リヴァイ・アッカーマンが酒を初めて飲んだのはガキの頃だった。何歳とかいう概念がいまいち薄い世界で、なんとなく手に入れてなんとなく飲んでみたアルコールが最初だったように思う。そもそもあれは本当に酒だったのか。今飲んでいる酒とはあまりに味が違うので、本当は違ったのかもしれない。酸っぱいような腐ったような、よくわからない臭いがしたのだけは強烈に覚えている。
なぜそんなことを思い返しているのかというと、ここがまるで地獄だからだ。救いはない。慈悲もない。清潔な布巾さえない。いや布巾は欲しい。せめて雑巾だ。頼むからテーブルと床の掃除をさせて欲しかった。今まさに、モブリットが噴水のように吹き出している吐瀉物が、初めて飲んだ酒の饐えた臭いと似ていることに気づいてすでに死にたい気分なのだ。
「それでね、彼女が言ったんですよ、嘘つきって。そんなわけないじゃないですか!わ、私より仕事のほうが大事なんでしょって……そんなわけないじゃないですか!ぼ、僕はこれでも誠実に彼女に向き合ってたしあわよくば結婚だってしたかったし新居には小さなお庭で白い犬を飼うって決め……決めて……何でダメだったんだローラ!!」
モブリットが悲壮に叫ぶ。かわいそうだが振られてしまったものはしょうがないだろうに。
「いやでも実際さあ、何がダメってハンジ班なのがダメだったんじゃないの?」
モブリットのゲロをものともせずに平然とナナバが宣う。調査兵団の古参兵ともなれば人のゲロを目の前に酒を飲むなんて朝飯前である。どうしても耐えきれなくなったリヴァイはとうとう戦線離脱した。雑巾とバケツと水を取りに行くためだ。
「なんでさ! モブリットはたしかにとっても献身的に仕事をがんばってくれてるけど、そんな、プライベートを潰してまで付き合えなんて指導はしてないよ」
「あんたそれモブリットの目をちゃんと見て言ってやんなさいよ」
「リーネ、ハンジに言っても無駄。わかってないよこいつ」
「今モブリットと目を合わせると臭いやばいからリヴァイが掃除終わってからでもいい?」
「ほんとあんたそういうとこだからね」
リヴァイは女どもの最低なやりとりを聞きながら、モブリットを今すぐ思いきり泣かせてやりたいと思った。全身をスッキリ洗えて酔い覚ましもできてひとり思いきり泣ける場所が兵舎のどこかにあっただろうか。
「おいハンジ。お前、責任持ってモブリットを表の池に投げ込んでこい」
「えっ」
リヴァイの中ではとっても素敵なアイデアだったのだが、ハンジは何故か戸惑っている。
「いやいくら食堂にゲロぶちまけたとはいえそれだけ飲ませたこっちも悪いからさ……」
「そうだよリヴァイ、そんな怒らなくても……」
「俺は怒ってねえ」
「怒ってないならなんで池に突き落として殺そうとするのさ。サイコパスか?」
「いやいやいや、待つんだみんな。ここは私が解説しようじゃないか」
ワイングラスを片手に、ハンジは足を組んだ。どこからか、「よっ!リヴァイ翻訳機!」という掛け声が聞こえた。おそらくゲルガーだ。あとでシメる。
ハンジはいい気になってウインクなんぞをしている。カッコつけたところでその服にもゲロがちょっぴりついているのであるが、どうやら気にならないようだった。頼むから気にして欲しい。
「リヴァイはこれでもモブリットのことを心配してるんだよ。ほら、リヴァイって自分で班を組むとき以外はよくうちの班に出入りしてるじゃないか。モブリットのことも可愛がってるんだ」
可愛がっているというか、心底同情している。上司が一週間以上風呂に入らずそにへんでぶっ倒れるような女だなんて、最悪だろう。
「だからさ、池でスッキリ汚れを落として、泣きたいだけ泣いても気にならず、酔い覚ましまでできる最高の場所に連れてってやれって言ってるんだよ」
だいたい合ってはいたので、ひとまずそのままにすることにした。それよりもこの場をきれいに清めなくてはならない。
「でもさあ、あの池この前ゲルガーが立ちションしてなかった?」
「前言撤回だ。モブリットはもう部屋に引き上げさせてやれ。ゲルガーは池に落とせ」
リヴァイの命を受けてゲルガーが粛々と外に連れ出される。
「嫌だ!離せ!俺が何したって言うんだ!」「立ちションだよ!!」リーネの心底からのツッコミが炸裂している。モブリットを慰める会はここらでお開きだ。
食堂の窓を全開にすると、どうにかこうにか吐瀉物の臭いはだいぶ薄まってきた。今夜一晩窓を開けておけば、まあどうにかなるはずだ。悪名高い調査兵団の兵舎に忍びこむような盗人もさすがにいないだろう。
結局みんなが騒ぐなか、リヴァイはただ掃除をして終わってしまった。それもこれも、元はと言えば、会が始まった途端に悪ノリをした野郎どもがモブリットの口に酒瓶を突っ込み、女の名前を泣き叫ぶのをみんなで笑っていたのが悪い。
非常にタチの悪い会ではあったが、そうでもしないとみんなやってられなかったのだ。調査兵団の兵士は全員、いつ同じようにパートナーに捨てられても文句は言えない。そういう仕事をしている。
「いやー、おつかれリヴァイ。悪かったね」
いつの間にやら、食堂には掃除を終わらせたリヴァイとハンジのふたりだけになっていた。他の奴らはどさくさに紛れて片付けから逃れようという魂胆だろう。
「お前もな」
モブリットに文句も泣き言も全部吐き出させたのは、結局ハンジだ。直属の部下の悲報をどうにかしてやろうという心算だろうが、ゲロはやりすぎだった。
「……なんかさあ、身につまされるよね」
珍しく、ハンジは机の上に散乱しているジョッキやらグラスやらを流しに集めていく。片付けるつもりがあるのか。
「身につまされる?」
「部下には幸せになってもらいたいじゃないか。幸せの価値観なんて人それぞれだし、私の幸せは結婚ってとこにはないんだけど、モブリットの幸せはそこにあったかもしれないし、もしかしたら私がもう少し手抜きをしていればここまで彼らを追いつめることもなかったかもしれない」
「全部『かもしれない』じゃねえか」
「意味ないと思う?」
「俺に聞くんじゃねえよ」
ハンジはこういうところが、本当にわかっていない。
リヴァイがどうしてハンジ班に入り浸っているのか、『翻訳機』なんて呼ばれてそのままにしておくくらいハンジを側に置くのか。
頭のいい女だ。わかっていてすっとぼけているのなら、こんなに計算高いことはない。
「お前は、色恋沙汰に意味があると思うか?」
意味があると言われたら、どうしてやろう。
押し倒して食い荒らして自分だけの女になるよう仕向けてやろうか。残念ながら優しいやり方はひとつも知らないのだ。
「……さあね。考えたこともないや。でも、リヴァイは上手くできるタイプじゃないだろうね」
うまくかわされた、そう思った。ハンジ・ゾエはこういうところが至極厄介でいけない。
「クソ女め」
「今日はクソメガネじゃないの」
「うるせえよ」
リヴァイはハンジの脂ぎった髪の毛をぐしゃぐしゃにして、後頭部の結び目を引っ掴む。
「いってえ! 何するんだ、この……」
リヴァイは口を大きく開ける。ハンジの顔を乱暴に引き寄せて、鼻の頭に噛みついた。
「あいたたたたたたたマジでちょっとやめて痛い痛い痛えってばうわー!もう!何すんだ!」
うるさい。
唾が飛んでくるのが気持ち悪かったので、リヴァイは口を離す。ハンジの鼻にはびっくりするくらいくっきりとリヴァイの歯形がついていた。
「何!何なの!?私のことまさか食うつもりだった!?鼻なんか美味くないよ!」
「うるせえ。お前はぐだぐだうるせえんだよ。考えすぎだ。女を繋ぎ止められなかったのはあいつの甲斐性がなかっただけだし、それにお前が罪悪感を持つのもお門違いだろうが。アイツを舐めるんじゃねえよ」
自分の鬱屈を叩きつけている気分だ。リヴァイはさすがに、そのくらいの自覚はあった。
「え、それ私の鼻をこんな風にする理由にはなってなくない……?」
やかましい。
ここから先は、何を言われても無視することに決めた。自分のものになってくれない女に優しくしてやる義理はない。これがリヴァイの甲斐性だ。
リヴァイはハンジの頭を放るようにして手を離す。
まったく、これだから頭の回る女は嫌なのだ。
おわり!