Canvas
 がたん、ごとん。
 電車にしては些か揺れが大きすぎるような振動。そんな振動に揺られながら、僕はぼんやりと車窓を眺めていた。小さな小窓から過ぎ去っていくのは見慣れた景色ばかりで、もはやなんの感慨深さもない。都心で乗った電車から数回乗り換えをして、地元の人間でしか知らないような路線の電車に乗り込めば、雑然とビルが立ち並ぶ景色からあっという間に緑豊かな長閑な風景へと変わる。がたん、ごとん。今にも壊れてしまいそう音を立てながら走り続ける二両編成の列車。その車体が目指す先にある場所と、ポケットの中に入っている鍵の重さに思わずため息をついた。
 ――まさか、また来ることになるなんて。
 きっかけは、僕のスマホに届いた一件の通知だった。スマホを震わせたその相手は、最後に名前を見て久しい。所謂「同業者」であるその彼から久しぶりに来た連絡に、正直なところ気が重くなったのも事実だった。
 同業者――正確に言えば、元(傍点)同業者。業界を離れて以来、意図的に関わりを持つことを避けてきた。連絡が来たら応えることはあっても、自分から連絡するようなことはしなかった。日に日に元同業者からの連絡が減っていったのも、そんな自分に対する配慮があったのかもしれない。きっとどこかで、察していてくれたのだろうと思う。
『まもなく、〇〇、〇〇――。お出口は、右側です』
 アナウンスの声に、僕は席を立つ。そうして列車の扉は開かれれば、途端に心臓が早鐘を打った。ふしゅう、と音を立てて開かれた扉の先にあったのは、数年前となにひとつ変わらない景色。申し訳程度にぽつん、と置かれた小さな椅子と、すぐ向こう側に見える反対側のホーム。反対側のホームに向かうための踏切は下がったままで、どこまでも古めかしい田舎の駅に、まるで急いでつけられたような電光掲示板だけが異質さを醸し出していた。
『今度の展覧会向けの絵、描いてくれないか?』
 事の発端は、かつての同業者から来たそんな連絡。数年前に絵を描くことから退いた自分にとって、それは衝撃的ともいえる出来事だった。もちろん、すぐに断ったのだ。自分はもう絵をかくことを辞めた身なのだから、と。それでも「どうしてもお前に描いてもらいたいって内容の手紙が主催者(ホスト)に届いたんだよ」などと言われてしまえば、無下にできるわけもないだろう。幼馴染曰く、僕は「腹が立つほどのお人好し」らしい。ただ――
 ――どうして今更なんだ。
 現実問題、僕は非常に困っていた。そして焦っていた。絵を描くことを生業(なりわい)にしていた頃ならまだしも、どうして退いてから数年もした今になって。緑谷出久という画家は、決して著名な画家ではない。それどころか、典型的な売れない画家だった。だからこそ、とても喜ばしいことだというのに、僕の絵を見たがっている人がいるなんてことを僕自身信じきれずにいたのだ。
「――――着いた……」
 それでも。退いたといっても、この場所を引き払えなかったのは、この場所に思い出が詰まりすぎていたせいだろうか。それともまさか、自分でも預かり知らぬところで未だに絵に未練があるというのだろうか。たった数年離れただけなのに、見上げた先にあるマンションは僕の目にひどく懐かしいものとして映った。
 ひどくうるさい心臓の音と、ちいさく震え出す体。はあ、と吐き出した息の温度に、僕はいま自分がいま興奮していることに気付く。今更何を緊張することがあるんだろうか。ポケットの中の鍵にかつりと爪の先が触れたのをきっかけに、一度深く深呼吸をしてからそれをゆっくりと取り出した。
 がちゃり、とドアノブを捻れば、最後に見たときと何ら変わりのない部屋が眼前に広がる。無人の部屋に唯一残されていたのは、描きかけのキャンバスの列と、鼻をつく絵の具の匂い。足を踏み入れば、自然と僕の脳内にここで過ごしていた日々がありありと思い出される。ここは、緑谷出久という画家の仕事場――アトリエだった。
(一体誰が、僕に絵なんか)
 描きかけのキャンバスには、何を思ったのか中途半端に絵の具が乗せられただけの状態だ。突然だったのだ。その日のことを僕は今でも鮮明に覚えている。ほんとうに突然、筆を持つことができなくなった。筆を握ろうとする手は震えるばかりで、やっとの思いで筆を握ったは良いものの、いざキャンバスに向かってそれを描こうとすると途端に怖くてたまらなくなった。どこまでも底の知れないような、わけのわからない恐怖。その時はっきりと、目の前が真っ黒に染まっていくのを僕は感じた。どうして自分が絵を描けなくなったのか。その理由もわからないまま、ただ、漠然と終わりだ(傍点)と思ったのだ。
 羅列した描きかけのキャンバス、床に飛び散った絵の具の色。自分にとって見慣れたはずのアトリエは、夕暮れの光の中でなぜか見知った場所とは違うような色を見せていた。あの瞬間、怖くてたまらなかったあの時のことを忘れたわけじゃない。絵を描くこと、その行為そのものに刻み込まれた恐怖が僕の中には色濃く残っている。
「……………………」
 たっぷりと時間をかけて、僕はそっと筆を取った。乾かすために窓際に置かれていたその筆は数年間放置され、持ち手の部分がすっかり色褪せている。筆先に伸ばした指は震えていない。それに何より驚いたのは、僕自身だった。
ひょっとして、今なら――。
興奮交じりのそんな淡い期待を持ちながらキャンバスへと向き直る。その瞬間、僕の目に映ったのは、キャンバスの上で波打つ青。決して鮮烈な色なんかじゃない。ただ、キャンバスの上に置かれたその色を見た瞬間、頭が真っ白になった。ぁ、と小さく漏れた声と急激に早鐘を打つ心臓に、事態を呑み込めていない体からどっ(傍点)と冷や汗が噴き出る。からん、とアトリエに甲高い音が響いた。音の出所に視線を落とせば、それは手のひらで握り締めていたはずの筆が転がり落ちた音だった。震えひとつなかったはずの指先はいつの間にかぶるぶると震えている。
「………っ、はっ、…………」
 ――無理だ。
 肩で息をしながら、自分を落ち着かせるように僕は目を閉じる。筆を持っただけでこの有様だ。到底絵なんて描ける気はしなかった。重力に負けた僕の体はずるずるとその場にへたり込んで、絵の具の飛び散った床に手をついて項垂れる。だいぶ古いその絵の具の鮮やかな色を見て、ますます自分に嫌気が差した。
どうして自分は、絵が描けなくなってしまったんだろう。どうして筆を持つだけで、こんなにも手が震えてしまうんだろう――。
 情けなかった。悔しかった。ただもう、情けないだとか、悔しいだとか、そういう言葉を吐ける立場にすらなかったのだ。退いた身分でありながら、未練がましくこの場所に戻ってきた。まるで亡霊のような自分のことを自覚して、ひどい息苦しさに苛まれた。この場所のドアノブを捻るまで、あれほど興奮していたはずの体もまるで嘘のように冷めきっていて。慣れ親しんだはずのこの場所で、どこまでも鮮やかで残酷なかつての日々を思い出しては、筆一本すら持てない自分の現状の息苦しさに溺れていたのだ。
 ブーッ、ブーッと響くのはバイブ音。動けない僕の隣でスマホが震えていた。床に転がってちいさく震動を繰り返すそれは、早く出ろとせがむように蠢(うごめ)いている。光るディスプレイには、僕をこの場所へと呼んだ張本人の名前が表示されていた。
「……もしもし」 
 すっかり日が落ちたこの場所はひどく薄暗い。街の灯りなんてものが乏しい田舎の夜は、空にぽつんと浮かび上がる月の光だけが眩しく見えていた。耳に当てたスピーカーから聞こえてくる音声に交じって、どこからか海鳴りが聞こえくる。音の出所を探るようにしてあたりを見回せば、それはすぐ目の前に立ちはだかっていた。
  ***
 世の中、「自分の意思ではどうにもならないこと」というものは一定数存在するらしい。僕がそれに気付いたのは、皮肉なことに自分自身が筆を持てなくなったその瞬間だった。とはいえ、自分の絵を見たいと言ってくれるもの好きな人がいる以上、心苦しいのは事実なわけで。そんな僕といえば、情けないことに元同業者から連絡を受けて以来、わけのわからない不安と焦燥に駆られていたのだ。常に何かに追い立てられるような感覚は、徐々に、けれども確かに精神を蝕んでいく。時間が刻一刻と、そして一日が流れるたびに、何もできない自分に対する苛立ちはますます増していった。
「顔色悪いよ、緑谷くん」
 ことり、と僕の目の前にコーヒーカップが置かれる。その音と、僕に向かって投げかけられた言葉にはっとしたように僕は視線を上げた。やっとの思いで自分の世界を抜け出して、外界へと意識を移す。あたりに広がるのは胸の内側に巣食ったあの青い色でもなければ、ごろごろと遠くから鳴り響くような音もない。淡い色というよりは全体的に深みのある色の家具で揃えられた店内は、この町で十数年続く老舗の喫茶店ならではといったところだろう。ちょうど、あの晩にアトリエで僕に連絡を寄越した彼が指定してきたこの場所は、好青年で、それでいて懐古趣味な彼がいかにも好きそうな場所だった。
 ――ちょうど良いと言えば、ちょうど良かったんだ。
 運ばれてきたコーヒーの、焦げ茶色の水面に映る面持ちは、ひどく強張っている。確かにこんな顔じゃ顔色が悪いだなんて言われても仕方ないだろうな、と思った。ここに来た理由のひとつに、彼に呼ばれたことが挙げられる。ただそのほかに、僕はここに来た理由がもうひとつあった。ここに来るまでに、一体どれだけの時間を無駄に過ごしてきただろうか。とてもじゃないけれど、簡単な決断だとは口が裂けても言えない。しっかりしろ、と自分に言い聞かせて一度深呼吸する。目の前の元同業者の彼は、まるで昔のように――僕の記憶にある彼の姿と寸分違わぬ微笑を浮かべていた。
「あのお話、断りにきたんです」
 
「僕にはやっぱり、描けません」
「もう一度、理由を聞いても?」
「何度聞かれても同じです。僕は絵を描くことを辞めた身ですから」
「ただ君が、ほんの少しでも描きたいと思っているのなら――」
「――いや、やめよう。未練がましい男は嫌われる」
  ***
「好きなんすか、俺の本」
「なんかすげえ見てきたから」
「別に、楽しいとかわかんねえけど」
  ***
筆を見つめているシーン
あるいは
  ***
「画家なんだろ」
「描かねえんかよ、絵」
 
 
 
 
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原稿
初公開日: 2021年08月13日
最終更新日: 2021年08月13日
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