珍しく東が生身で、珍しく自販機の横で立ったままぼんやりしていて、珍しくホットのはちみつレモンを飲んでいた。だから「珍しいな」と思ったままの言葉が口を突いて出た。コーヒーを買う間だけのほんの雑談のつもりで「それうまいの?」と聞いたら、東は一口飲みくだしたあとに「味がよくわからないんですよね」と白状した。鼻声で。だから、その当時は開発室にあった俺のデスクまで東を引っ張っていって、引き出しに放り込んであった飴を渡した。
「ありがとうございます」
「いーから、風邪ひいてるやつは早く帰りなさい」
「甘い。喉飴ではないんですね」
「持ってればくれてやったけどな。喉飴でも、すりおろした林檎でも」
「うちは桃缶でした」
「はいはい帰った帰った」
そんなことがあって以来、東は風邪のひきはじめを自覚するたびに「飴ください」と寄ってくるようになった。
体調不良を微塵も表に出さない男が、緩んだ発言と行動を出し抜けに――しかも俺だけに――向けてくる様は、正直に言ってしまえば面白い。病人に向かってこんなこと言うのは悪いけど。いや、東本人は「病人じゃないです」と意地を張ってくるからいいのか? 東は飴の種類について「同じのがいいです」とも言ってきたことがあり、素直なんだか頑固なんだか、よく分からない。
分からないとはいえ、そんな風に慕われて悪い気はしなかった。そして突っぱねる理由も特に思いつけないまま、当時渡したのと同じ飴を買い続け、今に至る。ロングセラー商品でよかった。隠し味の醤油がセールスポイントのその飴は、開発室に俺の籍がなくなったあと冬島隊作戦室へと居を移した。給湯スペースの茶筒と共に置かれたガラス瓶に収まって、来るべき出番のときを待っている。
出番と言っても勿論、東が本格的に寝込んだりすることは本意ではない。けれど、泰然自若な振舞いも仕事のうちだと思っているようなあの男が不調を自覚し、それを取り除くべく休息をとる切欠として、喉飴でも何でもない飴に活躍の機会があるのはいいことだ。
――って、今までずっと思ってたけど、お前なあ。
「すみませんでした。馬鹿なことをしました」
「飴やるから中入れろ」
「あれは間違えたんです」
「とぼけてないでチェーン外せ」
ここまで言えば、俺に退く気がないと東にも伝わったらしい。観念した様子で、玄関を細く開けたままチェーンロックを外す。ドアは俺が引き開けた。気まずそうに逸らされた東の目は潤んでいて、その目と顔色とを一瞥して分かるほど明らかに熱がある。ドアの錠を下ろし、寝間着一枚に裸足で立っている東の背に触れた。想像より熱い。
「食欲は?」
「少し」
「桃と、レトルトだけど粥と、どっちがいい?」
「……覚えてたんですか?」
「あーずーま」
「粥がいいです」
「ん。布団入ってろ、持っていくから」
東のメールに気付いたのは、防衛任務の後に帰り支度を済ませ、作戦室を出ようとしたそのときだった。届いていたのは二通で、受信時刻の差は一分。送信してから書き忘れに気づくような不手際を東がするなんて意外だ、本日非番の東がそんなミスをするほど気を急かす要因もなかろうに。そんなことを考えるともなく考えながら、件名のない一通目を開く。『飴ください』の五文字を見た瞬間、俺はガラス瓶を取りに戻るために踵を返していた。
粥が温まり次第持っていくと言ったのに、東は俺の半歩後ろを着いてくる。
「寝てなさい東くん」
「こっちで食べます」
「わー強情。せめて温かい格好しろよ……あと、うろうろするな」
食器を取り出すのを一旦断念し、東を留め置いたまま勝手知ったる寝室に入る。ベッドの上で抜け殻のかたちになっていた毛布を抱え、空のペットボトルを回収した。キッチンに戻り、レジ袋から粥を取り出そうとしていた東の手を捕まえる。そのまま毛布を巻き付けてテーブルにつかせた。巻かれながら東が弱々しく「もうしません」とか「大人しくできます」とかなんとか言っているのを生返事で聞き流しながら。
エレベーターの中で読んだ二通目のメールには『さっきのメール消してください。間違えました』と綴られていた。日に何度も乗っているはずのエレベーターがあんなにも遅く、じれったく感じられたのは初めてだった。
「桃とか飲み物とか冷蔵庫入れといたから、出すとき言って」
そう伝えると、平素から重そうなまぶたを一層重そうに、東は小さく頷いた。食後に風邪薬を飲むのを見届け、隙間なく布団をかけ、額を冷やし、一通り手を出したところだった。ベッドの足元に腰を下ろす。東は休日にも予定を詰め込むタイプだからさぞかし残念だろうが、ゆっくり眠って体を休めないと治るものも治らないだろうし後は静かに――
「見張ってなくてもちゃんと大人しくしてます」
東の囁きが思考に割り込んできた。喉の調子も良くないせいか、ごく小さい声量になっている。フローリングに手をついて、東を見た。何故か俺を気づかうように眉を下げて視線をこっちに向けている。
「見張ってはいない。どこでやっても同じ持ち帰り仕事をここでやろうとしてただけだから、遠慮なく使って」
「うつりますよ」
東は緩い笑みを絶やさずに、けれどその表情の底にはずっと、ばつが悪そうな色を漂わせている。
「お前ほど悪化させないから大丈夫」
答えつつ枕元へにじり寄って顔を覗き込むと、発熱でひたひたになった瞳に苦笑いが浮かんでいた。際まで赤く染まった目蓋を視線でなぞる。苦笑のカーブが徐々にかたちを変えていく。絡めていた視線がほどけ、瞬きひとつのあいだ、東の目が泳ぐ。そして逃げ場のないまま身じろぎしようとして、額の上のタオルに思い至って動きを止める。
「……東は熱出たとき、さみしくならねーの?」
自分は体調を崩すと心細くなるタイプだという自覚がある。ただ、実家暮らしのあいだはひっきりなしに他人の気配があったおかげでその性質に気付くことはなかった。むやみに心細くなったり、人恋しくなったりすることもなかった。東もそうなら、出来る範囲で同じ家の中にいてやりたかった。
ふふ、と笑声が毛布の下から漏れ聞こえてくる。東はまぶしそうに目を細め、ようやく何の憂いもない笑い方をした。
「あんたはさみしくなるんですね。いいこと聞いたなあ」
「ってことは東、じゃあ何? ほんとうに飴ほしかっただけ?」
人恋しさで俺を呼ぼうとしたのではないなら、そういうことになる。脚を崩して座りなおしながら訊いた。
「そうです。すみません」
「構わないけど、一体どこをそんなに気に入ってんだか」
持参してはいるが、流石にこれから眠ろうとする人間に食べさせる勇気はない。
「冬島さんが冬島さんみたいな色したものくれるから」
理由になっているような、なっていないような回答が耳に滑りこんでくる。うっそりとした笑みに縁どられた東の目は、虹彩の輪郭が滲んで見えた。涙の膜を透過して、黒が濃いその瞳に俺が映っている。東の薄い唇が開く。
「琥珀の色」
あーだめだ、と頭の中の冷静な部分が痺れを切らしている。俺が同じ部屋にいる限り、東はずっと俺に向けるための微笑を絶やさないだろう。本人はどう意識しているか定かではないが、少なくともその根深さはこれまでの付き合いでよく分かっているはずだった。
「――買い被りだよ」
それを言うならお前は、と喉まででかかった言葉を飲みこんだ。東の髪に指を入れて束になった部分を梳かす。その手を目蓋の上にそっと翳して、おやすみ、と小声を降らせた。常なら鉱物の低温を保つ黒曜石の鏡面は、熱っぽい目蓋の下に鳴りを潜める。
(了)