わたしたちの失敗
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 輪郭が爛れる。色彩が離れる。線と色が縺れあって、絡みあって、あ。冬の真夜中。
 一葉の絵が映る。
 星明かりがひとすじ射しこむ銀世界を、どこかでいつか、見たことがあった。夜に外を出歩いていたのなら、スケート教室の帰りだろう。焦って、くやしくて、泣いて、どうしようもなくかじかんでいた、高校生の自分。大嫌いな日々の記憶。
 繊細な風景画をひととき覗きこむ通行人みたいに、俺はさだまらない視点で、その人の面貌を見ている。照明があるのに、表情が分からない。これは誰だ。今しがた俺に口づけた彼は。
「どうしてこんなことをされるのか分からない、という顔をしているね」
 ひとかけらの雪が落ちたようなさりげなさからか、他の理由からか、接吻を授けられた唇に熱は宿らなかった。むしろ冷えていくばかりに思える。死人にキスをされたような感覚。どうしたんですか。やめましょう。どれもこれもかたちにならずに霧散してしまう。なにも残らない。背骨がなくなってしまったみたいに、俺は、カーペットをひいた床の上にへたりこんでいる。慣れ親しんだ自室の、本棚の前にうずくまって、その人を見上げる俺。既視感。いつかこんな光景を見たな。でも、こっちの絵は思い出せない。
 両肩をつかまれて押し倒される。ついさっきふたりで読んでいた本は床に落ちたまま。ひどく揺れた視界の右端、彼の細く白い腕が檻のように刺さる。左頬に体温。
「へえ」
 触れてきた手を弾いた、と自分で自分のしでかしたことに気がつくまで、数秒かかった。
 さっと血の気が引いた俺に構うことなく、彼ははたかれた右手をしげしげと眺めている。喉が乾いている。どうしよう。なんて弁解しよう。とめどなく乱れていく思考の動力は、彼のてのひらに浮かんだ赤い痕を目にしてすぐ、ぷつりと電源を落とした。
「ごめんなさい」
 そう口走るしかなかった。そう、言う外になかった。だって俺は、この人が俺にしてくれることなら、なんだって嬉しい。
 舌打ちが聴こえて、胸の底が冷える。まただ。抑えのきかない焦燥に駆り立てられる。また俺は彼にかける言葉を間違えた。彼に返す行動を間違えた。泣きたくなる。だけど俺が泣いてしまえば、この人は困ってしまうだろう。だから泣かない。不機嫌に伸びてきた右手を、今度こそ拒まずに受けいれる。
 火花が散ったかと思った。
 さっきはどうして拒絶したのか、自分で自分が分からなくなるほどの快さが、彼の触れている片頬から体じゅうに巡りはじめる。だけどどこかで冷えきっているのは、たぶん、現実味がないからだ。幸福な明晰夢を見ているときのようなもの。どんな幸せも目覚めてしまえば消えてしまうと分かっていて、だからそのときそのときは思いきり夢を味わう。まぶたを下ろす。だからこの、どこかで冷えきっていく俺の一部は、きっと嘘だ。
 しばらく、なにも起きなかった。衣擦れの音さえなかった。待ちわびた俺は目を開ける。彼が誰かだなんて、間違えようもない。そこにいる。夜鷹さんはそこにいる。俺の人生を変えた、夜鷹純に、頭上から見下されている。
 遠く落とされる声。
「……気持ち悪いんだよ」
 実際に俺は幸せだった。かつてないほど。
 いのりさんが狼嵜選手に競り勝って念願の金メダルを獲ったとき、一生に一度味わえるかどうかの幸福を手にしたのだと思った。今でもそう思わないわけにはいかない。ぜんぶが報われたと思った。十四歳から今までスケートに賭けてきたすべてに意味があったのだと、疑いようもなくそう思えた。過去が消えるわけではけっしてない。選手としての俺は、あくまでも凡庸なスケーターだ。
 いのりさんの才能に便乗して、おのれの無念を晴らそうと思っていたわけではない。だけど結果だけ見ればそうなった、と言われたら、今の俺には否定できない。
 だって、夜鷹さんが俺を認めてくれた。こんな俺なんかを。初級のバッジしか持っていない。シングルアクセルまでしか跳べない。男子シングルの選手になることさえかなわなかった、その資格さえなかった、スケーターの一端くれである俺が、夜鷹さんの視界に入った。
「僕は、君のスケートに覚えがある」
 表彰式。仲睦まじいふたりのメダリストを、リンクサイドで
 いつみられていたのだろう。心臓が止まったかと思った。
「君のスケートを世界で一番よく知っているのは、きっと僕だろう」
 舞い上がった。
「違うの?」
 そうです。だって俺は、ずっと。ずっと貴方を見ていた。声にならなかった。泣いた。それが答えだった。
 気持ち悪い。俺が。ぐるぐるまわる。吐き気がする。
 ひとつひとつのしぐさが、ずっと見ていた映像のそれに重なる。伏し目がちになったときの陰りが、演技のはじまる前。俺の見ていた動画では一分六秒。
 体温は知らなかった。彼はこういうことに慣れていない俺が見てもそうと分かるほど、それに慣れていた。
「勃たないね」
 彼はうんざりするように言った。そのとおりだった。
「どうしてこんなこと」
「暇だから」
「俺の大切な人のからだを安売りするのはやめてください」
 俺たちの間にはそんなものは必要ないのに、と思った。俺は彼を抱く気にはなれなかった。尊敬してきたひとを性的にどうこうする気にはなれない。そもそも俺は男性のなかではそういう感情がわりと希薄なほうだ。
「そんなことを言ったら二十歳以降の僕の体はもう値札さえつかないだろうな。お好きに使ってください、で終わりだろうね。君にとってもそうだろう。なら恭しく受けとればいい」
 正気を疑う。理解できない。涙がにじむ。
「貴方にとっていらないなら俺にください」
「……俺は貴方になにができるんですか。貴方は、俺がなにを言ってなにをしても、身をかわすだけだ。なにだったら受け取ってもらえますか」
「しようとできるの?」
「どういうことですか」
「君が僕になにかをしようとできたんだって驚いただけ。司は優しいね」
 どうでもよさそうに彼は言う。
(司をもっとも傷つけるための方法としてセックスがある)
 それがいつはじまったのか、はっきりとは覚えていない。たしかお互いの生徒が同じ大会に出て、練習をして、そのあとたまたまリンクの外で鉢合わせたのだと思う。
「すごい」
 俺は彼と狼嵜選手の演技を見てずっとそう言っていた。
 彼は煙草を吸っていた。そのころすでに俺は彼が引退した理由を知っていた。浮かれていたのかもしれないけど、驕っていたとも思えない。俺と会ってから、夜鷹さんの煙草の本数は減っていた。
「お体に悪いですよ」
 声をかけた。
「長生きしないと」
 言い添える。
「そうだね」
 そしてじぶんのてのひらに煙草を押しつけた。
 彼は俺を見ていた。表情は変わらなかった。そんなことよりももっとずっと痛いことがあるとでもいうように。
 あわててペットボトルの水をかけようとしたとき、彼は俺の手を払った。
「夜鷹さん?」
 はっと表情が変わる。
 言わなくてもあきらかだった。焼いた痕が見える。見せつけるようだと、故意なのかもしれないとおもっても、どうしてそんなことをするのかわからない。
「もう二度とあんなことしないでください」俺はその手を撫でる。
「どうしてもしたいなら俺を焼けばいい」
 肌に噛みつかれる。痛い。痕になる。(でも司はしない)
「君は血を流さないんだろうな」
「まさか。それは貴方の方でしょう」痛いなんて顔をしない。溜息。煙草を取る。吸う。とめていいのかとめてはいけないのかももうわからない。
「帰る」
「待って、どこに行くんですか」
「どこでもいい」
「行かないで。じぶんでする。じぶんでします」
「じゃあやって。見ててあげるから」
 夜鷹さんは俺に感謝してくれた。キミがスケートをしてくれてよかったと言った。意味があったんだなと言った。しあわせだった。こんなことがあっていいのかとおもった。大会が終われば、お互いの生徒の指導にもちろん差し支えない程度だったけれど、コーチとして何度も話をした。
 いつかいっしょに住んでみたいです。酒が入ったときはそんなことまでいって。彼は下戸だったからなんて言ったのかもおぼえてない。夜鷹さんさえよければですけど。いっしょに住みませんか。ただ、だいすきです、尊敬してます、そんなことを馬鹿な思春期の子どもみたいに、喚いていた。
 とりとめのない話もたまにした。
 そうして次の瞬間には俺を責めた。彼の嵐のような情緒がどこにいくかは分からなくて、俺はただただごめんなさいと言った。他の人だったら距離を置いていただろう。それでも彼は俺にとって唯一の人だった。一度手に入れたらどうしても手放したくなかった。
「必要ないでしょ、こんなこと俺たちに。俺に興奮しますか? そういう目で見てたんですか?」
 返答がない。
「手当たり次第に寝てたからね」
「ご自分のイメージ分かってますか」
「偽物が本物に指図か」
「でも狼嵜選手は負けた
 引き留めるのにとにかく必死だった。そんなことは思っていないのに。
「うるさい」
「……いのりさんに失礼だ」
「君は本当に僕のことをよく見ているね」
 さっきまで星の王子さまを読む
 バラと王子さま(夜鷹とじぶん)
「俺にとって貴方はバラでしたよ」
 キミが生きているだけで僕を苦しめるんだよ。とはいわない。プライドがあるから。
 理凰。
 あのクソジジイとなにかあったんでしょ。アイツ、父さんと光と明浦路先生の言うことしかまともに聞かないし。すごい機嫌悪いですよ。あなたといっしょの大会出たあと。
 俺はあなたが生きていてくれたらなんでもいいです、と俺は言った。
「きみといっしょにいたら死んでしまうな」
 むかし見た夢。君は何者? 俺は。俺は、
 俺の憧れと尊敬をたよりに必死に努力してきた十数年が、その結晶であるスケートが、夜鷹さんをどうしようもなく傷つけてしまう。俺の存在でこのひとは傷つくのだ。夜鷹純は傷つくんだ。
 なにかが割れる音がした。過去が燃えていく。すべてが色褪せる。いのりさんに会う前のような、劣等感ではない、もっともっと深い絶望がのしかかる。
「僕をこんなにみじめな気持ちにさせたのはキミだけだ」
 このひとに俺は壊せない。このひとは優しい。
 だから俺が壊してあげよう。ひどく優しい気持ちになった。そうして憎んだ。はじめてスケートを、このひとを、決定的に。
 歯を突き立てる。皮膚を食い破る。血の味がする。俺の知らない。夜鷹さんは笑う。それでいいよというように、しあわせそうに。口づけて舌を差し込む。内側に入っていく。このさきになにがあるのかおれはしらない。でもどんなものになったとしても、このひととともにあるかぎり、俺は幸福でいつづけようとおもう。それだけを願っている。たがいの命がたがいの命をむしばむのであれば、覚悟できるのはそれくらい。
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向き
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わたしたちの失敗
初公開日: 2021年09月13日
最終更新日: 2021年09月15日
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コメント
「現役時代の夜鷹のスケートに近いのが現在の夜鷹のそれというより、むしろ現在の司のそれの方だったらどうしよう」という妄想からできた明夜。暗い。現在の本編の5~6年後くらいの想定。先の展開の勝手な予想と捏造しかない。
人形
メ モブ×夜鷹純
R-18
しを
ワンライをやるぞやるぞ〜!
ワンライチャレンジ。ネタ出しから&別作業と並行してるのでゆっくりゆるゆるです。
星菜