手首を使い、しなやかにグラスの中の酒を揺らせば芳醇な香りがふわりと立ち上る。そのまま美しい琥珀色を夜空に透かすと、硝子の中で丸い月がゆらゆらと形を変えた。
「うーん、一大仕事終えたあとのご飯はおいしいねえ」
伸びやかな声の方へ視線を移すと、上機嫌に笑いながらもぐもぐと食事を頬張るリンウェルがいる。
夜の宮殿のバルコニーにはテュオハリムとリンウェルの二人しかいなかった。ヴィスキントの街並みを一望できる絶景の場所を、独り占めならぬふたり占めしている。
眼下に広がる人々の営みの中に、露店や屋台の灯りがさざめいている。喧騒は遠く、ここには心地の良い静けさがあった。
今日のこの催しは、二人の夢だった展覧会が実現された祝宴である。出展物に添える解説文はリンウェルが頭を悩ませながら納得の出来に完成させた。テュオハリムも多くの人間を説得し、資金を集め、過去の文明を学ぶ尊さの啓蒙活動に力を入れた。
そうして行われた展覧会は成功と言って差し支えないほどの盛況ぶりだった。出自を問わず、多くの人間が遺品たちの声に耳を傾け、その当時に思いを馳せた。展覧会に訪れた人の一部から、研究員の一員として助力したいと申し出があったという話も耳に入っている。
そうして設けられた期間の中でも最終日を迎え、無事に閉幕できたのだった。
もし彼女と出会うことができなかったら。恐らく、考えもつかない夢だった。酒精を纏わせた思考はまさしく夢を見させてもらっているようだと耳元で囁く。
テーブル越しに座る当のリンウェルは、テュオハリムの目の前で無邪気に笑っている。料理を噛み締めながら「おいしー」と顔を押さえる仕草はあどけなく、こちらも釣られて笑みを浮かべた。
「満足してもらえたかね」
「テュオハリムが手配してくれたんだっけ?」
「ああ。宮殿のシェフに特別なコースを依頼したのだ」
次から次へと並べられた料理はテュオハリムから見ても壮観だった。シェフの意気込みを感じ取れる品々に二人で舌鼓を打ちながら、宵も徐々に深まっていく。このめでたき場にふさわしい美酒で喉を潤せば、唇も普段より滑らかに言葉を紡ぎ出す。
「君がいたからこそ、成し得た大事だ。リンウェル、君に多大なる感謝を」
グラスを宙に掲げると、彼女は苦笑を浮かべた。
「もう、大袈裟だなあ。それを言うなら、私だけじゃ展覧会なんてできなかったよ。テュオハリムのおかげ」
リンウェルの手には同じグラスが握られており、そして中には琥珀色の液体が揺蕩っていた。それがそっと丁寧に、色づいた小さな唇に運ばれる様子を見届ける。その仕草からは匂い立つような色香が感じられるというのに、「お酒、まだ飲み慣れないかも」と小首を傾げる様はあの頃とまるで変わっていない。
少女だと思っていたリンウェルと、ともに酒を飲み交わすことができるようになった。「徐々に慣れるものだ」と口では言いながら、その月日の流れを実感しテュオハリムは嘆息する。
「こうやって君と美酒に酔いしれることができる日が来るとは思わなかった。人生、何があるかわからないものだな」
「テュオハリム、いよいよお爺ちゃんみたいなこと言っちゃってるよ。まだまだでしょ?」
「どうにもしばらく隠居生活はさせてもらえないようだからね」
軽口を交わせばリンウェルは鈴を転がすような声で笑う。耳に心地よいその音色はテュオハリムのお気に入りだった。いつまでも聞いていたいとすら思えるほどの。
──ああ。ずっと、この時間が続けば良い。句を詠むためのふさわしい表現を見つける間もなく、心の奥底に浮かび上がったむき出しの感情にテュオハリムは密やかに笑う。理性も、現実的な思考も夜の空に放り出す。今だけは幼児のように、純粋な願いを胸に抱いていたかった。
煌々とした月明かりに照らされたリンウェルは光をまとっているようだった。ねえ、とリンウェルが囁きかける。
「ねえ、テュオハリム。わたし、テュオハリムに何かお礼がしたくて」
「お礼?」
こくんと頷いた顔にはわずかに緊張が滲んでいた。さて、と巡らせる思考は酒精のせいか覚束ない。真剣な表情を浮かべる彼女すら、澄んだシスロディアの空気を想起させて趣き深いと考えてしまう始末である。
「いったい、何のお礼を? 私には身に覚えがないのだが」
「何の、って言われたら悩んじゃうけど……いろいろ、ぜんぶ、っていうか」
リンウェルはたどたどしく言葉を続ける。先ほど言ったように、テュオハリムがいなければ展覧会は行えなかったこと、それだけでなく、研究室や事業を提供し委託し協力してくれたこと。
「頼ってくれて嬉しかったし、わたしの力を認めてくれているんだなって実感できたというか……」
「それは今更だろう」
そうなんだけど、といじらしく指を組む様子を視界に入れながらテュオハリムは首を傾げる。
「テュオハリム、ずっとそうやってわたしを認めてくれていたから。だから友だちになってくれたところからの感謝というか……」
「ふむ……」
「わたし、出会った頃はレナ人だからって感じ悪かったでしょ? それなのに、アウメドラと対峙した時に迷うことなく友人だって言ってくれたのも、あの時も本当に嬉しかった」
リンウェルは事あるごとに「テュオハリムの言葉のおかげでレナ人だからっていう壁を壊せた」と口にする。繰り返し伝えられる謝意はテュオハリムにとって面映ゆいものだったが、光栄でもあり、身が引き締まる気持ちにもさせた。
だからさ、と窺うように、上目遣いでリンウェルはこちらをひたむきに見つめてくる。
「なんだか、テュオハリムの存在そのものに感謝しようって、最近よく考えるの。……展覧会が終わったら何かお礼をしたいって思ってた」
「……なるほどね。君の言い分はわかった」
テュオハリムはわざとらしく、鷹揚に頷いて見せる。グラスを傾けようと視線を向ければ、いつの間にか底をついていた。もう一杯を注ぐのは後からだと考えて口を開く。
「しかしそれを言うならば私のほうこそ、……と。そう返すのは無粋かな」
「それは無粋だよ」
片目を瞑って肩を竦めると、リンウェルは楽しそうにころころと笑う。真剣な、繊細で美しい造形が際立つ表情も良いが、テュオハリムはやはりその目元が嬉しそうに綻ぶその顔が好きだった。
──願わくば、ずっと。その顔を隣で見ていたい。酒で湿った唇は自分が思うよりも滑らかだった。するりとこぼれ落ちた本音を拾い上げたリンウェルは、驚いたように瞳を丸めた。
「そ、それは……どういう……?」
「お礼を、と言ってくれるのであれば。……そうさな、リンウェル。私は君がほしい」
「わ、わたしぃ!?」
素っ頓狂なリンウェルの声が煌びやかな夜空に響く。しかしその声を咎めるものはこの場にいない。ともすればひええと叫び出しそうになるリンウェルに「落ち着きたまえ」と嘯く己の声は、ひどく愉しげな色を帯びていた。
「お礼をしたいという話は無しになるかね?」
「いっ、いや……無しにはならないけど……」
頼りなさげに見上げてくる今宵の月を同じ色をした双眸を見つめ返して、テュオハリムは小さく微笑む。目の前の赤らんだ顔と潤む瞳は目に毒だが眼福だとも言う。普段はひた隠しにしている本心も、月にならば暴かれて良いのかもしれない。
「先ほど言ったように、今回の展覧会を開催できたのは紛れもなくリンウェルの助力があってこそだ。しかしながら、これからも同じようにできるとは限るまい。そう考えると口惜しくてね」
あ、なるほど良かった。拍子抜けしたように呟いた声のことは気にせずテュオハリムは続ける。
「そしてやはり、君との時間は何にも代え難い。文明や歴史を感じさせるものについて語らう時間は何よりも有意義だ」
うんうんと頷くリンウェルの表情は穏やかだった。先ほどまでの慌てぶりが嘘のように、落ち着いた仕草でテュオハリムの声に耳を傾けているようである。さらりと落ちた髪を耳にかける仕草が妙に目に付く。
「それだけでない。君の可憐な微笑みを側で見続けたい。君の鈴を転がすような心地よい声をずっと聞いていたい」
──はっと、息を呑む気配がした。横髪に添えられた手は動きを止めた。それに構わず、君の隣に居続けられる確証がほしい、そう言い切ってリンウェルの顔を正面から見据えれば、彼女は「ひぇっ」と短く悲鳴を上げて両手で顔を覆った。
「……ということで、お礼をしてくれるのならば君がほしいというわけだ」
「…………、それは……あのう……わたし、テュオハリムに口説かれてる?」
ややあって、指の合間から覗くリンウェルの瞳と視線がかち合った。「そうとも言うな」と返せば飴色の瞳は指によって隠される。
「あの、でも……わたし、テュオハリムよりずっと年下で、子どもで……わたしじゃ飽きるかもしれないよ」
「それはないな」
「酒も飲めるようになったのだから子どもではなかろう」と疑問を口に出すと「そうじゃなくて」とか弱く反論する声がある。
「えっと、その……テュオハリムは、わたしが好き、なの……?」
おずおずと差し出された疑問に「そうか」とテュオハリムの中で何かがストンと落ちた。己が一回り以上年下の友人に執着する理由と、彼女が困惑する理由。なるほど、確かに空気が読めていないと散々言われてきた己である。年甲斐もない鈍い振る舞いに、自分のことを知っている者からは呆れられるかもしれない。いや、美酒に酔ったせいだとしておこう──
ともあれ、私がリードをしなければならなかったな。自嘲を含めて呟くと、リンウェルは顔を両手で覆ったまま頭上に疑問符を浮かべる。
「本当に情けない話なのだが、私は君のことが好きらしい。……いや、愛している。そうだな、その言葉のほうが馴染む」
「……」
「うぐぐ」と奇妙に呻く声が耳に入るが、リンウェルはそれ以上は何も言わない。
「私のような人間が、清らかな君の側にいる権利はないのかもしれない。それでもどうか」
許してほしい。そう続けようとしたところで、リンウェルはハッとしたように顔を覆っていた手を胸の前に下ろし、「違う!」と声を上げて両の手を握り合わせた。
「違うの、違う。テュオハリムが、わたしの側にいる権利があるとか無いとか、そういうのじゃなくて」
「……」
「その……ただ、戸惑っていただけなの。テュオハリムが、わたしのことをそう思ってくれていただなんて、知らなかったから。だから、あなたのことを拒否しているわけじゃなくて」
恥ずかしいんだけどね、とリンウェルは空になった平皿に視線を落としながら囁く。
「わたしにとっても、テュオハリムは大切な人だったから。そんな人に求められるんだから、嬉しくないわけない。それにね、」
リンウェルの視線はこちらに向けられることはなかったが、少しだけ大きくなった声は確かにテュオハリムの耳にも届いた。
「テュオハリムが、たとえ誰かの側にいる資格がないって思っていても、それでもわたしと一緒にいたいと願ってくれたことが本当に嬉しかった」
その声を聞き届け、テュオハリムの胸にじわりと込み上げる熱がある。自分にもたらされた変化に、今度はテュオハリムのほうが目を見開く番だった。
──そうか、己は、自分の罪を飛び越えてまでも抱える情熱があったのか。
「ただ、あの……お返事については保留させてもらっても良い……? ちょっと時間がほしい……」
夜闇の中でもわかるほど耳を赤くさせ、そうしてしぼんでいった語尾。大人になった彼女は、それでも自分の知るリンウェルという人間だった。
ああ、目の前の存在が愛おしい。この感情はどうしたら良い?
遺物との邂逅とも異なる胸を占める熱に、テュオハリムは嘆息する。どうか、どうか。目の前の彼女も同じ熱を抱いてくれたら、と願わずにはいられない。
年齢だけ積み重ねた、隠居したいなどと嘯く己が、今は情けなく思いはすれど、嫌ではないと思えてしまう。これだけの強い気持ちを抱ける自分が、今はだた嬉しかった。
「……私はいつまでも待ち続けよう。リンウェル、覚悟したまえ」
「ひええ」
そうやって再び奇妙な悲鳴を上げた彼女と、ようやく視線が合わせられた。
琥珀色の中で揺蕩っていた月のように、リンウェルの目に鮮やかな瞳もきらきらと光をたたえて美しく揺れていた。
おわり