それは些細なクセだった。
一人暮らしを始めてまだ2か月ほどしか経っておらず、今だ実家に居た頃のクセが抜けていない。
クセというのも、夜家に帰ってきたらただ「ただいま」と家の中に向かって言ってしまうこと。
勿論私は一人暮らしで、帰ってきても家の中に誰かが居るわけがないのだ。
ただ、そんな日々を続けているうちに何か違和感が生じてきたのだ。
自分以外の何かが、私の部屋に居る。そんな感覚が付いて離れないのだ。
"それ"は姿が見えないし、声すらもしない。ただ静かに傍に居る。
寝ている時はじっと凝視されているような感覚がして目を開けられないし、何かをしていたら覗き込まれたような気がする。
故に、あまり家の中に向かって「ただいま」と言うことは無くなった。
が、"それ"はより一層答えを欲するように私を妨害し始めた。
片付けたはずの服が無造作に出されていたり、ある時はテーブルの上に置いてあった水の入ったコップが目の前で音を立てて倒れたこともある。
足跡のように水が溜まっていたこともあった。
流石にこれらの現象に堪えられなかったこともあり、お札などを取り寄せてみたが効果は無かった。
現象が減るどころかもっと頻繁に起きる様になってしまったのだ。
そんなこともあったため、このままでは精神的に参ってしまうと思い数少ない友人の家に一日泊まったのだった。
友人の家では特段変なことが起こることなく過ごせたが、一日泊まっただけでも家に帰ることがだいぶ億劫になっていた。
友人からは『そんなに家に帰るのが嫌なら引っ越したらいいよ』という助言を貰った。今の家から引っ越すことも視野に入れ、友人とは一緒に物件サイトなどを見て過ごしていた。
また、自分の住んでいる家に過去何かがあったのでは?ということも考え、そのようなサイトで調べてみるも情報は何一つ掴めなかった。
うだつの上がらない気分のまま、友人の家を出て自分の家に向かっていたのだった。
友人の家に長居をし過ぎたせいで帰ったのは午後6時ほどになってしまった。
荷物も寝泊りに最低限必要なものを持っていただけで、大して重たい荷物は持っていなかった。
荷解きを素早く終わらせて寝よう、そう考えていた。
家に足を運ぶ。
鍵を開け、足を一歩踏み入れる。
6時とはいえまだ外は明るい。1日居なかっただけでも自分の家に帰ってきた事実に安心をしきっていた。
「ただいま」
また、何気ないクセで言ってしまった。
何も起きないことを望みながら、靴を脱ぎ始めた。
視界は自分の足元に向いていたその時だった。
「おかえり」
聞いたことがない男の人の声がした。
もしや誰かに入られたか、自分が家を間違えたか。
そんな気がして前を見ることなく、自分の周りを見た。
玄関先に置いてある傘や靴、飾り物も自分の家の玄関のもの。
では中に居る人は誰?
恐ろしくなった私は、家の中を見ることを止めて外に出ようとした。
しかし扉は外から押されているかのように開かない。
勿論鍵は外してある。どんなに押しても扉が開くことが無く、内鍵も回らない。
廊下の先の、家の中を見た。
普通なら玄関からでも窓からの明るさが分かるはずだが、今に限ってその明るさがない。
廊下には誰かが立っていた。
"それ"は逆光で見えないかのように黒く、男性の背丈ほどの黒い人型だった。
"それ"の手には凶器のようなものは何も握られていない。
ただ、私を歓迎するかのように両手を低く広げている。
逃げようとした私の行動を見てか、"それ"はかすかながらに近付いていた。
水の滴るような足音が迫っている。
広げられた両手は、枝垂れた布が垂れているかのようにボロボロだった。
「俺はお前を待っていたのに。
本当は迎えられて嬉しいんだろう?」
近付いてきた"それ"が良く見えた。
真っ黒な身体と頭。その頭部には両目があった。
普通の人間とは変わらないが、異様なほど血走った目。
白目が充血しているのか元から赤いのかが分からないが、黒目の両端の赤色が目に入った。
「い、嫌、来ないで」
「来ないで?
お前が俺を呼んだのにか」
こんな見るからに邪悪なものを呼んだ覚えはない。
"それ"に口は無いけれど、笑っていることが分かった。
無い口からでてくるけたたましい笑い声が頭の中に響いた。
「怯えるな、俺はお前に答えただけ。
そしてお前から形を得た」
『私に答えた』。
そう思うと、あの行為には意味があったのだ。
そうして私は人ならざる何かを呼んでしまった。
近付けば近付くほど、影よりも黒い"それ"が喜んでいるかのように波打って見えた。
「俺はお前の恐怖。
ただ、お前が恐れるものそのものとして生まれた」
やがて"それ"の手が伸びる。
背に向けられた扉のせいで逃げ出すことも出来ず、身体も上手く動かない。
立ったまま金縛りにかかってしまったという方が近いだろう。
「恐れられなくてはいけない。
だが、ただ見ていただけの俺はお前を愛おしいと思ってしまった。
俺を呼ぶお前に答える為にこうして形を得たのに、このザマとは」
私の頬に触れながら、"それ"は一言ずつ言葉を連ねていく。
鉄のように冷たい爪が、頬を引っ掻くように触れる。
「怖い、だから、やめて、」
震える声でやっと絞り出した。たどたどしく、一言ずつ。
その途端、"それ"は目を大きく見開いた。
頬に触れていた手が止まった。
次第に大きく見開かれた目が、細く弧を描いた目に変わる。
見下ろしたままの微笑をたたえた目が、私の目を捕らえていた。
「ようやく俺を恐れた」
私の頬に触れていた手が離れる。
このまま"それ"が離れることを願ったが、そうなる筈が無かった。
"それ"の枝垂れた腕が私の身体へ回される。
黒く大きな腕と身体に包まれるが、湿ったかのような冷たさが肌に伝わる。
自分が不快感や恐怖を抱くものが、形を得ている。
影よりも黒い"それ"と自分が、糸で縫われるかのように同化していく。
一つの器に異なるものが納まっていく。
不思議なことに、私にとっては恐ろしいはずの"それ"を拒絶をすることなく、動くことはなかった。
正確には動く気力すら"それ"に奪われていたと言うべきかもしれない。
***
いつの間にか気を失っていた私は、思い出す前に身体を動かした。
場所は相変わらず玄関先で、へたり込むように倒れていた。
開かなかったはずの扉はすんなりと開いた。
あれは悪い夢だったのかもしれない。もしくは質の悪い幻覚か。
そう思おうにも、身体の倦怠感が凄まじく居残っている。
触れられた感覚も生々しいほどに残っていた。
重い腰を上げてようやく立ち上がり、廊下の先の居間に足を運ぼうとする。
が、それもよろよろとした足取りで向かっている。襲い来る眩暈が酷く視界がグルグルと回る。
倒れ込むように居間へ移ったが、普通に座ることもやっとで床の上に寝転がってしまった。
見えている天井もピントがぼやけたり定まったりを繰り返し、動悸が異様なほどする。
このまま死んでしまうのかもしれない。
目を閉じても瞼の裏でチカチカと光が点滅している。
少しだけこれらの症状が落ち着いた。が、今だ眩暈だけが残っている。
それに薬で治るものかも分からない。
近々病院にかかるべきだろうか。
そんなことを考えながら、私は天井から視界をずらそうと横向きに寝返った。
その先の視界には、悪い夢の中で見たはずのあの黒い"それ"が居た。
私と同じように寝転がり、嬉しそうに私を眺めている。
真っ黒な手が、床に着いた私の手と重なる。
まるでそれは、愛おしい何かに触れるかのような手つきだった。
「俺が居なければ生きていけない。
離れれば離れるほど、お前はどんどん弱っていく。
分かるだろう?」
細く鋭利な指先が、私の手の甲を撫でていく。
私に身体を動かす気力はとうに無く、"それ"を受け入れるしかなかった。
"それ"の手が頭へ回る。
長く歪な形の親指が、私の目の下を撫でる。
このまま目を潰されてもおかしくないのに、それはただ愛おしげに触れるだけ。
「俺を無理矢理離そうとしても無駄だ。
離れるくらいなら、お前を道連れにしてやる」
"それ"は怨みごとのように呟きながら、黒い目の奥を揺らした。