太陽暦四百五十七年 初夏
 デュナン湖の北側地域の冬は厳しい。さすがにハイランドのルルノイエ湖のように湖面が凍り付くことこそないものの、寒風吹きすさぶ街道を行く者は激減する。規模の大きい交易もこの時期には行われず、だからこそこれら人々の往来が再開する春の賑わいはミューズの人々にとって格別なものだった。
 太陽暦四百五十七年。南方に国境を接する赤月帝国の後を継いだトラン共和国が発足したこの年、少し遅れたミューズの春は例年にない賑わいを見せていた。都市同盟北方の要であるミューズは当然のことながら交通の要所でもある。隣国の状勢の変化に人々の動きは敏感に反応した。長く続いた内乱が終われば商機も変わる。戦いのさなかに生業を求める者は、新たに稼ぎの道を探す。新しい国に居場所を見いだせなかった者もいるし、勿論その逆で新興国で一旗揚げようと目論むものも多い。にわかに活気づいた人の流れに、さしものミューズの都もどこか浮き足だったまま、季節は夏へと移ろうとしていた。
 少しくたびれた装いの南方からの旅人が二人、ミューズにたどり着いたのはそんな人の流れが多少なりとも落ち着いた時期のことだった。
 都市同盟の主たる都市は城塞都市である。最大の商都であるミューズ、赤月やバナーの鉱山、セナンの少数民族等との交易で栄えたかつてのデュナン君主国の歴史を色濃く残した古都サウスウインドウ、学園都市のグリンヒル、そして都市同盟の剣を自認するマチルダ騎士団の本拠ロックアックス。いずれの都市も防御に優れた強固な城壁を誇っている。いずれの都市も城門を閉じればかなりの籠城戦にも耐えうる構造だ。都市同盟の締結に大きな役割を果たしたジョウストンの丘における二ヶ月の攻防戦の逸話に倣ったわけではあるまいが、この地の人々は自らの住まう土地や生活を守ることに赤月の人々よりも重きを置く。旧来の国境争いの相手である赤月の内乱に乗じたティント・サウスウィンドゥ連合軍によるセナン地方の制圧が失敗に終わったこともあり、ここ最近のミューズの世論は厭戦気分が主流を占めている。もっともその気分を誘導しているのはハイランド王国との休戦協定を結びたいミューズ市国の上層部だろうというのが、いわゆる酒場の事情通による見立てではあったのだが。
 連合軍が南方から軍を引いたのは昨年の秋口。収穫期と厳冬期の停戦を経た今年の春になって実質的な休戦が成立した。建国の混乱に乗じてセナンを取るべきと強硬に主張するティントと戦争特需を期待する部族、様子見に徹する部族など、混沌に混沌を上塗りしたかのような冬の外交戦が落ち着くところに落ち着いたのは、グランマイヤーの老練した政治力と人徳の賜物だろう。渋々ながらといった体ではあるものの、都市同盟側も旧赤月帝国……トラン共和国側も、互いにセナンから一旦は軍を引いた。
 ミューズ市長のアナベルがミューズ正規軍に対する予算の削減を打ち出したのはその直後のことだった。ハイランド王国との間で締結され、発効を待つばかりとなった休戦協定に記載された「双方の建設的な未来に実現するであろう将来の軍備の縮小」に向けての措置とのことだったが、浮いた予算は傭兵部隊の設立のために用いられるという。グラスランドやハルモニアの辺境地域での騒乱で名をあげているゼクセンの流れを汲むいくつかの傭兵隊や西方大陸のリンドブルム傭兵団のように統制が取れた練度も高い一団を期間限定で雇い入れるのが定石である。敢えて平時、それも休戦協定が発効しようとしているこの時期にわざわざミューズのために働く傭兵部隊を組織するだなど、あまりにも常識から外れた施策だった。
「…いやはやまったく」
 目抜き通りの東側、主に旅人相手の宿やら店やらが集う一画にある古い薬種問屋の店主は久方ぶりのなじみの店で聞かされたここ半年ばかりのミューズの情勢に思わず深い息を吐いた。赤月帝国の内乱が激化するまでは年に一度の恒例だった仕入れを兼ねた里帰りの旅は、三年越しとなったことで思いのほかに長引いた。旅人を相手にする商売である。国境の情勢が変われば仕事の内容も変わる。赤月帝国に属する故郷の安寧を確認した上で道中のあちらこちらで仕事の種を仕入れて戻れば、自分の足下にも色々と火種が飛び散ってきていたといったところだろうか。
「傭兵を公募とは、また思い切ったもんだ。経歴を問わず腕と志を見て採用を決める、とはね。戦いの腕で一旗揚げようだの、流しの傭兵だの、どうやったって一筋縄じゃいかない連中をとりまとめて、ミューズ周辺地域の治安維持に充てるってなあ、聞こえはいいが、生半可な人間にゃ務まらん。正規軍になじまないような海のものとも山のものともしれないような連中の頭を張れるような人間が今のミューズにいるのかね」
「それがまた市長の愛人だか情人だかのために、わざわざ部隊を作って隊長ポストを用意したって話まで出てきてるから厄介なんだ。最近ここらで幅を利かせてる赤月の内乱で活躍したって触れ込みの湖南の男でな。先だってもお忍びのアナベルと宿付き酒場で酒を酌み交わしてたんだとさ」
「いやいや、あの市長に限って、男に血迷った挙句に人事を違えるなんてのはあり得ないだろう!?」
「いやあ、所詮ダレルの娘だからなあ…恋の病に効く薬はあんたでも扱えんだろうし、鉄の女が真実の愛とやらでグズグズに溶け崩れるなんざ、世の中わりとままある話だ。まあミューズの人間としちゃあ、そうじゃないほうに賭けたいが」
「黄金皇帝の醜聞から学んでることを祈るばかりだな…」
 隊長候補と目される男が市長の愛人であるか否か。そんな話で盛り上がっているミューズの世論は、すでに傭兵隊の設立を既定のものとして受け入れている。ミューズの上層部による世論の誘導があったかどうかは定かではないが、あのアナベルであれば自らのスキャンダルを意図的に流してみせる程度のことはやってのけるだろう。
 ノースウィンドゥの惨劇は都市同盟内では広く知られており、それ故に巷間には滅多に上らない話ではあった。それでもノースウィンドゥの生き残りの若者については、いくばくかの後ろめたさを伴った噂話としていまだ都市同盟の人々の耳には残っていた。加えて表舞台とはほど遠い傭兵やら旅の商人やらのいわゆる流れ者たちの間では風来坊ビクトールといえばそれなりに名の通った存在である。そんな男が故郷を滅ぼした吸血鬼を倒して復讐を果たしたのみならず都市同盟共通の仇敵である赤月帝国を打ち倒すにも一役買っており、しかもアナベル市長とも旧知の仲だときているのだ。本来議論の俎上に乗るはずだった、そもそも傭兵隊の設立を認めるか否かの議論を飛び越して、ミューズの人々の注目は、市長の愛人とも目されるこの男が、本当に傭兵隊の隊長といった要職に就くのか否かという点に注がれていたのだった。
アナベルとジェス
「休戦協定の締結を機にミューズ正規軍の外征を前提とした訓練を取りやめる。将来的には正規軍の役割をミューズ市内の治安維持と国境防衛に限定していく。とはいえそこまでに至るには両国に休戦協定の実効が浸透したのちの話になるだろう。少なくとも十年やそこらはかかるだろう。デュナン共和国とやらも今回はグランマイヤー殿がうまく治めてくださったが、この先どんな動きをしてくるのか分かったものじゃない。ハイランドに対しては負い目もある。こちらから軍備を削減すると提示してどうにか成った協定でもある。予算の削減はそういうわけで既定事項だ。だが、この情勢下で我々だけが一方的に軍備を減らせるはずもない。だからこそ、自由に動かせる手駒が欲しい」
「とはいえ戦時の限定的な雇い入れのように高額な報償などだせるはずもなし、もとより戦争をしたいわけじゃない。日頃は自警団として領内の見回りをしつつ、いざと言うときには遊軍として正規軍と連携して動ける部隊、私が欲しいのはそうした遊軍なんだ。ゼクセンやリンドブルムの『戦争屋(専門家)』にどれだけ金を払ったとて引き受けようはずもない案件だ」
「赤月がこのまま落ち着くようならばいずれ傭兵崩れの人間がこちらにも流れてくる。即戦力として使える人材はみすみすハイランドやハルモニアに持って行かれるわけにはいかないだろう? 適度な報酬とそいつらをまとめ上げられる頭があれば、傭兵部隊はそういった連中の受け皿になる」
「ハウザー麾下から相応しい人物を推薦させる? 生粋の軍人には海千山千の傭兵の頭を張るなんて真似は務まるまい。個人的な知己だが、私に心当たりがある。噂くらいは聞いたことがあるだろう。ノースウィンドゥのビクトール。いや、トラン共和国建国の立役者、風来坊ビクトールというべきか。その男が戻ってきているんだ」
「あてになるか、だと? 十年以上仇を追い続け、ついに念願を遂げた男だ。実力を疑う余地はあるまい?」
「現実は物語ではない。
ホウアン
「いつも遅い時間にすまないね、先生。実は折り入って少しばかり頼みがあるんだ。本当なら食事を用意させたいところなんだが…」
 ホウアンら、市井の医師を招いての会議は日中の診察が終了した夕刻以降に開催される。市内の衛生状況や薬の流通、流行り病の動向など、存外医師や薬師の意見を求められる場面は多い。定例の会議への出席が義務付けられる委員への就任こそ固辞していたが、他国の制度や実情を知るホウアンの知識や見解は貴重なものであるようで、おおよそ月に一、二度の割合で閉庁後の市庁舎での会議や打ち合わせに招かれるのが常であった。市長直々に臨席するような会議ではないものの、
 
 
 
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向き
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2月の新刊に出来たらいいなーって(そこフラグ立てない
初公開日: 2021年11月27日
最終更新日: 2026年05月16日
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コメント
目指せ五月の新刊だったのですが、出来たところまでの展示になりそうな気配が濃厚。テキストライブも芸のうちだよね…!
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