」
 まるで話が噛み合わない。酔った藍曦臣が陽気になるのは江澄の知るところでもあったが、今日はいつにも増して様子がおかしい。主催である老年の宗主が、心配そうにこちらの様子を窺っている。どうやら、酔わせたのはあの御仁であるらしい。彼の人となりは江澄も分かっている。おそらくは悪気も他意もないことであろう。江澄は、彼の方へ目くばせをしてから、藍曦臣の手を取って立ち上がった。
「私も、少々酔ったようだ。沢蕪君、悪いが茶を淹れてくれないか」
「ええ、喜んで!」
 元気よく返事をすると、藍曦臣は嬉しそうに江澄の手を引いて宴席を後にした。
 ──あの沢蕪君が、あのように酒に呑まれるとは。江宗主は沢蕪君の扱いをよく心得ておいでだ。
 ひそひそと囁かれる声が、藍曦臣に聞こえたのかどうかは分からない。
 どうにか客坊に落ち着くと、藍曦臣はいそいそと茶の用意をしはじめた。江澄はどっと疲れたような心地で、脇息にもたれながら茶の用意ができるのを待つ。酔っていても、その様子は手馴れており、美しいのだな、とぼんやりと思いながら。
「ねえ、晩吟」
「なんだ」
「さっきも言ったけれど、私もおいしそうだと思うことがあってね」
「そうか」
「なんだか分かる?」
「分からん」
「少しは考えてくれてもいいだろう」
「分からんものは分からん。教えてくれ。何がうまそうに見えたんだ?」
「あなた」
 短く言って、藍曦臣はそっと茶杯を差し出した。
 客坊に用意されていたそれは、別段高価なものでも、美しいものでもない。ごくごくありふれた、白磁の杯だ。
 それを引き寄せ、江澄は口をつけた。茶葉も、寒室で味わうような、香りの高いものではない。それをごくごくと一気に呷って、杯を置いた。すかさず、そこに淡い翡翠色の茶が満たされる。
「あなたが食べているものや、あなたの手の中にあるもの、それを見て、私はおいしそうだなと思ったよ。それに、あなたの手も」
「…………」
 朗らかに、なんの恥もてらいもなく言いながら、藍曦臣は自分の分の杯を取った。長く、整った指先が、真っ白な杯を持ち上げる。同時に持ち上げた袖の端から、貝殻のような爪が覗く。
 ああ、美しいな、と思うと同時に、江澄の口からも感嘆の言葉がこぼれていた。
「なるほど、あなたの手もうまそうだ」
「やっぱり、あなたもそう思う?」
「ああ」
 口にふくんでみたら、どんな味がするだろうか。
 どういうわけか、それを確かめてみたいという衝動に抗うことができなかった。
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