そういえば今年は海に行かなかった、と、カフェラテをひとくちのんでふと気づく。水平になった紙コップの沖へと引いていく液面についていけず、ちょうどスリーブの巻いてあるあたりに残ったまだらな泡は、局所的に海辺めいているように思われたのだった。うみ、とゆるんだくちびるからこぼれかけた単語を、すんでのところで舌の上に留め置く。ちらりと様子を窺ってみると、山田さんは僕の挙動には気づかず喋り続けていた。
 去年はヴィハーンさんが日本へ遊びに来たから、三人で(二回ほどは都合のついた先輩たちも誘って)一緒に観光がてら色々なところへ行ったのだけれど、今年は海どころかほとんど出かけた記憶がない。まあ三年になった山田さんは就活を始めているし、僕も大学のカバディ部が流石強豪と感心する(しかできなくなるほどに)きつい練習量で連日へとへとだ。好き好んでトラブルの種ばかりの(離岸流! 有毒生物! 夏の陽射しと酒で浮かれる人種!)海で余計な体力を消費しようという気にはとてもなれなかったので、記憶の八割が僕らのアパートから五駅以内の範囲でカバーできてしまう地味めの夏だって悪くないと思っている。
 早いものでもう来週には授業が始まってしまうから、こうして山田さんと喫茶店でだらだらとどうでもいい時間を過ごせるのもあと数日だ。僕は大抵カフェラテとココアの二択で、山田さんはいつも季節限定メニューを頼む。冬居はいっつもおんなじの頼むよな、たまには冒険しろよ、と、迷うのが面倒だから常に季節限定メニューを頼むと決めているだけのくせに、山田さんは僕の代わり映えしないローテーションを批判する。席についてひとくち飲んだ新商品を、「うまいぞ」と言いながら渡されたら僕のカップと交換し、無言だったら感想を言える程度にささやかな量を吸って返すから、どちらにせよ僕はこの店の限定メニューを山田さんが頼んだ範囲で制覇しているのだった。僕の冒険はいつも受動的だ。八月限定のパイナップルとレモンをベースにしたサマーフレーバーはお気に召しているらしく、かき氷のブルーハワイみたいにくっきりした青いサイダーを、僕はまだ四口しか飲んだことがない。いらいらとかき回されるストローに炭酸の泡が弾けて、遠い潮騒のように鼓膜をくすぐった。
 八月の終わりの海をぼんやりと想像する。きっとくらげがたくさんいるんだろうな。そういえば小学一年生のとき、あれは親の言いつけを守らずいつまでも泳いでいたり、わざとはぐれて帰る時間を延ばそうとしたり、立ち入り禁止の岩場までカニを取りに行ったりした悪い子たちが海幽霊に連れて行かれた姿だよ、と山田さんに言われた。いま考えれば典型的な事故防止のための子供向け怪談で、きっと山田さんも周囲の大人から吹き込まれたのだろう。わかってはいても、視界の限りぶよぶよと透明に濁る固形の魂じみたゼラチン質が揺れている波打ち際は、あまりにもショッキングな映像として焼きついているから、いまでもくらげを見ると少しだけ身構える。このまえのデートで水族館の大水槽を埋め尽くすくらげを見上げながら、「すげーなー、気持ちよさそう」などと呑気な感想を述べていたところを見るに、本人はきっとそんな話もあの海も覚えてないんだろう。ずるいな。砂浜に取り残される波の名残りに似たカフェラテの泡を眺めていると、山田さんの声が苛立たしげに一段階大きくなった。いや、聞いてます、聞いてますってば。いくらほとんど客いなくても、ここカフェなんですから、もうちょっと落ち着いてください。
「聞いてねえだろ、聞いてねえときの顔してた」
「これは聞いてるけど何言ってるのかよくわかんないときの顔です」
「てめ、冬居ッ!」
 山田さんは僕の人づきあいに女性が絡むとよく怒る。きょうもゼミの先輩と食事に行ったことを延々と責められていて、よくもまあ同じボルテージでひとつのことに怒れるなぁといっそ感心している。興奮してくるとぐっと身を乗り出して僕を睨んでくるので、まばらに埋まった遠くの席からは、先輩から怒られているゼミ生とかバイト仲間とか、その程度の関係性に見えてるんだろうな、と想像したらなんとなくおかしくなった。恋人だって、ゼミ生やバイト仲間とおなじくらいありふれた間柄のはずなのにな。
 大学では恋人の有無を訊かれると「熱愛中の彼氏がいます」と言うことにしているので(女避けのジョークだと思っているひとも、言葉通りに素直に理解してくれるひともいる。不快な質問をされることもあったけれど、いいえ、僕、彼氏にめろめろなので他のひとには興味ないです、と真顔で答えているうちにその手合いには絡まれなくなった)交際は滅多に申し込まれないものの、却って女性からは気軽な話し相手として食事や酒に誘われる。都合のいいセクシャリティ消費だなあ、ずいぶん心ない話だな、と思わないでもないけれど、一方的に話されるのは慣れているし、強く頼まれると断れないのは他ならぬ幼馴染に振り回されてきた習い性ゆえ仕方がない。とはいえ、自分で言うのもなんだけれど危機管理能力も察知能力も高い方だし、うっかり面倒くさそうなひとと酒を飲んでしまっていよいよ抜き差しならない(相手の目的は抜き差しなのでこの言葉遣いはややこしいだろうか)状況に持ち込まれかけたときには、その場で席を立ってすみませんすみません無理ですすみませんとキャントみたいに叫びながらお金だけ置いて逃げ帰るくらいの強硬手段は躊躇せず取れるし、実際取った。みっともなかろうがなんだろうが、山田さん以外のひととどうにかなるより最悪なことなんかないから別にいい。山田さんも僕がそういう人間だということはちゃんとわかっていて、しかしどうしてもお気に召さないらしい。だって俺は小学生のときからずっとおまえがモテてんの見てきたんだぞ、と不機嫌に唸る。ずっと見てきたと言うくせに、僕が一度も女の子になびいたことがない事実については目を向けてくれないところがまったく山田さんらしい。そうですよ、あなたの言う通り、僕は本気でそうしたいなら、女の子が寄ってくるのを待っていればそれで済むんですよ。実際にはどんなに見た目がよかろうがどんなに性格がよかろうがどんなに趣味が合おうが、一度だって好意も告白も受け入れたことなんかないんですけど。大体、そういう自分は彼女いたじゃないですか、と、でも反論はしないことにしている。僕はいつからかなんて覚えていないくらいずっと山田さんのことしか見ていないから、山田さんが好きだと言っていた女性たちのことも、どんな表情で彼女たちについて語ったかも、恋の終わりがどう訪れたかも、全部覚えている。
 そのすべてを合わせたって、いま僕に向けられている視線の濃さにははるかに届かないことも、ちゃんと知っている。
「……冬居、もしかして俺にキレられてえからそーゆーことしてんの? 喧嘩売る気か? あァ?」
「そんなわけないでしょう。友達とか先輩とのごはんくらい行かせてください」
「女じゃなけりゃいいよ、いくらでもどこにでも行けよ」
 彼氏持ちなんだから男を警戒すべきでは、とまぜっかえそうとして、さすがに本気にされたら面倒なのでぐっとカフェラテと共に飲み込んだ。空調で冷えたからとホットを頼んだのに、もうすっかり人肌までさめている。舌に馴染むぬるさのせいか、あるいは浅い褐色が山田さんの肌に似ているせいか、飲みはじめよりもずっと甘ったるい気がした。
 山田さんはバイだし元々は自分を異性愛者だと思っていたから女性のことばかり気にかかるんだろうな、というのは察していて、だから僕の欲望について理解していないことについてどうこう言う気はない。
 異性の肉体を欲さない僕が先輩や同級生の惚気や愚痴に付き合うのは、彼女らの語りのなかに山田さんが見える瞬間があるからだ。バイトのシフトやゼミの都合で生活のタイミングがずれてしまい、一緒に暮らしているにも関わらずなかなか会えないときは、それが結構慰めになる。なんの気なしにそのシャツ似合うねって褒めたら明らかに着てる頻度上がっててさあ、ほらあのひと服すっごいこだわってる感じでしょ、でも意外とそういうとこあるんだなって。あーもーなんっでもかんでもハーゲンダッツ買ってくりゃ機嫌取れると思ってんの馬鹿なのかな、次は無いよって言っても言ってもやらかすんだよどうしてくれよう。あのこ、話ちゃんと聞いてよって言うんだけどあたしの話は聞いてないわけ、まああたしもあんま聞いてないから似たもの同士かなアハハ。否定も肯定もせず、ただ、心を占めている人物についての話を聞き続けていると、まったく無関係などこかの誰かを形容する言葉を透かして、ちらりと山田さんが見える。これ美味しいですねと褒めたら一週間くらい角煮が夕飯に出続けたり(食事当番は基本的に交代制なのだけれど、山田さんがなにかにのめりこむと当然のように僕の順番は無視される)、あきらかに自分が悪いとわかっている喧嘩のあとは黙ってずっとくっついてきたり(根負けしてもう怒ってないですと言うと翌朝には通常運転に戻っている、わかっているのに許してしまうのだ僕は)。聞かされる感情が喜怒哀楽のどれでも、山田さんが恋しくなる。
 母親同士が友達で、僕らは当然のように兄弟じみた幼馴染として育てられた。僕の二十年の人生のすべてには山田さんがいて、山田さんの二十一年には僕のいない一年の空白があって、それは永遠に埋まらないから、たぶん僕たちはずっとこうしてくだらない喧嘩を満ちては引く潮のように繰り返す。山田さんで満たされている僕と、僕がわずかに欠けたままの山田さんのあいだに発生する潮汐力。きっと遠くから見ているひとには、執着とか共依存とか腐れ縁とか一過性の青春とかインプリンティングとか、もっともらしいけれど的外れなラベルが貼られているんだろう。当事者の僕らはただシンプルに、それを愛と呼んでいる。
「どこにでも?」
「ああ、好きにしろよ」
 一度も山田さんから目を離したことがない僕に、山田さんはずっと自分を見ていろと怒る。理不尽で自己中心的で傲慢で無遠慮で、そういうところが好きだ。もっと、もっと、と際限なく求めることを当然の権利としか思っていない身勝手さ、それを振り回して平然としているいっそ暴力的なまでの無自覚さが好きだ。このひとはずっと変わらなくて、カバディでも僕との交際でも、貪欲にすべてを手に入れようとする。美点というには苛烈すぎるその性質を、二十年も愛してきたのは僕だけだ。僕にはあなたしかいないけど、あなたにだって僕しかいないでしょう、と、口にしたら怒られるから黙っている。あなたしか必要ない、と言葉にしても態度で示しても伝わらないから、ただそばに居続ける。自分勝手に、山田さんのそばに居たいという欲に身を任せ、この場所を選び取る。
「じゃあ、駿くん、海行こうよ」
「……はあ? これから?」
「これから」
「なんでだよ。ってか、そういう意味じゃねーよ。うやむやにすんな」
「してないよ。今年、海見てないから見に行こうって、それだけ」
 はあ、と呆れたように、あるいは諦めたように、山田さんは息を吐いた。おまえ、そーいう言い方したら俺が言うこと聞くって思ってんだろ、あんま調子乗んなよ、と言いながらも、二割くらい残っていたサイダーを一気に飲み干して「行くぞ」と立ち上がる。まるで自分が海行きを提案したかのような勢いに笑うと、なんだその顔、と軽く蹴りを入れられた。早くしろ、と急かされて、僕もカフェラテを呷る。
「てーか、いま行ったって着いたら夕方だろ、そもそも泳げる時期じゃねえけど」
「いいよ、海が見たいだけだから、いっしょに歩こう」
 セルフサービスの返却口へトレーを置き、紙コップを専用のダストボックスに放り込む。わずかにへばりついたカフェラテの泡はやっぱり海を思い出させて、でも、それだけだ。感情を呼び覚ますスイッチにはなったって、海の代わりになんてなるはずもない。こんなにも当たり前のことがわからない山田さんのことを、どうしようもなく面倒で、厄介で、愛しいと思う。
「なんだそれ。わけわかんね。冬居そんなに海好きだったか?」
「好きだよ」
 店の外に出た瞬間暑さが押し寄せてくる。油で揚げられているような蝉の声がうるさくて、日差しは殺人的に肌を突き刺してきて、申し分ないくらいに世界は夏だった。それでも海のある街へ着くころにはきっと太陽もやわらいでいるから、砂浜を行けるところまで歩いてくだらない話をたくさんするのには差し支えないくらい、気温も落ちているはずだ。駿くん、海だよ、と言ったら、言われなくてもわかるよと恋人は呆れたように笑うだろう。あなたのことがこういうふうに好きだよ、と続けたら、意味わかんねーと笑うんだろう。
ここから下は制作メモ
・要素
冬駿こんなもんほぼTake me or Leave meじゃん(全部のオシカプに言うじゃん)
モテてるのを知ってるからキレる山田 モテてる僕があなたしか見てない事実にも着目してくれないかな…と思ってる冬居 モテてる自覚ある冬居!!??いやまああるだろうな…
冬居、いろいろ考えてるしどうでもいいことは全部口に出るのに大事なところでは視線でしか語らない男だなと思ってたけど201話で山田の意識上もそうなのかよとなったしやっぱそういう男なのでは、どうでもいいことだけ喋らせるか
海に行こう、寄せてはかえす波、理不尽でおおきな、寄り添うもの、圧倒的な、
理不尽で傲慢で、そこをいとしく思っている、
解釈が違う ここは海に見えるけど海ではない、んだよなあ
海を思い出すけれど海ではない、
海がそもそもさあ 海 「浜辺めいても」ここは浜辺ではない
あーーーーー、、浜辺めいても浜辺ではなく、海を想起させても海ではない
ほんとうの海はただ海だし、それを知っている、あなたは知らないのかもしれないが
僕にとっての海はただあなただけで、あなたはこんな、カフェラテの内側の浜辺になんて、なにも思わなくていいんですよって何度伝えても伝わらないみたいだけど、まあそういう理不尽さを愛している
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灼・冬駿/満ちては欠ける
初公開日: 2021年08月03日
最終更新日: 2021年11月18日
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冬駿理不尽痴話喧嘩部の入部届です。