成人男性の低くて美しい声の大笑いがリビングに響く。
笑い声の主である似蔵は目尻に涙すら浮かべており「そこまで笑わんでもよかろう」と笑われている万斉は苦虫を噛み潰したような顔で焼酎をちびりとやる。
その焼酎に酔って口を滑らせなければ彼がこんなにも笑われることもなかったのだが。
現代人類が直面したことのない感染症による世界的な大混乱にそれなりの危機は感じたものの、『あの世界』で病も文字通りの修羅場も乗り越え生き抜いた二人はある程度仕方ない事だと身を守ることを優先しこの二年近くを過ごしていた。
病の恐ろしさを誰よりも知る似蔵はいち早く在宅業務に切り換えられるよう勤め先と交渉し、治療薬開発など見通しが立つまで主軸を在宅業務にすることを取り付けた。
この状況になる一年程前から彼と同棲を始めた万斉も似蔵に『この世界』でも病で苦しい思いをさせる訳にはいかないとバックギタリストとしての活動はセーブして楽曲提供やアレンジ業の仕事中心に切り替えていた。
もちろんそれなりの貯金額や信用があったから可能なことであり、そこは二人とも「運が良かった」とTVニュースで伝えられる困窮や混乱を目にする度に考え『あの世界』で苦しんでいた人々のことも思い出し数回だが多少の寄付を行なっている。
生活圏は大きく縮み似蔵の趣味である写真撮影を大きな目的とした旅行もとんとしていないが、季節それぞれの辛さを解消してくれる家電で快適に過ごし旬のものでも食べられればそれだけで案外幸せは簡単に手に入るものだ。
その場所に相手がいるからより強く、というのが気恥ずかしくて認められないほど二人の心は青くなかった。だからこそ今更伝えるのもどうかと心にしまったままの話も、少なくとも万斉にはあった。
それが漏れ出てしまったのが大笑いの原因という訳である。
普段より少し時間を要した万斉の仕事が終わった事への労いも込めて似蔵が買ってきた食材で作った寄せ鍋を二人でアルコールと共に楽しみ、後片付けまで終えた頃に心ばかりのお礼にと万斉が取り出したのが件の焼酎である。『あの世界』では日本酒を嗜んでいるところしか見かけなかった似蔵だが『この世界』では色々と思い出す前から飲酒をしていたこともあり様々な酒を楽しんでおり、先日知人から貰ったフルーツのような香りのするという焼酎もきっと喜んでくれるだろうと万斉は考えていた。
予想通り二人での晩酌は進み、夕食時にアルコールを摂っていたこともあって一時間も経つと互いに上機嫌となっていた。
そういう時にこそ人間の口から普段心に隠しているものがまろび出るものであり、頬を紅くした万斉の口から溢れたのは『あの世界』の今際の際に隊士達と共に似蔵が現れてくれたこと、自分の得物を拾い上げてくれたこと、それらに対する純粋な感謝の言葉であった。
溢してすぐにそれがとても相手に聞かせるものではない事に気がつき顔が青くなったが覆水盆に返らず、伝えた瞬間はポカンと効果音が浮かぶような表情をしていた似蔵もすぐに表情を変えた。口を大きく開いた笑い顔に。
そうして冒頭へと戻る。
悔しそうでもあり恥ずかしそうでもある万斉の顔を眺めれば眺める程どこか微笑ましさのようなものからくるおかしさが絶えず笑い続けてしまいそうになる似蔵だったが、流石にこのままでは万斉が拗ねかねないと一瞬顔を逸らして呼吸を整えてから自分も焼酎を煽り飲み込んでから「あんたのそんなタイミングに俺なんかを登場させてもらえるなんて光栄だよ、そこはあの人じゃないんだね」と口に出した。
「晋助を進めるために残ったのだから当然だ」と万斉は即答した。
「確かにまだ生きてれば俺もそこを選んでたろうね」
「そうならば同じ地点でなくより後方を頼んでいたさ」
「言うねえ」
何となく相手のペースが戻ってきたように感じると似蔵は続けた。
「…あんなにあの人の光に釘付けになっていた俺を想うのは辛くなかったかい」
「最期はそうだったが想っていたかどうかは正直分からぬ、ぬしの音は殊更珍しいものであったが気に入った音は幾つもあった」
「その音っていうのとは別の見方で気に入ってくれてたりしてね」
頬も紅くないし本人はほぼ気づいていないが似蔵も存外酔っている。だが万斉もそれを気に掛けられないくらいには酔っていて「そうかもしれぬ」と素直に返してしまう。
似蔵にとってそれは決して心地の悪い返事ではなく、気を良くしてそれに応えた。
「俺もあんたに関してはよく作ってた曲みたいなチカチカするが見てて心地悪くない明かりだなって思ってたよ」
「ほう」
「だからそんな曲を今世でも作ってくれてたから、それを聴いたから俺は全部思い出せた」
顔なんか知らなかったしそこは感謝してる、と言ってテーブルに置いてあったあたりめに手を伸ばした似蔵の言葉に万斉は言葉を失った。
手に取ったあたりめを齧っていた似蔵は向かいの話し相手があられを掴んだまま十秒ほど停止している事に気がつき、どうしたんだい?と声を掛けた。
「それ初耳でござる」
「え」
「ずっと教えてくれなかったきっかけがまさか拙者だったとは、想像もつかなかったがこんなに嬉しいことはない」
そう言って誰もが心をときめかせてしまうような、でもだからこそ似蔵はあまり見慣れていない笑みを万斉は浮かべた。
その笑みで似蔵は自分が先程の万斉以上に言わないでおいたことを口から溢してしまったことに気がつき、アルコールでも紅くならなかった頬どころか顔や耳まで紅くした。
「冗談だよ冗談、スプラッターもの観に行った時に思い出しちまったんだよ」
なんて嘘を吐くも
「昔から見飽きた感じがして興味なかったって去年聞いた」とすぐにバレる。
自分は大笑いしたんだし笑い飛ばしてくれた方が恥ずかしさも小さくて済む、似蔵がそう思うのに反して万斉は「聞けてよかった、ありがとう」なんて感慨深そうに言い出した。ムードから言って手を握られかねない。
相当酔っている相手と酔っていた自分の言葉に頭を抱えたくなった似蔵は今後は飲まれてやるもんかとでも言うように紅い顔のままグラスの残りをぐいっと飲み干した。
終