休日。私は外に出ていた。
普段からインドア派の自分にしては珍しく、外に出て過ごしていた。それも自分の家から離れた山の中だ。
山と言うよりは、山の下に広がる森に近い。いわば樹海だ。
休日だからか、この樹海にハイキングで訪れている人も多い。
勿論それなりの服装をして家を出た。自分なりに考えた結果、運動靴やタオル、ペットボトルの飲み物などの必要な物品はとりあえず揃えたのだ。
生半可な気持ちで向かうよりは、きちんと準備が出来ている方が落ち着くことが出来るだろう。
樹海の入り口ではすれ違った人たちと会釈を交わす。
すれ違う人々は皆清々しい顔をしていたり、一緒に来た友人や恋人などと楽し気に会話を繰り広げながら歩いている。
木々の中は燦々と降り注ぐ陽の光を受けて柔らかな光で溢れている。
我ながら、この日を選んで正解だったと思った。
普段から自然に触れることがないものだから、今こうして触れている自然がとても新鮮なものに感じることが出来た。
この樹海の先には、とても綺麗な滝があるらしい。
事前にインターネットで調べた時には、長く時折険しい道のりの先に滝があると記載されていた。
添付されていた写真も、それは美しく目を引くようなものだった。
こうして今すれ違っている人たちは、その綺麗な滝を見て満足して帰っているのだろうと思うと、久しく感じていなかった血の巡るような胸の高鳴りを覚えた。
***
今は樹海の中腹に着いた頃だろうか。
私以外に歩いている人が減ったような、またすれ違う人も減ってきたような気がしている。
相変わらず明るいままの森林の中は心地が良いが、心の端には不安が少しずつ色を見せ始めていた。
休憩がてらに水分補給をした。
いくら木に囲まれて涼しいとはいえ、如何せん動き続けていると喉が渇く。
水分を取り終え、周りを見渡していたその時。
伸びた草と木の間に何かを見つけた。
その何かは石のようにも見え、目を引くような色や形をしているわけでもない。
ほんの少しだけ頭を出している。それだけなのに、その何かから目を離すことが出来なかった。
恐る恐る、人の歩いてきた道から足をずらす。
少しずつ、その何かに近付く。
草を掻き分け、邪魔な木の枝を手で避ける。
歩いてきた道から離れ、いざ目の前に現れた何かは枯れ草と木の葉に埋もれている。
『このまま放置しよう』と考えたが、そう考えることを止めて枯れ草と木の葉に手を伸ばした。
藻のように被った枯れ草を避け、何かに張り付いた木の葉を放って避ける。
自分が動いたおかげで、何かの周りは獣道のように草をなぎ倒した痕ができ、少しずつ周りに余裕が生まれて来ていた。
幾分か何かを綺麗にしていると、ようやく全貌が見えた。
その何かというのは、何故ここにあるのかが分からない石で出来た祠だった。
祠は一部が苔むしており、触ると少し湿っているが綺麗にしたおかげでとても見栄えのいいものになっていた。
石の台座はでこぼことしているが、大きく安定している。捧げ物を置くスペースと、小さな石の塊が見えている。
恐らく、これは大昔にあったものだ。
石に掘られた字は長い年月が経ち、読めない程に崩れている。
ここでこの祠を見つけたのも何かの縁。
そう思って、私は祠の前に供え物をした。
近くに生えていた綺麗で見栄えのいい花と、小さな鈴なりの花。
そして自分の持っていた手つかずのペットボトルの水を台座の窪みに流し込んだ。
もしも自分が飲むとしたら、他人の口がついた水よりも新しいものが欲しいだろう。
そして、私はその祠に『無事に戻れますように』と願った。
この祠に何が宿っているかは分からないけれど、願わないよりは良いと思ったからだ。
自分の起こした行動はよく分からない程に丁寧な物だった。
見知らぬものを見つけて綺麗にし、それのみならず拝んだのだから。
不思議とそれほど嫌な気分にはならず、清々しい気持ちでいっぱいだった。
元の道に戻る時に、祠の方に振り返った。
滝を見に行った帰りに見かけたら、また祠に感謝をして此処を出よう。
そう考えていた。
***
元の道を歩き続けて何分が経っただろうか。
10分以上は経ったような気がしているが、周りの景色が全く変わらない。
滝に近付けば、岩場が多くなったり、水の流れる音がするはず。
水の音どころか、岩の一つも見えない。
元の木々に囲まれた道を延々と歩き続けているように思えた。
それに加えて、樹海の雰囲気が変わったような気がしている。
私が来たばかりの頃の樹海は、陽の光を受けてきらきらと輝いていたはずだった。
今私が歩いているこの場所は、あの輝きがくすんで霧の中を歩いているかのように先が濁って見えないのだ。
水のある場所に近付けばこのような現象は起こるだろうが、何せ景色が何一つ変わらないのだ。
すれ違う人もなく、ずっと一人で歩き続ける。
不安に苛まれ、本来の目的地はほとんど諦めている。
どうにかしてここから抜け出すために、仕方なく踵を返す。
元来た道を辿ると、あの祠が見えた。
私は同じ場所をずっと歩いていたのだろうか?
だとしても、一本道をどうやってぐるぐると巡るのだろうか。
戻るとはいえ、この祠に挨拶をしていかなければならない。
自分が作った獣道に足を運ぶ。
先ほど私が供えた綺麗な花は、水分を失って枯れていた。
祠自体は苔むしている場所があるのに、何故花が枯れているのだろうか。
誰かがする悪戯だとしても、このような凝ったものをわざわざする人がいるのだろうか。
祠の前にしゃがみ、手を合わせる。
早く戻りたい。その一心で拝んでみるが、集中できずにそわそわとしていた。
結局何を願えたのか自分でも分からないが、祠から立ち去ろうと立ち上がった。
その刹那、眩暈のように視界がぐらりと揺れた。
吐き気を伴う眩暈に、祠の前で倒れてしまった。
前を向いても地面が映るばかりで、何一つ見えない。
「何故、何故。
何故、此処から去るのだ?」
男の声だった。
その声は自分の耳元で酷く震えた声で話した。
恐怖心と酷い眩暈に苛まれ、声がした方向に振り向くことが出来ない。
「私に触れたのは、お前だろう?  。
私はお前を見ていたから、全て知っている」
誰かも分からないその人は、私の名前を呼んだ。
ただ一つ、悶え苦しむ中で分かっているのは、その人は私の身体に触れているということ。
私の髪についた枯れ葉を摘んで取り除いたり、腕に付いた草や枝を避けている。
そしてあやすように、その人は私に説く。
「絶対に、此処から逃がしはしない。
憎むのなら私ではなく、あの時私を見つけたお前自身を憎むがいい」
鱗のようにひんやりとした手が、私の頬を撫でる。
愛おし気に、指の腹でそっと撫でる。
「誰、なの、⋯、」
息すらもままならないが、必死にその人に問う。
「私?私は⋯」
何かを話していたが、雑音にかき消されたかのように聞くことが出来なかった。
何人もの人がざわめくような音と、遠く聞こえた人の悲鳴が耳にこびりついていく。
冷えた水が身体に染み込んでいき、このまま地面に埋まっていくような感覚がする中で、相変わらずその人は鼻歌を歌いながら上機嫌に私の顔を撫でていた。
私が意識を手放すのは、此処ではとても容易な事だった。
***
風が身体を撫でていく。
この湿り気のある冷えた風は、恐らく夜風によるもの。
重たい体を起こして起き上がると、自分の周りは既に暗く、薄ら青い空が木と木の隙間に見えるだけ。
そしてあの祠も、気を失う前に見た時となんら変わりは無かった。
あれは悪い夢だったのかもしれない、そう思いながら自分の足で築かれた獣道へ赴く。
数少ない光源に頼りながらフラフラと道を戻る。
しかし、私が辿ってきた道はそこにない。
沢山の人が通っていたあの道は、草の生い茂る樹海の一部になっていた。
かつてそこに在ったものが、一つ一つ消されていく。
樹海の中であれば、虫がいたり鳥の鳴き声や羽根が風を切る音も聞こえるはずだ。
今は何の音もしない。耳が痛くなるほどの静けさが自分を取り囲んでいた。
元に戻る道は既に押し潰され、暗くなっていたが、そこに在る祠だけが暗闇の中でもはっきりと見えていた。
引き寄せられるように、あの祠へと足を運ぶ。
本能が『近付くな』と叫んでいるのに、私の足は止まることなく祠の前に着いた。
戻ろうにも戻れず、ましてやこんな場所で生きていけるのかも分からない。
私は膝から崩れ落ちた。
縋るものもなく、今にも折れてしまいそうな精神になっていくのが、手に取るように分かった。
自分の背後から音がする。
何かを引きずるような、地面にするすると触れて擦れる音。
確実に人の足音ではない。
恐怖心が、私の動きを引き留めてくれた。
俯いて地面を見つめ、見てはいけない何かに関わらないように必死になっていた。
「  。
聞こえているのだろう?」
私に向かって優しく話しかけるその声は、私の周りを回るように音を響かせる。
何かに囲まれているような圧迫感を覚え、地面についている手が震えてきた。
「  。
私の事が分からないか?
そんな筈は無いだろう、お前は賢いのだから」
その声は、私の名前をもう一度呼んだ。
自分の顔の近くで呼ばれ、思わず見上げてしまった。
そこに居たのは、巨大な真っ黒な蛇だった。
石造りの祠が割れてしまうほどに巻き付き、収まりきらない身体が私の周りに波のように蠢いている。
夜の暗闇の中でも一際に黒く、視認できることが不思議なほどだった。
玉のように輝く青色の濁った眼が、私の目を捕らえていた。
「お前は私を労り、私に水を捧げた。
そして私を信じて願った」
喉が張り付き、声を出すことが出来ない。
今から自分は此処で殺されてしまうのだろうか。
「お、お願いします。どうか殺さないで、ください」
必死になって出した命乞いを聞いたその蛇は、首をかしげた。
そして顔を避け、私の首の後ろに冷たい身体を這わせて耳元に口を寄せた。
「殺す気など無い。
私には"伴侶"を甚振り殺す趣味などない」
『伴侶』とは、私のことを指すのだろうか。
だとしても、何故私が蛇の伴侶になる必要があるのだろうか。
生贄のように捧げられたわけでもなく、ただあの祠に触れただけ。
「あの、人違いでは⋯」
「人違い?有り得ない。
私に心を寄せたのは、お前が"ふり"をしただけだったとでも言うのか」
「違います。
でも、上手く言えないけど、此処に来なきゃだめというか⋯、その、引き寄せられた気がしたんです」
首に巻かれた身体が、するすると離れていく。
しかし、私の首から離れただけであって蛇とは向かい合っていた。
「運命には逆らえぬ。
  、お前は私の下へ来る運命に従っただけだ。
そして、私がこうしてお前を娶ることも運命だったのだ」
気が付くと、私と蛇の周りはいつの間にか風景が変わっていた。
樹海に居たはずの私は、赤い花と火の灯された沢山の蝋燭で飾られたあの祠の前に居る。
祭壇のように飾られたこの場所は、火の明かりで徐々に暖かな色を催していく。
私達の周りには、顔の見えない黒い煙のような布を被った人々が囲んでいる。
ただし、その薄い布の奥には人間の顔は無く、大きな穴が開いたように抉れていた。
その人達は蠟燭を手に持ち祝詞を上げている。
見たところは、異質な婚儀の一種のように思えた。
「妻よ、お前は運命に歓迎された。
なんと喜ばしいことだろうか」
蛇は、何よりも嬉しそうに身を震わせた。
今後は『旦那様』とでも呼ばなければならないのだろうか。
そんなことを頭の隅で考えながら、私は手に生えた小さな黒い鱗を眺めた。
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ななし@0ba204
今日も配信あってとてもうれしいです………!昨日の作品も読みました……!最高です……!
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ななし@0ba204
神様や異形にねじ曲げられて手元におかれるのほんとに好きです……!また楽しみにしてます……!失礼しました!ROMに戻ります……!
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#2 愛に至る怪異
初公開日: 2021年07月24日
最終更新日: 2021年07月26日
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コメント
一次創作の夢小説です。
オリジナル人外×夢主。
人外からの愛が重い。
※ほんの少しだけ配信です
#6 蜷局の揺り篭|後日譚
支部でとても人気になっててびっくりしました.... 蛇のお話から進めていきます
魕雄
イセカイサイクロン『074話 夜明けの森』'22.3.11~25
“イチから成長する異世界転移ファンタジー”をモットーに綴っています『イセカイサイクロン ~Earth…
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