雨の日。
降り始めは小粒だった雨が、徐々に大きくなっていく。
夏の暑さを引きずったジメジメとした感覚が肌に付く。
こんな日に限って、私は傘を家に忘れてきており、しかも通り慣れていない道を使って家に向かっていた。
小さな店や住宅などが並んだ道ではあるが、雨を避ける屋根の代わりになるものがない。
いよいよ大粒の風吹きの良い雨に変わり、仕方なく雨宿りをするべく路地に入った。
路地の中は辛うじて水が入り込まない細い屋根があるが、ボタボタと垂れ落ちる雨水が不快感をより一層引き立てた。
雨は今だに止む気配を見せず、時間がたつほどに地面に打ち付ける水が激しさを増していく。
地面は跳ねた雨水で雲が浮かんでいるかのように白んで見えた。
『⋯、⋯、ー⋯、』
雨の音に交じって、何かが聞こえた。
それは歌のようにも、または誰かが自分を呼んでいるかのようにも聴こえた。
聞こえた方向は自分から見て真後ろだった。少し遠い後ろには雨に交じって薄く見える建物の境目のフェンスがあるだけ。
建物どうしに出入り口や窓などは無く壁があるだけで、途中から人が入り込めるようなスペースも無い。
ポケットの中にあったスマートフォンを適当に触りながら、忘れようとするかのように雨が止むのをその場で待った。
『⋯、で⋯、⋯⋯ー、』
少しだけ聞こえた人の言葉に、思わず後ろを向いた。
雨に交じって、ラジオのノイズの様な音が時折聞こえている。
誰かが流しているのか?とも思えたが、雨の降る外でラジオを流すような場所もない。
なるべく後ろを見ないようにしよう。
そう思いながら降り続ける雨を眺めていたが、やはり雨の音に交じって何か人の言葉が聞こえてくる。
手に持っていたスマートフォンをポケットの中に仕舞い、恐れながらもゆっくりと後ろを向いた。
自分の後ろに誰もいないことを願いながら、そっと振り向く。
先ほどまで金網があり、その後ろの建物まで見えていた場所は霧が掛かっていた。
そのモヤは灰色と白色を割ったような色で、ドライアイスに水をかけた時の煙たい感じというよりは、薄いカーテンのようだった。
恐る恐るその霧に近付き、得体の知れない霧に触れた。
もしも霧であれば振り払えばいい。だがそんな筈もなく、霧に触れた左手がそのまま中に取り込まれてしまった。
抜き出すことはおろか、振りほどくことも出来ない。
焦って助けを呼んでみたりもしたが、雨の音が大きく自分の声が耳に響くだけだった。
⋯そうだ、スマートフォンがある。
空いている右手でポケットにあるスマートフォンを手に取り、電話で助けを呼ぼうとした。
その瞬間に、霧の中に入っていた左手が誰かの手に捕まれたかのように引き込まれた。
濡れた右手からスマートフォンが滑り落ち、身体ごと霧の中に呑み込まれてしまった。
***
眩い光の中に居た。
両手で目を覆い隠さなければ、目が潰れてしまうかのような光の中に居た。
徐々に光が黒い斑点で汚されていく。
写真を燃やした時の様な、インクがボツボツと煮えて見えるあの現象に近い。
斑点で覆いつくされ、真っ黒になってしまった視界が薄すらと明るくなってきた。
色の無い世界が見えた。
全てが真逆の、色の無い世界。
知らない街中の道に、私は立っていた。
近代的な建物の横に古めかしい建物が立っていたり、店の物と思われる看板には文字が潰れたものや、辛うじて読める字も反転して映っており、反転させて読んでも不可解な文字列になるようなものばかりだ。
時には文字化けをして読めないものや、漢字だけのよく分からないものもあった。
この世界には生気が全くない。
霧だけが雲のように動き、時折霧が立ち込めて白く潰していく。
歩いている人を見かけたりもしたが、その人は項垂れていた。
真っ黒なスーツを着ている人や、着物を着ている人、中には子供もいた。
しかし、皆項垂れている。
顔を覗き込んでみたが、顔のある部分はマネキンのようだった。
目鼻口は粘土で均されたかのごとく存在しておらず、本来であれば口のある場所は何かを呟くように動いていた。
頭から袋を被された時のように不明瞭な何かを呟きながら、街の中をグルグルと項垂れて歩き回る。
最初に彼らを覗き込んだ時は驚いて息を呑んだ。
あまりにも信じられないものを見ると、私の場合は声が出せなくなることが分かった。
今見ているものが現実か、悪い夢なのかすらも分からなくなっていた。
彼らは私に危害を加えないが、この世界に来る前に霧の中で私の手を引いたものは何だったのかを考えると全てが振出しに戻ってしまう。
溜息を吐くような気力も無く、ぼんやりと知らない街の中を歩いていた。
「もし。
そこのお方」
この世界に来て、初めて誰かに呼びかけられた。
久しく誰の声も聞いていないからか、驚いてしまった。
後ろを向くと、誰かが居た。
男性の声がした方向には、背の高い軍帽を被ったいかにもな軍人に見える人が立っていた。
辛うじて薄く色が見え、着ている軍服はしっかりと整えられており、腕章や勲章のバッジなども付いている。
同じ人間がいた安心感から近付いてしまったが、よく見るとその人の目には白目が無く、黒目だけの目をしていた。
軍帽の影に隠れて見えていなかったが、気味が悪い微笑みを浮かべている。
「長らく探したのですよ、さぞ恐ろしかったことでしょう。
さあ、参りましょう」
「えっ⋯と、あなたは⋯?」
「知らない方がいいでしょうね。
もしも知ったら、あなたは私を嫌いになるでしょうから」
「では、名前だけでも⋯」
「私に名前はありません。
親も名前も、忘れてしまいました」
柔らかな口調で話すその人は、私を品定めをするように眺めている。
黒い目はどこを見ているのかも分からず、瞬きをすることもない。
「私の手をお取りください。
あなたは安心して私と渡ることが出来ますよ」
「渡る?どこにですか?」
「死んだ人間が行く世界です」
淡々と話すその人は、『死んだ人が行く世界』と言った。
私は死んでしまっただろうか?
もし死んでいたとしても、どうやって死んだのかも分からない上に、この人が現れてから何もかもついて行けない。
目の前に居るこの人は、私が手を取るのを待つ。
「何か不安なことでも?」
「何故私を連れて渡るんですか?」
「私はあなたを、自分の名前を忘れるほど待ったのです。
一人で死に逝くのは心細い。あなたもそう思うでしょう?」
⋯理解が追いつかない。
私はこの人を知らないし、まず年代が違う。
発言からして、私が産まれた頃にはこの人はこの世に居なかったことは確かだ。
親戚や友人にも見覚えのある似たような人は居ない。
知らない人と死にに行くのは御免だ。
「私、帰ります」
「⋯?
長い間あなたを待っていたのに、何故今になって生きて戻ろうとするんです?」
「あなたには申し訳ないことだと思っています。
でも、私は元の場所に戻りたいだけなんです」
「⋯そんな理由で帰れるとでも?」
「帰ります。私は絶対に戻ります。
だから、あなたも行くべき場所に行かないと」
「⋯そうですか」
寂し気に影を受けながら、その人は手を降ろした。
ただ、手を降ろしただけで立ち退く気は無いようだった。
「あなたは狡い。
私を此処に置いていくのですね」
その人は、目から黒い涙を流した。
血色の悪い肌の上を、粘り気のある涙がどろりと溢れては流れていく。
周りの霧が黒色に変わりはじめた。
闇のように真っ暗な霧は、煤を含んだ煙のように走る。
白く濁っていた空も、徐々に黒くなり始めた。
このままではこの世界に取り残されてしまう。
直感でそう感じ、恨み言を述べたその人を背に走り出した。
足元に迫る黒い霧を避けながら、なるべくまだ黒く侵されていない場所へと走る。
足の一部に触れた黒い霧は、泥のように張り付いて足を捕まえた。
体勢を崩した私は、腕や背中も黒い霧に覆われて動けなくなっていく。
まだ目の前が灰色で何もないその場所に、あの人は立った。
ニコニコと嬉しそうに微笑みながら、霧に呑み込まれていく私を見下ろす。
「ああ、なんと愛おしい」
目の前すらも黒色に塗り潰されていく中で、あの人は何かを歌っていた。
子守歌のようにも聴こえるそれは、この世界に来る前に聴いたものと似ているような気がした。
***
眩しさで目が覚めた。
目を開くと、そこはあの灰色の世界ではなく、病院の天井だった。
身体は節々が痛み、おまけに呼吸器に繋がれていた。
身を捩りながら、視界を動かした。
私があの世界に行った日から数えて、凡そ8日が経っていた。
看護師さんに聞いてみると、雨の中で倒れているところを見つけられて運ばれたらしい。
身体や内臓などに目立った外傷や病気の影などは無かったが、8日間も眠りについていたとのことだった。
過度な疲労も無く、眠剤を飲みすぎたわけでもないのに何故?ということで話題になっていたところだったらしい。
私が体験したあれは、夢だったんだ。
そう思いながら、ベッドの中に埋もれた。
眠りこけていたせいで身体を動かすのが難しく、動くのがやっとの状態は正直に言ってとても辛い。
あれは夢だった、その一言で片づけよう。
そう思ってもう一度眠ろうと目を閉じた。
「  」
私の名を呼ぶ声がした。
それは、名前の無いあの人の声だった。
幻聴であることを願いながら薄目を開けた。
やはり、目の前に居るのは血色の悪い、黒目だけのあの人。
「あなたは私に、『行くべき場所に行け』と言ったではありませんか。
こういう意味だったのでしょう?」
私の顔をあの人の手が撫でる。
一度は手を取ろうと思ったあの手で、愛おし気に顔を撫でている。
「私はあなたが死ぬその時まで、こうして傍に居ましょう。
あなたが死んだら、共にあの川の橋を渡りましょうね」
私が死んでもなお、こうして憑いてくるのだ。
どの行き先にも逃げ場は無い。
そんな絶望を抱いた私に微笑むあの人を他所に、私は意識を手放した。
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向き
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#3 愛に至る怪異
初公開日: 2021年07月27日
最終更新日: 2021年07月27日
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コメント
一次創作夢小説です。
オリジナル人外×夢主。
人外からの愛が重い。
いいところまで来たらやめる(予定)