はたから見ればなんてことない週末の金曜日、やたら広い空間をとっている本部長室の扉がノックされて僅かに心構えた。背後のガラス窓へブラインドを下ろし終わりもう一日の区切りを付けようという時になって急ぎの用件が滑り込むことは、いってもそう珍しいことではないから今日もそんなものだろうと日付を越える覚悟を決めたのだが、そんな予想とは裏腹にいかにもこれから帰宅するような格好の顔なじみが入ってきたのには驚いて手が止まった。ドラゴンエンパイア支部を任されているその男が本部に来ていることは珍しく、協会全体の催しなどもない今は職場で顔を合わせることがほとんどないはずだった。見られて困るようなものを片付けて迎え入れると珍しく爽やかな顔色をしているから拍子抜けしてしまう。
「伊吹くんお疲れ。そこで聞いたけどもう帰るところなんだろう?」
「あぁ……この後は用事があるんだ。飯なら連絡を入れてくれれば良かったんだが」
「いやぁ違うんだ。ちょっと話せればって思っただけでさ。会えなかったら会えなかったで良かったんだよ」
「はぁ」
応接用のソファに腰掛けるでもなく話を続ける様子を見るにほんとうに些細な用事らしい。前置きが長いタイプではないのでさっさと本題に入るだろうと思っていたが、こちらの手元を見遣った安城マモルは用意していた言葉を失ったようで「ええと」明らかにうろたえる。
「……なんだ」
「…………伊吹くんはクロノくんが帰国することは知ってるんだよね?」
「まぁ、連絡はあった」
「日程も?」
「今晩だろ。今空港に着いてるくらいだな」
数週間前に件の人間から送られてきたメッセージを思い浮かべてその情報をなぞる。出会った頃……いやこちらが一方的に彼を知った頃には無気力に生きていた少年はいまや夢を目指して海の向こうまで飛んでいる。安城と関わりを深める一因にもなった彼のことは酒の席で度々話題に上がるからこの2人きりの場で出てもおかしくはない。
だからだろうか、あからさまにマモルの表情が硬くなっていることへの言及は避けられそうになかった。
「今日に限って……わざとかい?」
「心配性だな」
胸元を探ればわざとらしいくらいに安堵のため息をつかれて「あんまり意地悪しちゃダメだよ」などと窘められる。タチの悪いことをしてる自覚はあるので特に反論はしなかった。
クロノが努力の末に学士を取れたことは帰国の話よりも前に耳にしていた。大学卒業を報告した文面は文字だけだったけれどそれなりに大変な過程があったことが窺えたしあわせてそのまま研究のために進学することも知らされたからその準備に慌ただしくしているだろうと思っていたので、帰国の予定を聞いたときは少しばかり驚いた。そして胸の奥にしまっていた物に熱が灯った感覚を覚えたのだ。
クロノが渡米してから4年の間クロノと伊吹はほとんど連絡を取り合っていない。正確に言えば顔を合わせる機会はあっても海を越えたやりとりは皆無で帰国を知らせたメッセージの一つ前は数ヶ月遡った時刻に卒業の話が出たしそれよりもっと前のものは年単位で履歴がなかった。元々用もないのに連絡をするタイプでは無かったから何か来たら返してやろうというくらいしか思っていなかったが、その「何か」すらなかったのがこの4年間だった。
数奇な運命で絆を結んだとはいえ可能性広がるこどもの世界の中での自分は徐々に端に追いやられていくのだろう……と思っていたのは初めの2年。希薄になっていくと見据えていた伊吹とクロノの関係に改めて鮮やかに色を乗せたのは他でもないクロノである。保護者としてクロノを監督する立場にあった新導ミクルが結婚をしたのがクロノの成人の年と重なったのはおそらく偶然ではなかったのだろうがおかげでそう時期を外れずに「約束」を果たしこれまで背負ってきた物と腹に抱えた思いを知りたがった相手へ伝えることが出来た。そしてその時、新しい「約束」を取り付けられたのだ。
あの時のことは今でもハッキリ思い出せる。そんなことがあっていいのかと憂う反面それが一番俺たちに合っていると強く納得する気持ちもあった。ただ肝心の提案者からは応えを返す前に拒絶されて、夢を追うにも自分と向き合うにも今は中途半端過ぎるだなんて言われてしまったから、押し付けるだけ押し付けてまた海の向こうへ戻られてしまってもこちらから連絡を取ることははばかられた。それでもそれまで心に薄く積もっていた諦めが払拭されただけで大きい変化だったんだけれど。
とにかく目を向けるべきはこの先である。何も連絡を寄越さなかったクロノから日本に帰るという話をされて、その日がやってきた。まだ夢を叶えたとは言えないまでも一つの区切りが付いたということだろう。伊吹とクロノの関係に進展が来るのだ。
この週末は三連休というのもあって協会のあちこちの支部でイベントが開かれているが本部に特別絡むものは無いことを確認して全て空けてある。どこにクロノと会う予定を入れても問題はない。あとはクロノ本人からのコンタクトさえあれば伊吹の休日は完成する。
……連絡を、してくると思ったのだ。部屋の前に佇む見慣れたようで新鮮さの強い後ろ姿を目に入れるまでは。
「あ……」
振り向いた顔は記憶の中のものよりも精悍さが加わっていたけどどこか緊張した面持ちでもあって、半開きの口からまともに音が出てない様子と合わせてこちらにも緊張を強いてくる。「とりあえず入れ」とだけしか言葉に出来なくてそれに返ってくる反応もあまりはっきりしたものではなかったから身体が固くなるばかりだった。
扉に鍵を挿す間に横を覗きみれば最後に会った頃よりも体格がしっかりしているように見える。肩に提げているボストンバッグも横に添わせているスーツケースもおそらく航空機に持ち込める中で最大の容積なもののようだがあまり、
夢への道を着々と進めているらしい。
「……あのさ、俺やっぱ出てったほうがいい?」
「ここまで来て放り出すか。これだけの大荷物をどうするつもりだ」
「別に、探そうと思えばどうにでもなるし……」
お互いろくに口も開けないまま部屋に上げ諸々の荷物をまとめたあとにやっと出た言葉が退去の申し出なものだからつい語気が強くなる。
「いろ。ここに」
とにかく話だ。平日を終えて溜まった倦怠感は抜けていないが会話ぐらいならどうということはない。何より相手があの新導クロノなのだから。
あまり人を上げることが無い家だが稀に櫂や三和あたりの人物を迎えることがあったおかげでどうにか用意があったリビングテーブルに向かい合わせに体を収める。クロノはこちらにあまり視線を向けない。部屋の前で顔を合わせたときは緊張しているように見えたが今はもっと、なんというか、暗い。何を喋ってもいないのだけどこんなだんまりな様子は珍しい。そんな態度はどちらかというとクロノと相対するときの自分に見られるものだったはずだ。なるほど、確かにこうしていかにもな様子を見せられるとその心に抱えるものを引きずり出したくなるらしい。さてどこから切り崩してやろうかと眺めていたらそんな視線に気づいたのかクロノは机の上に放り出していた腕を身体に引き寄せ、拳を握った。
「なんで隠す」
「いや、だって……」
左手を右手が覆う。見えていたものが見えなくなる。クロノは今間違いなく無骨な左手に小さく輝きを与えていたものを目の届かないところに隠した。
22歳の指に嵌っているには少々早いものと揃いのものを伊吹は持っている。2年前、帰国間際にこの部屋を訪ねてきたクロノに渡されたシロモノだ。あの時はこうやって客人を迎えられるようなものも無かったからちょうどクロノが座っている後ろ側、玄関廊下を抜けた扉の前でお互い立ったままになめらかなベロアの箱を開けられた。友達と言うにはちりついていて仲間と言うだけでは物足りないような距離をいっそ縮めてしまいたいのだと言ったクロノは中身をしかと見せたあと箱ごと握らせてそのまま部屋を出ていってしまった。余計な装飾も彫り込みもなく至ってシンプルなデザインのリングは急ごしらえだと言っていたのに自然とぴったり伊吹の指に納まって、伊吹とクロノを結びつける全く新しい、
「」
「……あ、」
……わすれていた。ほんとに、うっかり。
「マモルさんが、もうずっと着けてるって、外したところみたことないっていってたから……でも今ないってことはそういうことだろ」
「……いや、違うんだ」
今度はこちらの声が小さくなる番だった。胸元に揺れるものはもう半日肌に温められていてぬくいくらいだったから全然気づかなかった。だってまさか自宅に来るとは思わなかったから、色々頭からすっ飛んでいたんだ。
「……はぁ!?」
「待ちぼうけを食わされた意趣返しだったんだがわすれていた、すまない」
「おい!……ちょ、…………もう!なんなんだよ!!」
指輪と馴染むチェーンに通したネックレスを引き出して目の前に出すと大きな声を上げてから呆れたため息がおおきくひびく。今度こそほんとうに知っている顔が見れた。「確かめるか」と聞けば小さく唸ったあとに「……一応」と返されたから首から外して素のものを広げられた掌に渡す。けれど特段何かを疑ってるわけでもないらしく自身の左手にほんの少しの間添えて見比べただけで満足したらしく、すぐに差し出した。伊吹がその拳を押しやって「嵌めてくれないか」と頼むと眉をひそめられる。
「外したのはあんただろ……んで俺が」
「元はお前が俺に寄越したものだろう」
「……へーへー」
渋々といった様子で手のひらを取るクロノの手に嵌っているリングは改めてみてもやはり伊吹のものをそっくりそのまま写しているもので、間違いなく揃いの品である。自然と口角が上がるのが自分でもわかった。2年前は飛行機の時間が迫っていてろくに確認も出来なかったのだ。
すらりとした伊吹の指にリングを嵌める前に少しばかり悪戯をしているクロノはぐるりと薬指の根本を撫でた。撫でられた伊吹もわかるくらいの凹凸をなぞっている。
「……よくみたらちょっと跡あるじゃん」
「ずっと付けてたからな」
「でも俺に会うから外してたって?性格悪ぃぞ」
「恋人の戯れだろ。許せ」
「こ、いびとなんて、いつなったよ」
「この指を埋めて、将来を約束しておいてそれを言うのか?中々酷いやつだな」
「そりゃっ…………年単位で連絡取らないで恋人は無いだろ」
「お前が学業に集中したいと言ったんだぞ」
「ぐ……」
「おかげでこの輪っかが俺の拠り所だった」
言葉を返せなくなったクロノによって無事にいつもの場所に収まったリングをこんどは伊吹の右手が撫でる。至ってシンプルなデザインのそれはこの2年間のどんな時でも伊吹に寄り添っていたものだ。
「アンタ、意外と俺のこと好き?」
「そうでもなきゃここに嵌めたりしない」
「もっと手強いと思ってたんだよ」
「うん?」
「アンタ。好きって言ってすぐ応えられる奴じゃないだろ。ただでさえ留学決まってバタバタしてたのに、」
「待て、いつだって?」
「アメリカ渡る前のことだよ」
「……随分前だな」
「俺がアンタとのこと中途半端にしたくなかったんだ」
「必死で頑張ったけどさ、やっぱあんまり頑張ってこなかった分の遅れを埋めて、その先のことも補いたくて……ってなるとどうしても片手間になっちまうから、とにかく一旦はそっちに集中したかった」
「で、うん……なんつーか、あっちで忙しくしてたら、まぁちょっとは、落ち着くわけじゃん。そしたらあんたの事を考える余裕も出来て……出来たけど、別に連絡とってるわけじゃないし、マモルさんからの又聞きになっちゃって、ほんとはどうしたいんだろうって思ったりもした。結局、目の前にいないのに考えてもしょうがねぇってなった」
「20歳で戻ってきたのがでかかった。約束、話、色々聞けて……でも終わってみたらもう俺とあんたを繋ぐものがなんもねぇことに気づいて……すげぇ焦って、そんでやっぱり、俺はアンタが好きなんだって改めて思った。」
「それで指輪に」
飛躍していた自覚はあるんだろう。思わず指摘してしまった伊吹の言葉には反発するでもなく少し口をとがらせるだけだった。
「ちょうど良い区切りだから、俺も俺の中でやっとやりたいことが決まったから、帰ってきたんだ」
「そして夜中に押し掛けるほどの自信があったと」
「う……そりゃ、ザワついて支部勤めのマモルさんの耳に届くくらいのことになってりゃちょっとは期待するだろ」
度々名前の出る安城マモルがクロノの情報源だったらしい。本人に連絡を取ることは出来なかったのにそちらの根回しはしていたのは些か矛盾しているようにも思えるが伊吹とてクロノの近況は安城マモルが妹から聞かされたという話を又聞きしたもので賄っていたからイーブンではあるのだろう。
「……正直、死ぬまで待たされることもあるかと思ってた」
「はぁ!?」
「"区切り"なんて曖昧な言葉だけで伝わるわけがないだろ。今のお前だってまだ夢の途中なんだから」
「……あー」
「大学を出たら?候補生になったら?宙まで飛べるようになったら?……目指す場所にたどり着いてから?どれがお前の言う区切りなのか察しかねる」
「待たされるばかりというのはこちらが何も出来なくて焦れったいものだった」
「……わりー」
「でもおかげでお前のことをずっと考えていた」
クロノは本人がいなければダメだったと言うが伊吹は別の質だった。@もう10年も経ったが未だに心に澱むものは消えていない。きっとこの先もずっと抱えることになる。これは俺の生き方と切って離せない感情になっているんだろう。きっと、これを受け止める人間でなければ俺は隣に人を選ばないんだ。だからといってそう簡単に打ち明けることもないし、したいと思ったこともない。
何も知らないままで俺を信頼したお前に話したことは
「お前が良い。この2年間はこれをお前にまっすぐに伝える準備をするに十分なものだった」
「じゃー色々ちょうど良かったな」
「結果論だ。何も言わずに待たせ過ぎだぞ」
「あんたもちょっとは確認するとかしろよ」
「集中したいと、」
「…言ったのは俺だけど、さすがに丸1年四六時中忙しくしてるわけないだろ?」
「ぐ……」
「出来るけどしなかった。……俺のこと考えてるだけの時間も悪くなかったんじゃねぇ?」
伊吹からクロノへのいらえはない。肯定を
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初公開日: 2021年10月16日
最終更新日: 2021年10月21日
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