0/悪い子誰だ
──目が覚めると、そこは真っ暗闇の中だった。
体を起こそうとして、ようやく手足が身動ぎひとつとれないことに気が付いた。
私はパニックを起こし、唯一動かすことの許された口から甲高い悲鳴のような声を迸らせた。
誰か。誰かいませんか。お願い、助けて。誰か!
大きく息を吸い込むたび、噎せ返るほどの花の香りが肺を満たす。咳き込みながら、私は繰り返し繰り返し助けを呼び、そして祈った。緊張したとき、辛くなったとき、涙が止まらないとき、いつもそうしていたから。
ああ、神様。お願いします。どうか、私を救ってください。
喉が枯れ、掠れた吐息のような声しか出せなくなっても、私は祈りを捧げ続けた。
どのくらい時間が経っただろうか。――カタン、とすぐ近くで音がした。
人だ、すぐそばに人がいる! 神は私を見捨てなかった! 救ってくださるに違いない!
私はすぐさま最後の力を振り絞って、助けてと叫んだ。
ガタ、ガタガタ。
音は次第に大きくなり、私はようやく差し込んだ希望に喜色を隠すことなく口元を綻ばせた。
ぎ、ぎぎ、ぎい。重たい音を立てて、蓋がずらされる――そのとき、私はようやっと自分が長細い箱の中に閉じ込められていることに気が付いた。私が横になってもすっぽり入るくらいの大きさだ。
――ふと、遠い昔、幼い頃参列した葬儀を思い出した。
長細い重厚な箱の中に横たわり、燭台で炎に溶ける蝋よりずっと白い色をして、眠っているような穏やかな微笑をたたえた死に顔。母に促されるがまま手向けた一本の百合。棺の中で花に埋もれた骸。ーーまるで、今の私のような。
瞬間、恐ろしい仮説か頭の中で組み上げられる。
私が今、閉じ込められているこの箱が、棺だとして。まともに息をすることすら困難な、噎せ返るような花の香りが百合のもので、それが棺一杯に敷き詰められているとして。
百合のベッドに横たえられた、手足の自由の効かない私は死体役なのではないか?
「悪い子だぁれ」
ずれた蓋の隙間から、歌うような声がするりと私の耳へ入り込む。ぎぎぎ。蓋は軋んだ音を立てながら、どんどんその隙間を広げている。
「あらあら、眠れなかったんですか? おてんばさん」
「……あ」
ギ、ゴトリ。一際大きな音と共に、完全に蓋が取り払われる。そして――私は、それを見た。息も凍る、悪夢のような光景を。
「こんなに大騒ぎしちゃ駄目でしょう。みんなが起きちゃうますから。ね? シー……」
「ぁ……ああ、あ、ぅ、うそ。うそよ……」
「子守唄でも歌ってあげましょうか? ふふ。Hush-a-bye, baby, on the tree top ……」
綺麗なソプラノの軽やかな歌声と目の前に広がる現実味のまるでない恐ろしい光景、骨の髄まで浸すほど強烈で濃厚な甘い花の香りが混ざって、気が狂いそうだった。
「ふふ……かわいそうに。眠っていれば、何も見なかったのに。本当に残念です――」
そう囁くその声の主を、私は知っていた。こんな悪魔の所業としか思えない惨状を作り上げるような娘ではなかった。私が知るこの娘は、我らが学び舎に相応しく、清廉で明朗で、そして可憐だった。なのになぜ?
「ど――どうして、どうしてなの、ぁ、あなた、こんな、どうして……」
喘ぐように、戦慄く唇から震えた声で吐き出した疑問を、この娘は笑って一蹴した。
「あなたの知る必要のないことです。さあ、目を閉じて。怖いことは何にもありません。貴女はただ綺麗でいるだけです。永遠の美貌――偉大な美しき女王も欲したものが手には入るんです。夢みたいでしょう? 喜んでくださいな、お姉様。貴女にとっても悪い話じゃないはずですよ」
小首を傾げて謳うその娘の手がこちらへ伸びる。体の自由が利いたなら、頭を振り乱して手足を振り回して、暴れて抵抗する余地もあったけれど――私に許された自由は、甲高い声で悲鳴をあげることだけだった。
この娘は私の絶望に満ちた声に眉一つ動かすことなく、微笑みすら浮かべていた。そして、艶のある桜色の爪を備えた白い手をこちらへ伸ばし――私の意識は、ここで途絶えたのだった。
ⅰ/白百合の箱庭
終業の鐘が鳴った後、部活動へ向かう学友達と別れを告げ図書室へ向かうべく校舎を一人歩いていたユウの視界に、唐突に黒い翼がばさりと音を立てて舞った。視界を覆った黒い翼が消えたあと、人ひとり分の幅を空けて、そこには人が立っていた。ディア・クロウリー。ユウの通う学び舎の長で、ユウの事実上の保護者でもある男だ。
クロウリーはいつものように胡散臭さの拭えない笑みを浮かべて、これまた唐突に言い放った。
「アナタ、明日から登校しなくていいですよ」
「…………?」
ユウはこてりと首を横に倒して、視線を明後日の方へ遣った。視線のその先、窓の外の空は雲ひとつなく、抜けるように澄んだ青色をしている。
あ。おそら、きれい。
ぼんやりとそのような思考に走ったユウを見、クロウリーは怪訝そうに片眉を吊り上げた。
「ちょっと、ちゃんと聞いてました?」
「……?」
「あのねえ、『よくわかんなぁい』みたいな顔したって駄目です。いいですか、もう一度言いますからよく聞いて復唱してくださいね。『明日から登校しなくていい』。ハイ復唱!」
「『明日から登校しなくていい』」
「よくできました。わかりましたか?」
「よくわかりました。クビってことですか?」
「どうしてそうなった」
「どう考えても退学宣告じゃないですか。えーん、学園長にクビにされたぁ。追い出されたらどうしよう、先生……トレイン先生に助けてーってあることないことばら撒いてやりますから」
「コラッ! 人聞きの悪い。私を何だと思ってるんですか!」
クロウリーは憤慨した様子を見せながら金のアーマーリングの嵌められた指をピンと撥ねてユウの額を打った。手加減されているとはいえ、金属の鎧を纏った指先はそれなりの痛みをもたらす。ユウは思わず「いった!」と短く叫び、額を押さえてその場にしゃがみ込んで悶絶した。
「人の話は最後まで聞くものですよ。君は本当にそそっかしいですね」
「? これ自分が悪いんですか? 何の説明もなく退学宣告出した学園長に責任はないんですか?」
デコピンから回復し立ち上がったユウが流れるように言い返すと、クロウリーは呆れたように「ハァ〜〜ッまったく!」と大袈裟にため息をついて両手でユウの頬を包むと、みょーんと横に引っ張った。
「生意気なことを言う口はどれですかぁ〜?」
「あ、い、いた、教師のくせに体罰した、教育委員会に通報しま、いっっだ!」
「ああ言えばこう言う! 誰に似たんですかねぇ?」
「あああいひゃいいひゃいごえんらさ、いひゃい!」
「はっはっは、よく伸びる頬ですねえ。愉快愉快! ……ま、いいでしょう」
至極楽しげに笑いながらパッと手をあっさり離し、クロウリーはご機嫌に続けた。
「話の詳細は学園長室でお話しします。ここでは小鼠がどこにいるかわかったものではないのでね。さ、捕まって」
「う、うう……」片手でヒリヒリと引き攣る頬を押さえ、呻きながらユウが服の裾をちょんと握ったのを確認し、クロウリーはトンと杖で床を軽く叩く。靴の底から伝わっていた地面の感覚が消失し、瞬きひとつぶんにも満たないくらいの間、落ちているような浮かんでいるような、何とも言えない眩暈にも似た浮遊感に襲われる。次の瞬間には景色は切り替わり、学園長室の中にユウは立っていた。
「う……」
「おや。転移酔いですかね。まあとにかくお座りなさい」
クロウリーはよろめくユウを難なく片手で支え、ソファへ腰掛けるよう勧めた。ユウが這う這うの体でソファに腰掛け、アームレストに顔を伏せてジッとしている間にローテーブルには紅茶が用意されていた。「飲みなさい」と促されるがままに口を付ける。ほうと一息つくと、対面のソファに足を組んで座っていたクロウリーが口を開いた。
「落ち着きましたか」
「……それなりに」
「よろしい。では本題に入りましょう」
パチン。軽快な音を立てて指を鳴らすと同時にローテーブルの上に薄っぺらい小冊子が現れる。見ろ、ということだろう。「失礼します」と一声かけてユウは冊子を手に取った。
小冊子は入学案内のパンフレットだった。蔦の絡まる煉瓦造りの洒落た校舎を背景に、流れるような筆記体で“Saint Etoile School”と印字されている。パラパラと流し読みしながら中を手早く検める。ワンピースタイプの濃紺の制服を身に纏った少女達の写真、全寮制、立派な淑女となるべく研鑽に励む生徒達、宗教色の濃い独特の校風、カリキュラムと進路、プリマヴェーラと称される特別な姉妹制度。
ユウの故郷でもお目にかかったことのある、典型的なミッション系の女子校によく似た学校だ。
「セントエトワールスクール。古くから『エトワール女学院』、『SES』と呼ばれ広く周知された名門校のひとつです。――貴方にはそこへ向かっていただきたい」
「ええ……?」
あからさまに『めんどくさい』とばかりに顔を顰めたユウに構わず、クロウリーは話を続けた。
「こちらの学校の理事長とは懇意にさせていただいておりましてねえ。どうにもあちらで少々困ったことが起こっているらしく……人を寄越してほしい、とお願いされまして」
「それ自分役に立ちます?」
「何を言うんです。貴方だから頼んでいるんですよ。“猛獣使い”さん」
「……ここを出ていけって言うんじゃないですよね?」
そろそろと怯えた子猫のようにこちらを伺うユウに、クロウリーは大仰に「そぉんなことしませんよ!」と腕を広げてみせた。ユウの強張った顔がふっと解れ、そしてこくりと頷いた。
「それなら、いいです。行きます」
「おや……随分あっさりしていますね。もっと突っぱねられるかと」
「嫌って言っても学園長に財布握られてる限り無駄ですもん。だったら時間のロスのない方がいいです。早く帰ってお夕飯の支度もしたいし」
「素直で結構。では詳しい話をしましょう。こちらのSESですが――ここ1ヶ月で行方不明者が5名出ています。その調査をお願いします」
ユウはぱちぱちと数回程ゆっくり瞬きをしてから、静かに尋ねた。
「……警察案件じゃないですか?」
「本来なら、そうでしょうねえ。でもほら、わかるでしょう? “大人の事情”ですよ。こんな不祥事が表沙汰になったら、厳格な校風を謳うSESの来年度の入学希望者数はどうなってしまうでしょうか。……ね、怖いでしょう?」
「あんまり……。それより大人って汚いなって思いました」
「なんですって! 本当の汚い大人は異世界人の存在なんて放り出して抹消しますが〜?」
「それはまあ、感謝してますけど……本当にそれ、自分に丸投げして大丈夫ですか? 学園長は“猛獣使い”なんておっしゃいますけど、自分は所詮ただの学生ですよ。できることなんてたかだか知れてるんです、あんまり過剰に期待されても困ります」
「それは重々承知ですとも、もちろん。相手方にもそれは伝えてあります。最善を尽くします、と」
「それ絶対全容解明を期待されるやつじゃないですか……」
げんなりしながらユウがそう告げると、クロウリーは「ハハハ」とから笑いをした。
ユウはローテーブルの上にパンフレットを置いて、「それで、いつからSESに行けばいいんです?」と首を傾げた。
クロウリーは紅茶を一口嚥下してから、ニッコリと笑みを浮かべて言った。
「明後日」
「……?」
「明後日に出発していただきます」
「嘘でしょ……」
「嘘じゃありません。大人は必要な嘘しかつきません。なぜだかわかりますか? 答えは単純明快! 疲れるからです」
「今一番疲れてるの自分ですけどね。これに関しては嘘であってほしかったです。なんで大人なのにそんなギリギリのリスケしかできないんですか? 大人ってみんなこうなんですか?」
「いやまあ、それは……いいえ、それも、大人の事情です。ええ」
「…………」
完全に黙り込んだユウを見、クロウリーはコホンとわざとらしく咳払いをして、「ともかく」と声を張った。
「明後日、SESの方へ発っていただきます。事の詳細はあちらで説明されるでしょう。あちらでは建前上、貴方を編入生として扱います。学年末試験も終わって、後はサマーホリデーを待つだけのちょうど良い時期です。のんびり授業でも受けて、放課後にでも調査を進めてくれればよろしい。SESは魔法士養成校であるNRCと違って、一般の子女向けの学校です。魔法史こそあるでしょうが、飛行術はもちろんのこと、錬金術、魔法薬学……魔法の修練を行う科目はカリキュラム上扱いません。貴方はそこで、普通の学生として振る舞ってくれさえすれば、あとは自由にしてくださって構いません。あとは……そうですねえ」
クロウリーの指がふいに、くるりと空中に円を描くように振られる。すると、ローテーブルの上のパンフレットがひとりでパラパラとめくれていき、あるページでピタリと止まった。二人の少女が並んで薔薇のアーチの中を歩く後ろ姿が撮された写真の載ったページだ。
「“プリマヴェーラ”、でしたっけ? 懇意にしている先輩後輩で姉妹関係を結ぶ制度です。これを結ぶのもまた自由です」
「…………」
「貴方の衣食住は相手方に一任していますが、一般の生徒と遜色ない扱いをすると約束してくれています。名門女子校の部屋と食事と授業が提供されるんです。そんなに悪い話でもないでしょう? 君は魔法こそ使えませんが、頭は悪くない。十分にスクールライフを楽しめるはずです。調査に関して多少の便宜を図ってもらえるよう取り計らってくれるでしょうし、君は何の心配もなく行方不明の生徒達について調べてーーサマーホリデーが始まるくらいに戻ってこればいい。それくらいの期間があれば貴方はやり遂げると私は踏んでいます」
「……はい。精一杯、努力します」
俯いて胸のあたりをシャツとネクタイごとぎゅうと握ったユウに何を思ったのか、クロウリーは「グリムくんはこちらで預かっておきますからね」と妙に優しい声で言ったのだった。
◆
出発当日の早朝。荷物を詰め込んだトランクを片手に鏡を潜ったユウを待っていたのは、可憐な少女だった。SESの指定制服を校則通りにキッチリ着用し、明るい赤毛の長い癖毛の髪をターコイズグリーンのリボンでポニーテールに結えている。少女はバチッと開いた大きな釣り目でしっかりユウを見据えると、口を開いた。
「貴方が“ユウ”?」
「はい。えっと、ユウ・ウォーカーです」
「そう。理事長先生から話は聞いてるわ。ようこそ、セントエトワール女学院へ。心から歓迎します。私はルイコリー寮の寮長を務めるスザンナ・キャンベルよ。どうぞよろしく」
「は、はい。よろしくお願いします」
たじろぐユウにスザンナはふふっと笑いをこぼし、「理事長室へ案内しますから、ついてきて」と告げた。
スザンナに先導されて校内を歩く。NRCは中世の城のような外観をしているが、SESは修道院や聖堂に近い外観をしている。そこかしこに見受けられる十字架や母子像が宗教色を濃く表していた。
「あの」
「何?」
「じぶ、……わたし、授業っていつから出ることになりますか?」
スザンナは「そうね……」と目線を斜め右に投げてしばし沈黙したのち、「早くても明日からじゃないかしら」と述べた。
「明日、ですか。わかりました、ありがとうございます」
「気になるの? 不安?」
「はい。その、わたし今まで女子校に通ったことがなくて。女の子だけの学校がどういうところなのか想像がつかないんです」
「ふふ、そんなに気負わないで。みんな優しい子よ。慣れない環境で不安もあるだろうけれど、私も上級生としてできる限りのサポートをするわ。頑張りましょうね」
ニコリと唇の端を持ち上げて、淑やかにスザンナが笑った。
「同じ寮だといいのだけど。貴方の寮割り振りを私も知らないのよ。今日は理事長先生のお願いで貴方を出迎えに来ただけだから……」
「そうだったんですね。ありがとうございます、こんな朝早くに」
「いいのよ。下級生の面倒を見るのが上級生の務めだもの、当たり前のことよ」
NRCでは早々聞くことのない言葉だ。ユウは半笑いになりながら、「素敵ですね」とだけ言った。
スザンナのゆらゆら揺れるポニーテールとターコイズグリーンのリボンを眺めながら、背筋をピンと伸ばして歩く後ろをついていく。平日の校舎内だが、早朝だからか人気はない。五度階段を上り、廊下を歩いたその先、扉の前でスザンナは立ち止まった。百合の意匠の施された観音開きの扉を三度ノックし、口を開く。
「先生。ミスウォーカーをお連れしました」
間を置かずに「お入りなさい」と中から扉越しにくぐもった声がして、スザンナが「失礼いたします」と扉を開けた。
扉の先を見てユウは『どこの学校も偉い人の部屋って変わらないんだなあ』という感想を抱いた。客の応対用のソファやテーブル、奥にドンと置かれた荘厳さを重視したデスク、壁にはスクールの創始者と思しき女性の肖像画が飾られている。NRCの学園長室を思い出す雰囲気が理事長室にはあった。
デスクの向こうに柔和な微笑みを浮かべる女性が座っている。女性は至極穏やかな声でスザンナに声をかけた。
「朝早くからありがとうございます、ミスキャンベル。もう戻っていただいて構いません。今日も貴女に白百合の加護がありますよう」
「はい、ありがとうございます。今日も白百合の名に恥じぬよう励みます」
弾んだ声で返事をしたスザンナはくるりと背を向けると、ユウに短く微笑んでから来た時と同様に背筋を伸ばして、颯爽と去っていった。
にわかに室内に沈黙が落ち、ユウはじっとアルカイックスマイルを浮かべ続ける理事長を見つめた。妙齢の女性だ。胸辺りまでの長さのブロンドの髪を緩く三つ編みにしている。垂れた目尻と眉から優しげな印象を受けるが、同時にそれ以上の表情を伺わせない雰囲気を纏っている。総評するなら“食えない年長者”だ。
「さてーー」トン、と細い指がデスクを叩いた。途端、ユウの背後で扉が静かに閉まり、応接用のテーブルの上にはふんわりと湯気の立つ紅茶が用意される。「ご依頼についてのお話をいたしましょうか。ミス。どうぞおかけになってください」
ユウは形式的に断りを入れてから勧められるままにソファに腰掛け、片手に持ったままだったトランクを足元に置いた。理事長たる女性はデスクから立ち上がり、自らもユウの対面にあるソファに腰掛けた。
「初めまして、ミス。貴女のことはミスタークロウリーから聞きました。私はこの学院の長を務めております、エリザベス・メイフィールドです。まずはここまでご足労いただいたことに感謝を。賢者の島からはるばるお越しくださいまして、誠にありがとうございます」
深々と腰を折ったエリザベスに面食らいながら、ユウはぎこちなく首を振った。
「いえ、そんな……」
「謙遜はいけませんよ、ミス。過度の謙遜は失礼に当たりますしーー感謝の気持ちは受け取られてこそのものですわ。貴女も今日からしばらく我が校の生徒としてお預かりするのですから、はっきり申し上げます。過ぎた謙遜は美徳ではありません。そして感謝と賛辞の言葉を受け取り、我が物としてこそ白百合のごとき淑女に相応しいのです」
「はい」とりあえずの表面だけを取り繕った真面目くさった顔をして、ユウはこくりと頷いた。「肝に銘じておきます」
エリザベスは微笑みをたたえたまま顎を小さく引くように頷いて、「それでは、貴女にお頼みしたい“例の件”についてお話しいたします」と告げると、トン、と人差し指でテーブルの上をつつくように軽く叩いた。すると卓上に校内の地図らしき紙が現れ、理事長が地図をつつくと、今度は地図上に赤い星印が五つ浮き出る。
SESは魔法を扱わない一般の子女向けの学校だが、エリザベスは魔法を使えるらしい。右手の薬指に細く華奢な指には少々不釣り合いにも思える大粒のストーンリングを嵌めている。プリムローズイエローをした楕円形の宝石はオーバルカットを施されており、よく手入れされているのかくすみなく光を弾いている。宝石の埋め込まれたグレーゴールドの台座も同様で、磨き上げられた金に蔦のような紋様が彫り込まれている。おそらく宝石は魔法石だ。魔法石を持ち運ぶ媒体は杖が一般的だが、ネックレスや指輪といった装飾品で代用する者もいる。彼女は後者なのだろう。
「最初は放課後でした。いなくなった生徒の名前はアガサ・オベット。マルタゴン寮生で中等部の2年生です」
エリザベスは地図の真ん中あたりに浮き出た星を指した。校舎のある位置だ。星印の横に小さく1の字が増える。
「夕食に現れない、寮にも帰ってこないとミスオベットのルームメイトが寮監の教師に訴えたことで発覚しました。教員総出で捜索を行いましたが、見つからず……。事実を知るマルタゴンの生徒達には箝口令を敷き、ミスオベットは表向きは病欠という扱いで、容体が芳しくないために教員の寝泊まりする特別塔で看病しているということにしています」
「失礼ですが、その時点で警察には……」
「届けませんでした。この先も警察をこの件に介入させる気はありません」
「……理由をお聞きしてもよろしいですか? その……あとで公権力の手が入って、隠蔽工作を行なっていたことが発覚するほうがまずいと思ったのですが。回答できないのならそれは構いません。気になっただけなので」
おずおずと尋ねるとエリザベスは「構いません」と予想外にあっさりと答えを述べた。
「ここが『エトワール女学院』だからです。それ以上も以下もありません。一度警察を入れてしまえば、それが最後なのです。ましてや、生徒の失踪事件ですから」
「……わかりました。ありがとうございます」
正直なところ、今のエリザベスの回答で警察を介入させたくない理由を理解したとは言い難かったが、もうこれ以上の説明をする気はなさそうだと判断し、切り上げることにした。
「ミスオベットの件に関しては一時的な失踪、学院からの逃走という線も考え、学院外にも範囲を広げて捜索を続けましたが行方を掴むことはできず、敷地内の警備を強化したところで二人目の行方不明者が出ました」
地図上の右端、『百合園』と印字された場所に浮かんだ星を指差す。星印の横に2の字が増える。エリザベスは続けた。
「時刻は昼時。百合の世話をしに昼休みに一人で百合園へ向かったあとから消息が途切れています。直前まで行動を共にしていた同級生が昼休みの終わる頃になっても戻ってこないことを心配し、迎えに行ったところ誰もいなかったことから発覚。生徒の名前はアデライザ・フォーセット。シュードリオ寮生で高等部の1年生です。彼女が失踪したとき、ミスオベットの失踪から1週間と経っていませんでした。ミスオベットの失踪との関連を疑いましたが、ミスオベットとミスフォーセットの間には親交はなく、そして消息を絶った時間と場所が大幅に異なることから、残念ながら関連する証拠を掴むことはできませんでした。そして3人目。失踪した生徒はエスメラルダ・スプリングス。ルイコリー寮の副寮長で、高等部2年生。彼女はここで消息を断ちました」
続いて地図の左端の星印を指さす。ここも『百合園』だ。SESはその敷地を取り囲むように百合園があり、百合園の中に校舎や寮を始めとする施設がバランスよく配置されている形になっている。中高一貫なだけあって、NRCに負けず劣らず広い。通学するにしても調査をするにしても、敷地内で迷子になる可能性は大いにある。あとでこの地図をもらえないか交渉する必要がある。『地図の取得の交渉』と頭の隅にメモを置いて、エリザベスの話を聞き漏らさまいと集中する。
「ミススプリングスがいなくなったのは早朝。寮に飾る百合を切ってくると寮を言って出て行ったっきり戻りませんでした。彼女は品行方正な模範生で……とても逃走を図るような生徒ではありませんでした。彼女が失踪した時点で私達は先の二件の失踪を人為的に起こされたものと見る他なくなりました、残念ながら」
「……」
「ミスオベットの失踪からミススプリングスの失踪までたったの1週間です。私達は警戒を強め、同時に3人の捜索の範囲と警備レベルを大幅に引き上げーー行方不明の生徒はそれでもなお見つかりませんでしたがその甲斐あってか、失踪はピタリと止みました。……1週間前までは」
「また生徒が消え始めたんですね」
「ええ。4人目はララ・シュテック。マルタゴン寮の中等部1年生です。彼女は……ここですね。昼休みにガーデンテラスでお茶会の用意をしているところを目撃されてから、以降の足取りがつかめていません」
地図の右側、百合園に程近い位置に『ガーデンテラス』と印字された囲いの上に4の字が付け足された星印を指す。
ユウは小さく「お茶会……」と呟いた。ハーツラビュルの『なんでもない日のパーティー』を思い出し、あんな感じなのだろうかとぼんやり何度か参加したなんでもない日のパーティーの光景を脳裏に浮かべた。
ユウの呟きを拾ったらしいエリザベスが頷き、「我が校の伝統です。寮主催の大規模なものから、“プリマヴェーラ”の二人だけの小規模なものまで。寮規模にもなると、各寮内で行いますが、それ以外はガーデンテラスの貸し出しを行なっていますので、そこで生徒達は親睦を深めています」と端的に述べた。
「ミスシュテックは、プリマヴェーラの誓いを結んだ高等部の生徒と放課後にお茶会をする約束をしていたようです。その前準備のために昼にガーデンテラスを訪れていたと彼女のルームメイトから確認が取れています。……そして、対策を取る間もなく、5人目の生徒が消えました。ミスシュテックが消えた翌日のことです」
エリザベスの指はガーデンテラスの右斜め上あたり、何もない位置に浮き出た星印を指した。付け足された数字は5。これで最後だ。
「5人目の生徒はエルサ・フェルナンデス。高等部3年生で、アルケリア寮の寮長を務めていました。彼女が消えたのは休日の朝頃です。『少し風に当たってくる』と言って百合園沿いの遊歩道へ向かった後から消息が途絶えました。……ミスフェルナンデスの失踪から1週間近くが経ちましたが、今のところは新たな失踪者は出ていません」
そこまで言い切ると、フーとエリザベスは深くため息をついて額に手を当て、ややあってから「5人」と呟いた。
「この1ヶ月の間に、5人が消えています。……生徒達を誤魔化すのももう限界です。早急に手を打たねばなりません」
「……」
「そのために貴女を呼びました。ミスタークロウリーは貴女の問題解決能力に太鼓判を押していました。期待していますよ、ミス」
「あの」
ユウは眉を顰めて難しい顔をして口を開いた。
「わたしにできることはもちろん精一杯やらせていただきます。ですが、ご期待に添えるかはまた別の話です。がく、……クロウリー氏が何を言って理事長先生にわたしを推薦したかは存じ上げませんが、わたしは魔法の使えないただの学生の一人にすぎません。これは謙遜ではなく事実です」
「……それで? 何を仰りたいのです」
なるほど、とユウは唾を飲みながら納得した。あの学園長と懇意にしているというだけある。クロウリーもそうだが、言葉一つでその場の空気の“重さ”を変えることをなんてことなしに行う。同じことを為す生徒も何人かNRCにいるが、年長者としての経験の差か、感じる威圧が桁違いなのだ。
唇をひと舐めし、「自分はここに仕事をしにきたという認識でいます」と切り出す。
「仕事である以上、成果が必要です。けれどーー申し訳ありませんが、自分には完璧な仕事を、求められている成果を出すだけの力量はありません。だから、失礼を承知で先に申し上げておきます。ーー自分で、大丈夫ですか? もう5人もいなくなっている。事は一刻を争います。一秒たりとも無駄にはできない。その、貴重な時間を“ただの子供”に与えて、任せてよろしいのですか」
一息に言い切ってユウはエリザベスの様子を伺った。もうすでにクロウリーを通して依頼は受諾されている形だ。なのに、成果を確約できないとーー事の大きさを前に、できないと駄々を捏ねていると、仕事を放棄したと捉えられてもおかしくはない。
けれど、言うべきだと思った。警察を極力入れたくないらしいことをクロウリーは言っていた。だからこそ、ユウのような外部の者を調査に使っている。ユウが成果を出せないまま時間が浪費されればされるほど、状況は悪くなる。人命がかかっているのだ。それだけの責任を、ユウ一人では負えない。単純に力不足だ。
さて。嫋やかな雰囲気からはあまり想像できないが怒鳴られるだろうか。『それなら結構です』と解雇宣告をされる可能性も十分にある。鉛のように重たい空気に横腹をシクシクと痛めながら、ユウは頭の中でこの後起こりうるあらゆる展開を考える。まあ元々、ユウが是を唱える前にクロウリーが勝手に持ち帰った依頼だ。このまま手ぶらで帰ったとしても、多少の嫌味や支給金のカットはされるだろうが命まで取られたりしないだろう。素直に謝罪して、「学園長も次から先に一言くださいよ」と言ってしまえば、それで終わりだ。後は、生徒達の監督者である大人達に任せてしまえばいい。
「構いません」
「……え」
エリザベスは苦笑をうっすら浮かべていた。予想していなかった表情にユウはポカンと小さく口を開けて固まった。
「ええ、貴女は貴女自身の仰る通り、“ただの子供”でしょう。ですから、もちろん他にも手を打ってあります。貴女のような子供に全ての責任を放り投げるほど愚かではありませんし、そのあたりのリスクマネジメントはできますよ、私共も大人ですから」
「……はい」
「私から貴女への依頼は主に2つです。これが最低限できていれば、後は構いません」
エリザベスは2本指を立てて、しめやかに続けた。
「一つはこの失踪についての調査。これに関しては教師達に貴女のことを通達して多少の融通を利かせます。生徒のデータについては万一他の生徒の目に触れるといけませんので貸し出すわけにはいきませんが、アポイントをくださればまたここでお見せいたします。依頼そのものは調査が完了するまでになります。ここまではよろしいですか?」
「はい」
「では二つ目ですが、こちらの方が私としては重要ですね。貴女には調査の間、学院の生徒として過ごしていただくことになりますがーー生徒達の噂だとか、空気だとか、その類を操作していただきたいのです」
「そ、操作ですか?」
「ええ。失踪事件は表向きはないことになっています。急な帰省や病欠、怪我、身内の不幸……様々な理由で通学できない状態になっているだけだと生徒達には伝えています。ですが、いくら箝口令を敷こうと生徒達はまだティーンの少女です。火のないところに煙は立ちませんが、火種がそこいらに転がっているような状況に黙っていられない生徒もいます。ある程度はこちらも把握していますがーーやはり噂になっているようなのです。登校しない生徒は失踪したのだとか、駆け落ちしたのだとか……。ですから、貴女には生徒に紛れている間、おしゃべりな生徒にそっと耳打ちすれば良いのです。『ミスオベットは回復しつつあるらしい』とか、その類の話を。教師から生徒に話せば不信感を煽りますが、生徒間なら疑いもなく広まりやすい。ましてや貴女は彼女らと並んでも違和感のないティーンの少女です。貴女を招いたのはそれが一番大きな要因です」
エリザベスは一旦言葉を切ると、にこりと再び底の知れないアルカイックスマイルを上品に浮かべ、わずかに首を傾げた。
「以上が依頼の詳細ですがーーお願いできますね? ミス」
「……はい」
笑顔に威圧を感じながら素直に頷く。こんなに上品かつ穏やかに威圧をかけてくる人は早々お目にかかれないだろうと思いながらーーいや、何人かいたなと思い直す。
筆頭はオクタヴィネルの寮長のアズール・アーシェングロットと、副寮長のジェイド・リーチだ。あの二人は綺麗に微笑みを浮かべながら有無を言わせず“YES”を引き出すことに長けている。
あの二人はエリザベス理事長と似たところがある。特に、ジェイドの方。エリザベスの穏やかさと威圧が同居している笑顔はなんとなくジェイドを彷彿とさせる。まあ、あのひととは仲良くもなんともないのだけど。関わったのは寮長絡みのゴタゴタやモストロ・ラウンジに臨時アルバイトとして入ったときくらいなものだ。
彼の双子の片割れがサマーホリデーに里帰りをすると言っていたのをふと思い出す。SESでも NRCでもあと2週間もしないうちにサマーホリデーに入る。きっと彼も故郷へ帰るのだろう。羨ましいことだ。こっちは帰郷どころか、もはやホリデーに入っても休めないやもしれない。
エリザベスの学院生活についての説明を聞きながら、ユウは2週間後の自分に想いを馳せた。できるだけ早く調査が終わりますように、早く戻れますようにと祈る。休暇中まで仕事は嫌だ。
「ミス? ちゃんと聞いていますか?」
「っき、いてます聞いてます。ごめんなさい」
「……お疲れのようですね。遠路はるばるいらっしゃったのですもの、仕方のないことですわ。今日はもう終わりましょう。貴女を配置した寮まで使いに送らせますので、今日はゆっくりお休みなさってください。明日から通学していただきますが、朝支度は初日は寮長が教えますからご安心ください」
嫌味なのか、そうでないのか。変わらずアルカイックスマイルの浮かんだ顔からは推し測ることはできないが、疲れているのは事実であったので申し出を素直に受け、エリザベスの使い魔らしい黒猫に案内されて、生徒を騒がせないよう裏口からこっそり割り振られた寮へ入りーー部屋にたどり着いた後、まだ日の高い時間にも関わらず、ユウは眠りこけたのだった。
◆
きゃあっとはしゃいだ声を上げて傍らに座る少女がユウの腕に手を絡ませた。
「ねえ“ユマ”。見て、アメリア様よ! 今日も麗しくて素敵だわ……」
「ふへ? ……ごめん、アンジー。今何か言った?」
「もう! 食事ばかりなんだから、“ユマ”は」
憤慨する少女を「ごめんね」と窘めながらユウは皿の上に残った昼食のミートボールにフォークを突き立てた。
ーーユウがこの学院に入ってから、既に三日が経とうとしていた。
通学し始めたのは昨日からなので二日目といった方が適切かもしれないが、ともかく、ユウはうまくエトワール女学院の中に溶け込んでいた。
同じクラスで、今のところ一番親交のある友人であるアンジェラ・フリーマンはエリザベス理事長の望んだ“おしゃべりな生徒”の典型でーーミーハー気質のある子だった。ゆるく波打ったラベンダー色の髪をセルリアンブルーのリボンでサイドの髪を編み込んだハーフアップにしていて、お洒落が好きで社交的な子だ。
ユウという名前はこの世界では馴染みがなく珍しいらしく、変に目立たないようにと音が近い“ユマ”という名を代用している。今のユウは『ユマ・ウォーカー』という訳だ。
「アメリア様はいつ見てもお綺麗で素敵だわ。あれで誰とも“プリマヴェーラの誓い”を立てていないのだから、私と……なんて期待しちゃう」
「そうなの?」
「そうよ! 今のアルケリア生でアメリア様と誓いを立てたくない生徒はいないわっ」
「ふうん……」
「そういうユマはどうなの? 気になるお姉様はいないの?」
「ううん……外部から来て間がないから、正直その憧れにピンとこなくて……」
「ええ? 勿体無いわよぉ。せっかくセントエトワールにいるのだからっ。ルイコリーにも素敵なお姉様がたくさんいらっしゃるでしょう? 寮長のスザンナ様はもう誓いを立ててらっしゃるけれど……」
「そうだね。考えてみる……あ、アメリア様こっち見たかも」
「えっ!? やだ、早く教えてよっ。わかってたら可愛い顔したのに!」
顔をほんのり赤く染めてユウにそう訴えるアンジェラを見、“プリマヴェーラ”と呼ばれるこの学院独自の姉妹制度は生徒達の間でかなり重要視されているらしいことを頭の隅に置く。
「アメリア様は素敵なのだけど、最近もう一人、みんながお誓い申し上げたいって思っている人気のお姉様がいるのよ」
「アルケリアの人?」
「そう。ほら……今、エルサ様がいないでしょう。それで副寮長だったアメリア様が今代理で寮長をしているわけだから、今度は副寮長がいなくなっちゃったのだけど、アメリア様の指名で代理の副寮長をしてるお姉様がとっても素敵なのよ。青い髪が綺麗で、優しくって……あ、あの人よ。アメリア様の横にいらっしゃるお姉様。あの方も誰とも誓いを立てていないの」
アンジェラの指差す方を見ると、プラチナブロンドのウェーブした髪を揺らし歩くアメリアの横に確かに青い髪をシニヨンにまとめた頭ひとつぶん抜きでた長身の生徒が歩いている。ちょうど食堂を出て行くところだったらしく、二人分の後ろ姿が校舎の方へ消えていく。
「……ん?」
「ユマ? どうかしたの?」
「ううん……なんでも。ちょっと、知り合いに似てただけ。でもここにいるはずないから、気のせい……だと思う」
あの後ろ姿と青い髪に、なぜだかジェイドを思い出した。
けれど、あの人は短髪だしーー何よりここは女子校だ。いるはずがない。
自覚がないだけでホームシックにでもなっているのかもしれない。外部との連絡はこの学院ではスマホの所持が禁止されている以上、手紙でしかやり取りはできない。スマホを持ってきてはいるのだが、校内に妨害電波が流されている徹底ぶりなのだ。もはやスマホはただのちょっと便利な薄い板でしかない。
グリムは元気にしているだろうかと今頃授業を受けているであろう相棒を思いながら、ユウは最後のミートボールを口に運んだ。
午後の最初の授業は幾何だった。幸運なことに解法こそ違うが故郷で習ったことのある内容で、隣に座るアンジェラがちらちら気にかけてくれているのに指で小さく丸を作って『大丈夫だよ』と示す。エリザベス理事長から教師陣にユウの存在は通達されており、“一時的に預かっている生徒”として教師の中で扱われているため、基本的に授業中に当てられることはない。試験などもユウに関しては不問とさているので、授業はちゃんと聞いてノートを取って、『きちんと真面目にやっています』というポーズだけ取っていればいい。NRCでも故郷でも真面目に授業を受けるタイプだったのでそれは問題ない。ユウは教壇で話す教師の話を聞きながら、放課後の行動をぼんやり考える。
登校初日はスザンナにあれこれと案内されて調査どころではなかったため、今日の放課後からが調査の時間となる。失踪の目撃者がいない以上、ひとまず現場を確認するべきか。理事長から譲り受けたSES敷地内の地図を頭の中で描く。
SESの敷地を取り囲むように百合園があり、その中に寮や校舎等の施設がある。NRCと違って寮へ繋がる鏡舎というものは存在せず、敷地の中央に位置する校舎とグランドの周りに等間隔に4つの寮が配置されている。SESでは校門を境に右側をウェストサイド、左側をイーストサイドと呼び、地図で見る限りは校舎も寮も線対称に置かれている。行方不明者が出たのは、ウェストサイドの百合園、遊歩道、ガーデンテラスと、イーストサイドの校舎内、百合園だ。もっとも、校舎内で消息を絶ったとされる一人目の行方不明者であるアガサ・オベットは事態の発覚が夜と大分と遅れているため、最後に目撃証言があったイーストサイドの校舎を暫定的に失踪地点と仮定しているだけに過ぎない。さらに言ってしまえば、最後の目撃証言があったのだって朝の登校中の話であるので、いつ消えたのかもはっきりしていない。5人目の失踪者であるエルサ・フェルナンデスも同様だ。午前か、昼か、夕刻か。失踪した生徒達5人中2人は昼時に姿を消しているが、早朝に消えたとはっきりわかっている3人目の失踪者のエスメラルダ・スプリングスの例もある。昼だと決めつけるのは早計だろう。
何はともあれ。学院内の地理に慣れるためにも現場を辿っていくのは悪くないはずだ。授業の終わりを告げる鐘の音を聞きながら、ユウは手早くテキストを学院指定の鞄にしまった。
放課後、いそいそと帰り支度を済ませるユウを見、アンジェラが小首を傾げた。
「あら、ユマ。もう帰っちゃうの?」
「ううん。ちょっと校内を見て回ろうかと思って。アンジーは部活でしょ?」
「今日は活動はないの。少し残って勉強しようかと思ったのだけど……ユマに着いていこうかしら。この学校ってとっても広いから慣れるまで大変でしょう? 私も入学したばかりの頃はよく迷ったわ。ねえ、ナタリー?」
アンジェラの前の席で帰り支度をしていた眼鏡の生徒がネープルスイエローのリボンで一つに結えた髪を揺らして振り返る。ナタリー・ウルツハイマー。シュードリオ寮の生徒で、アンジェラと仲の良い生徒の一人だ。ナタリーは眼鏡の奥のベージュグレイの瞳を細めて「そうね」と頷いた。
「SESに入学した洗礼のようなものよね。私も未だに把握してない建物がいくつかあるし……入ってきたばかりのユマは大変だと思うわ。でも付き添いがアンジーで大丈夫かしら」
「あら、失礼ね! 私だってもうセントエトワール3年目よ。大丈夫に決まってるじゃない」
「ふふっ本当? 不安だから私もユマに付き合いたいところなのだけど……今日はオーケストラ部の活動があるから付き添えないわ。ごめんなさいね」
「いいよ、気にしないで。じ、……私の都合だから。部活がんばってね、ナタリー」
「ありがとう。それじゃあ、また明日ね」
バイオリンケースを片手に教室を出て行くナタリーをアンジェラと見送り、ユウとアンジェラも連れ立って外へ出る。
「どこから見てまわりたいの?」
「ええと……ウェストサイドの百合園から、かな……」
「あら! ウェストサイドなら任せて! 私、詳しいのよ」
「そうなの?」
「だってアルケリア寮があるのはウェストサイドだもの。自然と詳しくなるわ」
校舎を出て真っ直ぐ進めば校門、左はウェストサイド、右はイーストサイドだ。アンジェラがユウの手を引いて意気揚々と左の道へ進む。
SESには寮が4つ存在する。ウェストサイドにアルケリア寮とマルタゴン寮、イーストサイドにルイコリー寮とシュードリオ寮が配置されている。NRCでは闇の鏡が寮を選別するがSESでは生徒の入学試験の結果ーー学力と財力を均等に割り振って配置する。SESは難関校であることで知られており、入学試験である筆記での学力検査は勿論、面接による人物試験、さらには書類による受験生の生家の財力による選考も行われる。学力、人物像、財力ーーその三つの水準の全てをクリアした本物の“良家の子女”のみが入学し、卒業するまでの9年間を百合の花で覆い囲われたこの学院の中で過ごすことを許される。基本的に長期休暇中以外は敷地から出ることは禁じられており、生家からの急を要する連絡が来たとき、もしくは生徒本人が学院内では対応しきれない病を患ったときの2つのパターン以外の外出は認められない。
敷地内でのみの生活。スマートフォンの所持の禁止。電子機器は持っていたとしても妨害電波によってほとんどの年頃の少女が触れているSNSを使うこともない。徹底して外界を排除した教育方針。
そうして厳格な校則のもと育て上げられた“淑女”を輩出することでセントエトワール女学院は成り立ってきた。
ここまで知れば、ユウもクロウリー学園長やエリザベス理事長がなぜ頑なに警察を、公権力を敷地に入れたがらないのか、自ずとわかった。ーーこの事件が世間に晒されてしまえば、文字通り『終わる』のだ。完璧に内部保護にシフトした教育制度に魅力を感じた保護者がセントエトワールへの入学を希望する。そこには安心して手元の娘を預けるに相応しい場所だという期待が根拠にある。今回の連続失踪事件は、その期待と信頼を完膚なきまでに破壊する。警察など呼べるはずもない。今捜査の手を入れず、後で隠蔽が明るみに出ようと結果は同じなのだ。この事件が外へ漏れた瞬間、セントエトワールはその名に再起不能の傷を負い、そして死ぬ。
この考えに至ったとき、学園長は何を考えているのだろうと思った。これほどではないけれど、ユウも同じようにナイトレイブンカレッジの名を傷つける脅威となり得る。異世界人がどれほど珍しいのかはNRCから外をほとんど知らないユウにはわからないが、少なくとも一般的な存在ではないだろう。現時点でクロウリーは異世界人の存在を隠蔽している。さらに言ってしまえば、異世界人の存在だって闇の鏡の誤作動によるものである可能性が高い。入学者を選別する闇の鏡に不良があったとなれば、今までの入学者選考の正当性を疑われることも十分に考えられる。ユウの存在はクロウリーの、引いては伝統ある世界二大魔法学校の一角であるナイトレイブンカレッジの地位を傷つけるかもしれない危険物に近いはずだ。そんなもの、ユウならしまって隠しておく。なのに、クロウリーは手元からユウを放し、外へ出した。何らかの思惑があってのことだろうがーー今はそこを突き詰めて考えるのはよしておく。それを考える以上に大事なことが今ユウの手の内にはあるのだから、今は考えるべきではない。
「ねえユマ、百合園の次はどこへ行くか決めてる? まだお決まりじゃないのなら、ガーデンテラスに行かない?」
「いいね。じ、……わたしもちょうど行きたいなと思ってたの」
「ほんとう? 嬉しい。この間ね、アマンダ――ルームメイトとお茶を淹れる練習をしたのよ。前よりうまくできるようになったからユマにも飲んでほしいわ。感想を聞かせてね」
「……その心は?」
「?」
首を傾げたアンジェラに『あ、やってしまった』と思った。ユウの故郷の言い回しはワンダーランドでは大抵通じない。『それってどこの言葉?』と聞かれてしまえば。ユウの故郷へ対する言及は免れない。NRCを発つ前、クロウリーが口酸っぱく言っていた言葉が蘇る。『アナタが異世界からやってきたこと、そしてカレッジの生徒であることは誰にも――SESの生徒は勿論、あちらの理事長にも言ってはいけませんよ。いいですか、あちらには“賢者の島で暮らす私の知り合いの娘さん”ということでお伝えしています。それ以上の情報を渡してはいけませんからね』。
ユウはううんと唸ってから、言葉を捻り出す。
「ええと……本心は何? ってこと」
「つまり?」
「お姉様に淹れる前の練習をしたいんでしょ」
アンジェラはぱちぱちと垂れ目がちな大きな瞳で瞬きをして、にっこりと笑みを浮かべた。
「ふふ、ばれちゃった。ユマは心を読む魔法を使えるの?」
「わたしは魔法は使えないよ。魔力もからっきしだし」
「私もよ。私のお兄様は魔力を豊富にお持ちだから、私が生まれたときお父様はがっかりしていたらしいわ。でも、ユマったら知り合ってまだ2日なのに本当に魔法でも使えるのかしらってくらい私の思ってることを言い当てるのだもの。お父様やお兄様もこんなに私の思ってることをわかっていないわ、きっと。ねえ、本当に魔法は使っていないの?」
「本当だよ、本当。わたしがアンジーの考えてることがわかるのは、アンジーが素直だからだよ。アンジーのお友達もお姉様も、アンジーのことよくわかってると思うよ、きっと」
「そうかしら……あっ、ここが百合園よ。ちょっとここで待ってて。持ってくるものがあるから」
話している間に百合園についていたらしい。気付けば道沿いに百合が咲き乱れ、周囲を百合に取り囲まれていた。
アンジェラはニコニコと機嫌良さげにユウを置いてどこかへ行った。アンジェラが戻るのを待ちながら、ユウは魔力量まで求められるなんてお嬢様も大変だなと月並みな感想を抱いた。
ユウの所属するルイコリー寮の寮長であるスザンナの実家は歓喜の港で辣腕をふるう貿易商で、卒業後は大学へ進み学問を修める傍ら父の仕事を手伝いゆくゆくは父の仕事を引き継ぐのだとか、同じクラスのナタリーの実家は音楽のプロが集う一族で、ナタリー自身も卒業後はバイオリニストとして世界中を飛び回ることが決まっているらしい。アンジェラも例に漏れず、実家は薔薇の王国で子爵の爵位を与えられた貴族で、卒業後はかねてより懇意にしていた男爵家の長男へ嫁ぐ予定であるらしい。その他にも社長令嬢や貴族・王族の娘やらがごろごろいる。
転入して2日目のユウがここまで知っているのは、お嬢様達特有の挨拶の定型によるものだ。誰もが当たり前のように名前と一緒に実家は何をしているのかを告げるのだ。そして『貴方のお家は何をされていますの?』と尋ねるところまでがセットだ。ユウは表向きは父が賢者の島で学生向けに小売商をしていることになっている。クロウリーが出発前にユウに与えた適当な“設定”は今のところは怪しまれていないーーはずだ。賢者の島自体は辺鄙な田舎だが、何しろそこにはこの世界で名前を知らない者はいないとされる天下の魔法士育成の名門校NRCとRSAがある。商売をする場所としてはおかしな場所ではないのだ。
お嬢様達の性格は個人で様々で、もちろん絵に描いたような高飛車なお姫様然とした者も多少なりともいるが、基本的には温厚だ。“白百合のごとき淑女たれ”という規則に則って行動しているらしい。平和で結構なことだ。揉め事上等のNRCとは大違いだ。
「ユマ! お待たせ。行きましょう」
ジョウロを両手で持ちながら、えっちらおっちらとアンジェラが戻ってきた。ユウよりひとまわり小柄なアンジェラの手に余る大きさのジョウロを抱えたせいか、足取りが危なっかしい。見かねたユウが「代わるよ」とさりげなくジョウロを取り上げると「王子様みたいね、ありがとう」と微笑んだ。
「どういたしまして、お嬢様。どちらにお運びいたしましょう?」
「ふふ。こっちよ。こっちに私が世話をしてる百合があるの。ユマにも見て欲しいわ」
アンジェラの先導で百合園の奥へと進んでいく。咲いている百合は基本的には白だが時折思い出したかのように橙や黄、薄桃が混ざる、SES創立以来ずっと連綿と続いてきた百合園は広く、そして心を洗うような柔らかで静かな空気の満ちる空間だった。上を見上げれば百合園全体を覆うように貼られている天窓から眩しいほどに陽光が差し込む。空気調和設備があるのか暑さは感じず、肌をジワジワと暖める心地よい温度に保たれている。
「ここよ。持ってくれてありがとう、お水をやるから少し時間をちょうだい」
アンジェラが道沿いの花壇の前で立ち止まり、くるりと右足を軸にして振り返った。足元には『Angela・H・Freeman』の花壇の煉瓦に埋め込まれたプレートがある。一定の間隔を置いてプレートがあるところを見るに、生徒一人一人に花壇にスペースが分け与えられるらしい。膨大な生徒数を抱えているのに個人に割り振るだけの面積があるのだから、百合園が広く、西と東にあるのも道理だ。
ユウが手渡したジョウロで水をやりながらアンジェラが柔らかく微笑んで言った。
「この子が私の百合なの」
「毎日お世話してるの?」
「ええ。体調の優れない時はお友達に頼むけれど……私の百合だもの、私以外の手は極力入れたくないわ。だから、風邪をひいたりしないように気を付けているの」
「そうなんだね。アンジー、偉いね」
「ふふふ、ありがとうユマ。それにもうすぐ品評会だもの、気が抜けないわ」
「品評会……?」
ユウがわかりやすく首を傾げると、アンジェラは「そうね、ユマは来たばかりだものね」と心得たように説明した。
「あのね、セントエトワールでは毎年生徒ひとりひとりが百合を育てる決まりがあるの。それで、その育てた百合の中から一番綺麗なものを一本選んで年度末の品評会へ提出するのよ。最も多くの人の心を惹きつけた百合を育てたら、所属している寮に大きな点数が入るの」
「点数って重要なの?」
「勿論! サマーホリデー前にその年一番優秀だった寮が発表されるのよ。各寮に所属する生徒個人の持ち点の合計で一位が決まるの。点数は座学やスポーツで一位をとることでも与えられるし、部活動で優秀な成績を修めても与えられるわ。けれど、品評会で付与される点が一番大きいから皆品評会では負けたくないって思ってるのよ」
「……一位になったら何かあるの?」
「ええ、ええ! 素敵なものが与えられるの。まず一位の寮には次のサマーホリデーまで寮に優勝旗が飾られるのよ。それでね、一位の寮の寮長は“クイーンオブリリィ”の称号が授与されるの」
「それって素敵なものなんだね……? あ、ここの伝統が悪いとかじゃなくて……なんだか、それがみんなの目標っていうのがピンとこなくって」
「そうよね、私も入学した時はそうだったからユマの気持ちはよくわかるわ。でもユマもその光景を見たらきっとわかるわ。“クイーンオブリリィ”の授与式はとっても素敵なのよ!」
「そうなんだね、少し楽しみになってきた、かな。まあ、わたしは百合を育ててないから品評会には出れないけど……」
ユウが苦笑を浮かべると、アンジェラは励ますようにユウの背を撫でた。
「気を落とさないで。来年があるわ、私達はまだ下級生だもの。ねっ?」
「う……ん、そうだね。うん……」
ユウに来年はおそらくない。自然と歯切れも悪くなる。ユウの釈然としない態度にアンジェラは不思議そうな顔をしてから「変なユマ」とくすくす笑った。
「百合のお世話はこのくらいにして、ガーデンテラスに行きましょう。早くユマに私の淹れたお茶を飲んで欲しいわ。この間やっとアマンダにね、『それなりのお味ね』って言ってもらえたのよっ」
「んん……? それ本当に褒められたの?」
やや皮肉のように聞こえて、ユウはアンジェラに手を引かれながら思わず疑問を口に出す。しまった、と思ったが当のアンジェラはきょとんとした顔をしている。アマンダの言葉をそのままの意味だと端から疑っていないから、ユウが呈した疑問の意味もきっとよくわかっていない。
「……? どういうこと?」
「ううん、なんでもない。ガーデンテラスってどっちだっけ?」
アンジェラ本人がそうと信じているのなら、それをあえて壊す必要はない。ユウがさっさと話題を切り替えたがアンジェラは特に変に思わなかったらしく、すらすらとユウの疑問の答えを口にした。
「百合園を出て左手よ。右手に行くと寮へ続く道と遊歩道があるわ」
「アルケリア寮に?」
「ええ、こっちの百合園の出口から近いのはうちの寮よ」
アンジェラに手を引かれ先導されるがままに歩きながら、ふむ、と考え込む。5人目の行方不明者、エルサ・フェルナンデスはアルケリア寮の所属だ。となれば彼女が消息を絶ったとされる遊歩道はこの辺りということか。
休日の朝頃、『少し風に当たってくる』と言って百合園沿いの遊歩道へ向かったのが把握できている限りでは彼女の最後の行動だ。遊歩道がどれくらいの長さで、実際どことどう繋がっているのかも後で調べる必要がある。遊歩道について調べる、と頭の隅に置いておく。
考え込んでいる間にガーデンテラスへ辿りついたらしく、アンジェラがするりと握っていた手を解いた。
「ユマ、好きな席に座って待っててね。すぐ用意して戻るわ」
ニコリと可愛らしく笑うと、アンジェラは近くに見える白い建物へと向かっていった。ふんわりと甘い匂いが香るのでおそらくは厨房だ。
アンジェラの姿が完全に消えるまで見送り、さて、とユウは周囲を見渡した。テーブルセットが厨房を囲むように点在している。厨房に近い方の席は既に上級生が占領している。あまり厨房から遠すぎる席だとアンジェラが大変だろうと、上級生達からテーブルひとつ分開けたテーブルセットを選ぶ。着席して指定鞄からエリザベスから譲り受けた地図を取り出し、すぐに鞄にしまえる位置に構えて開く。今のうちに遊歩道について確認してしまう心算だった。
遊歩道は百合園の出入り口から敷地の外周に沿うように続き、途中で図書館や校舎、そして各寮へと枝分かれする。しかし本筋の道は外周にずっと沿い続け、最終的には逆サイドの百合園の出入り口へ到達する。ウェストサイドの百合園を出て遊歩道を歩き続ければイーストサイドの百合園に辿り着くという訳だ。
地図上に浮かび上がっている五つの星印を眺めて、ユウは思わず深い溜め息を吐いた。
一人目の行方不明者アガサ・オベットは最後の目撃証言からイーストサイドの校舎を暫定的に消失地点と仮定しているだけで彼女が消えた時間と場所はほとんどわかっていないに等しい。そしてここでさらに、五人目の行方不明者エルサ・フェルナンデスの消失地点も曖昧となった。彼女が遊歩道へ向かった姿を見たのが最後――つまりそれ以降、彼女がどこへ向かったかわからないということだ。
この遊歩道は学院内の大体の施設と繋がっているのだから、彼女は遊歩道へ足を踏み入れた後、どこへなりとも行くことができたはずだ。そして、間の悪いことに彼女が寮を出たのは朝方――詳細な時間はわからないが目撃者がいないのを見るに、おそらくはかなりの早朝。しかも休日ときた。部活動で起きていた生徒はいたかもしれないが、そもそもそんな早朝に活動するような部は少数派だ。この学院のお嬢様達は美を重んじ睡眠と食を大切にしているため、早朝や深夜の活動を奨励していない。ならば、その時間外へ出ていたのはエルサだけ、ということも十分にあり得る。
薄々わかってはいたが、この星印は当てにならない。アガサもエルサもどこで消えたのかはっきりしないのだ。星印が示す消失地点はあくまで暫定的なものに過ぎず信用しすぎてはいけないということだけがはっきりとわかっている。このぶんでは他の三人も怪しい。ひとつひとつ当たって確かめていくしかないだろう。
そろそろアンジェラが戻ってきてもいい頃だと地図を鞄へしまって、またハアと溜息を吐くと、小さな笑い声が降ってきた。
「ふふっ、ため息なんてついてどうしちゃったの? 難しい顔をしているわ。課題でわからないところでもあった?」
顔を上げると、ちょうどアンジェラがティーセットを持って来たところだった。トレイから手早くティーセットを並べていく手付きに百合園で見た危なっかしさはなく、成程練習したのだろうなと感じさせるものだった。カタリとユウの前に紅茶が注がれたティーカップが置かれる。その横にはジャムが添えられたスコーンの乗った皿とカトラリーが並んでいる。
「ダージリンのストレートで淹れてみたの。お菓子はスコーンに木苺のジャムよ。召しあがれ」
「うん、いた……もらうね」
『いただきます』と口を滑らせかけて、寸でのところで堪える。『いただきます』や『ごちそうさま』といったユウの故郷の言葉はこの世界では基本的に使われない。『自分』と言いかけることも多いし、これ以上の失言はいけない。しかし身についた口癖や習慣というのは無意識下で行われるため、中々防ぎにくい。
ティーカップを口につけ、小さく一口、こくりと嚥下し――ユウは盛大に咳込んだ。隣の席でじいっとユウの様子を見ていたアンジェラが慌ててユウの背中をさする。
「ゆ、ユマっ? どうしたの?」
「しっ」
「し?」
「渋い……」
「ええっ? そんなことないと思うのだけど……」
「飲んでみて」
ずい、とティーカップを突きつけると、アンジェラは自分で新しいティーカップに同じポッドからお茶を注ぎ、優雅に一口飲んだ。そして眉をハの字にして固まる。
「…………苦いわ」
「……今回は失敗しちゃったね」
「どうしてかしら……?」
「うーん、わたしはあまり紅茶に詳しくなくて。紅茶に詳しい知人ならいるけれど、それだけだからなぁ……」
ユウの『紅茶に詳しい知人』は言わずもがな、ジェイドのことだった。ジェイドの振る舞う紅茶を一度だけ飲んだことがある。ちょうど半年くらい前、ウィンターホリデーでスカラビア寮にオクタヴィネルの幹部三人衆と泊まり込んだとき、偶々相拌に預かったのだ。あまりにも美味しくって、ユウはいつもジェイドの紅茶を口にしているアズールを羨ましく思ったくらいだった。
彼はどうやって淹れていたのだろう。そして、もし彼がここに居たら何とアドバイスしただろうか。善意でアドバイスをするようなひとではないので、ニヤニヤと面白がってみているだけの可能性の方が高いだろうけど。
アンジェラは雨に濡れ捨てられた仔犬のようにしゅんとしていて、落ち込んでいるようだった。ユウはこの悲しげな顔をした友人を慰めるべく、口を開いた。
「ねえアンジー、このお茶――」
「浮かない顔をしていますね、小さな百合さん。どうされましたか?」
ユウの言葉を遮る声が後ろ――正確には、上から降っている。ふわりと漂うマリンの香りが鼻先を掠めた瞬間、ザワっと身体中の皮膚が総毛立つ感覚とほとんど同時にユウは反射的に振り向いた。
「おや、初めてみるお嬢さんですね」
果たしてそこに立っていたのは、背の高い細身の女性だった。ユウの顔をみて、目を僅かに見張っている。青色をした柔らかい長髪をセルリアンブルーのリボンでシニヨンにまとめたそのひとは、ユウにとって友人が囁いた噂話の登場人物で、後ろ姿しか見たことのない知らない人だ。
けれど、日に透ける碧の髪が、一房だけ黒く染まった髪束が、両目で色彩の異なる瞳が、開いた唇の隙間から覗く鋸のように尖った歯が――ありえない事実を如実に示している。
アンジェラがパッと顔を上げて、泣きそうに「紅茶を淹れたのですが、失敗したんです」と声を上げた。「どうしたら上手くできますか? どうかご教授ください、ジェイドお姉様」
◆
真鍮のドアノブを握って回す。ぎいと軋んだ音を立てながら開いた扉の隙間に身を滑り込ませるようにして入室し、後ろ手に扉を閉めて、やっとひと心地つく。
髪を纏めていたターコイズグリーンのリボンの端を引っ張り、アップにしていた髪をほどくと大して長くもない髪が重力に従ってはらりと落ちた。といたリボンを掴んだままわしゃわしゃと髪を片手でかき混ぜながら、机の上に学校指定の鞄をどん、と置く。
細く長く息を吐いて、ジッと片手に握ったままのリボンを眺めて、ユウは小さく吐き出した。
「何であの人が……いやそもそも本当にあの人かどうか……」
ターコイズブルーの髪、切長の目、左右で色彩の異なる瞳。やわらかかつ丁寧な物腰。特徴の全てがジェイド・リーチに当てはまっていた。
けれど、絶対にアンジェラの憧れの件の“ジェイドお姉様”が、ユウのNRCでの先輩のジェイド・リーチであると言い切れない理由があった。
ーー“ジェイドお姉様”とやらは女なのだ、間違いなく。
アンジェラが助けを求め知識を縋った後も、“ジェイド”はずっとユウの背後に立ち続けた。ユウは強ばった顔を隠せないままアンジェラと“ジェイド”のやり取りをじっと聞いていた。
“ジェイド”は実に流暢に紅茶の淹れ方についての手順を話した。アンジェラが何を失敗したのか知るために今度教える、と優しい先輩を装ったようなことも言った。ユウの知るジェイドも同じ行動をとるだろう。そして何より、“ジェイド”の語った紅茶を淹れる手順は、ユウがウィンターホリデー中に目撃したものと一才相違がなかった。
ユウは最悪だと一人顔色を悪くした。このひとは、まず間違いなくジェイド・リーチだ。そして、先程ユウの顔を見て僅かに驚いた様子を見せたにも関わらず、ユウに知られている情報を臆さず、誤魔化すこともせず、そのまま話した。
ーーおそらくは、今、この瞬間も様子を見られている。
俯かないように堪えながら、ユウは頭の中でぐるぐると考えを巡らせた。アンジェラには気づかない程度にさりげなく、ユウには確実にわかる程度に顕著に、ジェイドは視線をユウへ向けている。
ユウが今目の前にしている“ジェイド”が本物かを考えているのと同じく、きっと“ジェイド”も目の前にいるユウが本物かを探っている。
いつかカレッジ内で見た取り立てを行うジェイド・リーチの姿が脳裏に蘇る。地面に這いつくばる“不幸な誰か”を、まるで虫けらを眺めるような視線で見下ろし、足蹴にする。抵抗の意思を見せれば、力でねじ伏せる。道端に転がる邪魔な石ころを歩きざまにコンと蹴ってどかすのと同じくらいの気軽さでジェイドにはそれができる。
生きた心地がしなかった。ジェイドがなぜここにいるのか知る由もないが、ユウが彼の歩く道の石ころにーー目的の障害になるならば、ユウの辿る末路はいつか見たあれと同じだ。何より、ユウは元からジェイド・リーチのことが苦手だった。だから、必要に駆られての関わりしか持ってこなかった。
「なるほど……。そうなのですね。ご教授いただきありがとうございます、お姉様。ぜひまたお話を伺わせていただけると嬉しいですっ」
ユウがぐるぐる考え込んでいる間に話はひと段落したらしく、アンジェラが声を弾ませて礼を述べていた。頬は上気してほんのり赤く染まっている。憧れの“お姉様”と話せたことがとても嬉しかったらしかった。とろりと溶けるような瞳が幸せだと周囲に訴えかけていた。
「ええ、私でよろしければ是非。下級生の面倒を見るのは上級生の務め、ですから礼には及びません。それではそろそろ寮へ戻る時間なのでアンジェラさんはまた後ほど。ああ、そうです、それと」つい、と色彩の異なる瞳がユウへと向けられる。「ーーそちらの見知らぬお嬢さんはどなたですか? ルイコリー寮の方とお見受けしますが、初めてお目にかかった気がします」
喉に何かがつっかえている時のような感覚をおぼえ、声を出すことを難しく感じた。やっと絞り出した声は震えてはいなかったことが唯一の救いだった。ぎゅうと胸元を征服ごと握りしめてユウは答えた。
「ユ……ユマ・ウォーカーです。一昨日から、セントエトワール生として通学させていただいています」
「なるほど? ユマ・ウォーカーさんですね。覚えました、どうもありがとう。私はジェイド。ジェイド・リーチです。アルケリア寮の高等部2年生で、寮長より副寮長代理を務めています」
にこりと綺麗に微笑む顔の輪郭は小さくまろい曲線を描いている。肢体も細くしなやかで、どこから見たって女のものだ。
ユウは心を尽くして、不自然にならないように小さく微笑みを作った。
「はい。よろしくお願い致します。ジェ……ジェイドお姉様」
「ええ。こちらこそ、どうぞよろしくお願い致しますね、小さな百合さん。ここの生活は慣れないことも多いでしょう? 貴方の寮の寮長ーースザンナさんは優秀な方ですから心配はいらないでしょうけれど、困り事があれば、是非、遠慮なく仰ってくださいね」
「ありがとう、ございます」
「ふふふっ……そう緊張なさらないで。貴方の力になりたいんです」
ユウは密かに息を飲んだ。その文言は、彼がユニーク魔法を扱う時よく口にするらしい言い回しそのままだ。
どうにも、試されているようなーー遊ばれているような、そんな感覚が拭えなかった。ユウが知っているに違いない、ジェイド・リーチという個人の情報のカードを目の前にずらりと並べて、にこやかに人畜無害なヒトの皮を被って『これだけ揃っていますが、貴方はどうしますか?』と突きつけられている。
ユウは、目の前に佇む“ジェイド”がジェイド・リーチであることをほとんどーー具体的には9割くらい、確信していた。
「ーー……はい。お心遣い、感謝致します」
そう告げると、“ジェイド”は目を細めてみせた。そして「それではこれで」と制服のワンピースの裾を翻して去っていった。その姿が見えなくなるとほぼ同時に、ぴょんとアンジェラがユウに抱きついた。
「良かったわね、ユマ! ジェイドお姉様に覚えていただけたわ! それに私も次のお約束を取り付ける口実もできたし……もしかして、このまま仲を深めればプリマヴェーラの誓いを立てたりできるかもしれないわっ、素敵ね」
「うん、そうだね……良かったね、アンジー」
「ええ! 待っててね、ユマ。きっと美味しいお茶を淹れてみせるわ。……あら?」
意気揚々と告げた後、アンジェラは小さく首を傾げ、ユウの頬を両手で包み顔を近付けた。流石に驚き、目を見張るユウを他所に、アンジェラは困ったように眉を八の字にした。
「……なんだか顔色が良くないわ。今日は私が連れ回しちゃったから疲れちゃったのかも。ごめんなさいね、ユマ。寮まで送るわ」
「えっ」ユウはぶんぶんと手を振った。「そんなのいいよ。ここからだとルイコリーは反対側にあるし遠いから。そもそもわたしが校内を見て回りたいって言ったのが最初なんだから」
「いいの! だって私がそうしたいから」アンジェラはニコッと笑うと、ユウの手を取って歩き始めた。「さっきはユマが私の王子様になってくれたから、今度は私がユマの王子様になるわ。寮までしっかりお送りさせていただきますわ、お嬢様」
なんか、テキストライブ3万字までしか許されないらしく、さっき書き足そうとしたら『もう書けません!』って怒られたので続きはカットしました
そんでもってもはやこれはアンジーさんとユウさんの百合か? 一体私は何を書いていますか? もう何もわかりません……
ジェイドがやっと出てきたのに話進まなすぎてキレそう 本当にこれジェ監?死にそう
すでにグダってる 誰か代わりに
字数限界らしいのでテキストライブ新しいの作ります。さらば!!