トロイメライの続きを書いてくよッ
『猫の手だよ。竜胆。』
『猫の手…?』
『猫の手。指きれちゃう。』
あの時は、竜胆の隣に立っていたのは彼女だったか。渋々袖を引かれて所在無げにキッチンに立つ弟の挙動不審な態度が面白くって、何か言葉を求めるような視線と『兄ちゃんは?』という彼の問いかけを『兄ちゃんは良いンだよ。』と笑って受け流したことを覚えている。
生活感に溢れた広いリビング、棚の上に置かれた家族写真と壁に飾られた似顔絵、ありふれている普通の家庭が醸し出す温かみのある背景に佇む三人だけの子供の姿が脳内には記憶されていた。肌に触れる温度は温かいのに、人の気配の薄い家。子供が何かをするには随分背の高いシンクに置いたまな板に向かってつま先立ちで刃物を落とす、とんとん、という小気味よい音が耳鳴りのように、耳孔で蘇る。
『蘭ちゃんも食べようね。』
『いらねぇし。』
『ダメだよ。』
ふわ、と香る食物独特の匂いに鼻を鳴らしながら、つぶやく自分に幼い頃の彼女はふにゃ、と笑いかけてきた。他人が飯を食おうが食わまいが、自分の腹が膨れるわけでもあるまいし、どうして、そうになって構うのかと疑問に思って顔を顰めて首を傾げた自分の袖を彼女が静かに引いて椅子に座らせる。
空っぽの胃袋はいつも何かを求めるようにきりきり、じわじわと疼くような感覚をもたらしていたが、今も昔も食欲と言うものとは殆ど無縁の生活だったような気がした。四人掛けのテーブルに三人座って見下ろした皿の上に置かれた拙い食事を見下ろして、特段何も響くものが無いまま、並べられたスプーンを手に取り口に運んでも、塩辛い、甘い、苦い、酸っぱい、なんて単調な感想が頭に浮かぶだけで胸は満たされない。それでも、様子を伺うように、上目遣いに真正面に座ってパクパクと食事を進める彼女と目が合うと、彼女は少し照れくさそうに、それでいて嬉しそうにふやけた笑みを浮かべて口を開いた。
『”          ”』
オレンジ色の光が部屋の中を染め上げて、黒い小さな陰がフローリングに落ちていく。鈴の鳴るような軽やかで柔らかな声が紡いだ言葉が耳を通り抜けた時、自分は返す言葉が思いつかなくて鈍色に光った食器に視線を戻したのだ。
「あんたは私をどうしたいの?」
「…さあな。」
頭の裏側に浮かんだ光景を掻き消したのは、丸く平たい皿の上に置かれた最後の一つのドーナツを見下ろす彼女の声だった。
意味のない行動に意味を求められても答えなど出せるはずもなく、蘭は答えを濁すように首を傾げた。
持ち帰った割にはほったらかしで閉じ込めることもせず、鍵もかけずに出かける自分の行動の心理は彼女にとっては理解しがたいものなのだろう。
鍵はいつでも開いていた。監視する人目も無ければ、金目のモノだっていくらでも置いてある。いつでも、どうにでも出来るのに彼女は此処を出て行かない。
五日前のようにふらふらとあてどなく彷徨うこともできたはずだし、姿が見えなくなったとて、その時自分が彼女を探して連れ戻すのか、それともそのまま普段通りの日常に戻っていくのかなどその日の自分で無ければわからない。例えば今日なら、多分自分は探しになど行かなかっただろうか。
いや、違うな。
「此処から居なくなったら、って思わないの?」
横目で蘭を見つめた彼女は得体の知れない正体不明の男に怖じる様子もなく淡々と質問を投げかけた。居なくなったら探すか探さないか、そんなものは卵が先か鶏が先かくらいくだらない問答だ。自分には彼女が此処から居なくならない確信が心のどこかにあったのだろう。
「アハハ、逃げられンのは逃げる先のあるヤツだけだろぉな。」
もう、どこにも逃げることができない。彼女の今を知った時自分がそう思ったのは、逃げる先など思いつかないから。逃げたところでどこまでもまとわりついて追ってくると気づいてしまったからだ。それでは行先も無く、帰る場所すら忘れた彼女が逃げる先だってもうどこにも無いのだ。行き先があるから人は歩けるものだから。
カラカラと声を転がしながら嗤って吐いた言葉は誰に向けて放ったものなのだろう。少し納得したように軽く頷いた彼女は、今日はやけに饒舌なのか、もう一つの疑問を彼に語り掛けた。
「イイ子の定義は?」
「……あン?」
「イイ子ってどんな子?」
虚ろな瞳が波紋を広げる水面のようにふらりと揺れる。ゆっくりと瞬きをする瞼の先の睫毛が静かに陰を落とす。
言われてみると生まれてこの方、一度も『善い子』だなどと言われたことのない蘭はその質問に明確な正解を見いだせなかった。
イイ子、ってのはどんな人のことを言うのだろう。
「大人しい子?」
「ああ。」
「優しくて、」
従順で、物わかりの良い?分かってるじゃねぇかよ。と、言おうとしたけれど天板に右手を置いたまま、次に手を伸ばさない彼女を見詰めているとそれを口にする気も失せてしまった。自分で言ったくせに、胡乱に伏せた目にはそこはかとなく諦めや自己否定的な感情が滲み出ていた。
「……あんたを困らせない子?」
もう一度、目を合わせた彼女の、こげ茶の虹彩に蘭は吸い寄せられるように顔を寄せて、じっとその目を覗き見た。無機質なように見えて細やかに収縮する瞳には小さな彼女の感情の機微が見て取れる。
自分を困らせない子。大人を困らせない子。そいつらが言う、善い子ってのは自分にとって都合が良い子のことだろう。だとしたら、今の彼女は自分にとっても竜胆にとっても非常に都合が悪くて手のかかる置物だ。部屋は汚すし飯は食わぬし、その上ぶっきらぼうな話し方というのは愛想の欠片も見つかりはしない。にこりともしない能面のような表情は死ぬほど可愛げが無い。けれど、そんな目で見つめられるのが、蘭はひどく可笑しくて腹の内側が擽ったくなり、頬が綻んだ。
そもそも、背丈の足りないシンクに目一杯につま先立ちで向かいながら、大人用の包丁で不器用ながら生の野菜を切り刻むなんて、非常に危険な行為で褒められたことでもなんでもない。実際何度か指を切って瞳を潤ませていたこともあるし、フライパンから炎をが吹き上がり、壁を焦がしそうになって竜胆と一緒に大騒ぎしていたこともある。
もしも大人が見たら噴飯ものであっただろうし、元々子供のころからコイツの行動は大人どころか子供の自分を困らせていた。それが、今更、『あんたを困らせない子』がイイ子なのかと聞いてくること自体おかしいだろう。
「困らせてる自覚があンなら床で寝るのは止めにしな。」
「…ん…。」
「イイ子だよ、お前は。」
右手を伸ばして小さな頭の上に手のひらを置くと、蘭はパサパサと傷んだ彼女の髪の毛を掻き乱すように撫でまわした。伸ばしっぱなしの髪の毛はところどころ絡まっていて手触りが悪い。
「重たい。」
彼女のそれよりも二回りも大きな手のひらは、細い首にはずっしりと感じられるらしく、彼女は亀のように首を縮こまらせると目を細めて顔を顰めた。
「……なにやってんの。」
じゃれつくように嫌がる彼女が面白くって、頭に乗せた手のひらの力を強めて遊んでいると冷め切った声が真正面から飛んできた。両手にカップを二つ握った竜胆が白けた顔でこちらを見つめている。
「なんでもねぇ~よ。」
「あ、そ。」
他所でやってくんねぇかなぁ、マジで。って顔にでかでかと書き、迷惑そうな表情を隠しもしない弟は左手に携えたカップをテーブルの上に置き、蘭の前に差し出した。
「どーも♡」
「次は自分でやって。」
「ヤダね。にいちゃんそーいうの向いてないモン。」
「嘘つけ。」
「人に淹れさせた方が美味いだろ?」
「……ホントマジそういうとこだよ。」
白い湯気を立ち昇らせたカップを受け取り、淵に口を付けながら、つ、と中身を啜るとコーヒー独特の苦みと熱が口に広がり、肩の力が抜けていく気がした。はあ、と呆れたようにため息を吐く竜胆は皿の上に置き去りにされたパンの欠片を大口開けて押し込みながら咀嚼する。中身がすっかり冷めてしまったのか、零れだしたチーズは軽く固まり、伸縮性を失っていた。
ふうふうと念入りに液面に息を吹きかけ始めた竜胆を横目に見つつ、蘭は隣の彼女に視線を戻す。片手の親指と人差し指でドーナツを抓んだまま、二人を交互に観察していたらしい彼女の手は空中で静止したまま、今度は蘭を凝視していた。
「…………?」
「…………。」
「なに?」
「なンだよ。」
静止した彼女の可笑しな挙動に疑問を抱いて、問いかけたのは多分二人同時だったと蘭を思う。
「別になんでもない。」
ぼんやりとした目つきの彼女は二人の声に、現実に引き戻されたように数度まばたきをして、ポカンと開いた口を閉じ、抓んだドーナツへ視線を戻す。ゆっくりと口元へ運ばれていくそれが開いた唇に付着する手前、蘭は骨ばった彼女の手首を握り、自分の唇へ引き寄せた。
「っ、?」
ぐわり、と口を開いて素朴な色味の油の塊に歯を立て噛み千切ると、じゅわりと油の滲んだ塊が甘ったるい香りと共に砂糖の味を口内にまき散らす。突然のことに目を丸くした彼女は、齧られ、毟られ、体積を縮めるそれが、姿を消すまで硬直したまま、蘭の横顔を見つめていた。
「不味い。」
口に充満する仄かな甘みは舌が痺れて胸焼けを催すには十分なほど、蘭には強烈に感じられる。ごくん、と粘り気のある塊を嚥下して、げ、と吐き捨てた時、ようやく彼女は自分の皿に視線を落として『最後の一つだったのに。』と子供のような恨み言を零した。
『珍し、』と自分の不審な行動に意外そうに呟く竜胆の声が聞こえる。
「食べないんじゃないの?」
「気ィ変わったワ。」
理解不能と言った様子で眉を寄せた彼女が独り言ちる。舌に残った味を掻き消すように再びカップに口を付けた蘭は、記憶の糸を手繰って、微かに残った記憶の端で彼女が放った言葉を思い出しながら目を伏せ小さく彼女に囁きかけた。
「”みんなで食べた方が美味しい”んだろ?」
おわり
出来たヨ
ちょっと悩んだけどこれで行きます。
お付き合いくださりありがとうございました♡
続きどうしようかな。
次回の話は唐突にスケベから始まります。
タイトルはね、「フィラメント」で行こうかなと。
今日は書くかわかりませんが、ここ全年齢対象の部屋なので一度閉じますね。
ありがとうございます。おかげで進みました
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202111062111
初公開日: 2021年11月06日
最終更新日: 2021年11月06日
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コメント
灰谷蘭のトロイメライの続きを書いていきます。
飽きたら寝る。