10話 早朝の追い切り
その日は、早朝の空気がいつもより張り詰めていた。
調教用コースを一望できる物見台にいつも通り双眼鏡を構える調教師と記者がいる。
いつも通りの光景であったが、人数が違った。
かの調教師の周りをぐるっと取り囲み、一言も漏らすまいと手帳をかまえている。
そんな折、メリーが物見台に真剣な表情で姿を現した。
一斉に彼女に視線が集まり、歓声があがったが、その表情の硬さに徐々にトーンダウン。
やがて静かになった。メリーの足音だけが響く。
進路上の記者たちはいそいそと道をあける。
メリーは注目の眼差しを浴びながら、それらを一切無視した。
手を振ることもせず、コメントを求められても何も応えず、一目散に最前列でコースを見つめるフジー調教師のもとへ歩んでいく。
「殿下、おはようございます」
調教師からの挨拶にも、おはようとも返さず、コクっとうなずくだけだ。
「お早い時間からご足労感謝します」
「そういうのいいから……どうなの?」
コースでは一頭の鹿毛の馬が単独で走っていた。
目を細めて見つめても、豆粒サイズで良いのか悪いのかわからない。
「先日、疾風(はやて)はソルティー氏騎乗で一度ケイコしていますので、今日は慣らしで、乗った感触を確認してもらうだけです」
メリーは目をこらして見るが、遠すぎて馬が走っている程度しか認識できない。
「よく見えないわね」
その時、メリーの胸元に双眼鏡が差し出された。
「あ、ありがとう」
その差し出された腕をたどっていくと、メリーのよく知った顔、金髪の青年が乗馬服を着て跪いていた。
その顔を確認して、無愛想に双眼鏡だけ受け取った。
「わざとらしいわね」
双眼鏡をのぞき込みながら、メリーは悪態をついた。
レンズの向こうには疾風がコースを機嫌良く走っていた。
鞍の上には乗馬服に身を包んだ姉であるミストがいる。
よくある、優雅に背筋を伸ばして垂直にまたがって、ではない。
腰を折り畳み、馬上の鞍に膝だけで体重を預け、お尻を浮かして丸くなった姿勢。馬と一体化したような本格的な騎乗スタイル。
風を切って走っていた。
姫君が乗っている風には見えない。
ソルティーと遜色ない騎手ぶりだ。
逆にそれはそれでメリーとしてはため息が出る。
芸達者なのはいいが、それはメリーの生き方とは違う。
だが、この際うまくいけばなんでもいいと、開き直るしかない。
「疾風の……調子はどうなの?」
メリーが調教師に問いかける。
「走り事態は好調です。精神的には絶好調でしょう」
いつも走破時計は平凡、走り方も普通、ただ機嫌がいいだけ。
皇女もおり、記者に取り囲まれる中で、無難なコメントを返した。
「気分良く走れば結果は出るってこの前に言ってたわね?」
「馬とはそういうものです」
競馬を知らない皇女からの質問に、単純化した回答をしたのは調教師だが、まわりの記者もうんうんと大げさにうなずいていた。
その記者たちの反応を横目で見ながら、
「そういうものなのね。レースにあたっての課題はあるかしら?」
疾風のことを言っていた。
が、あえて、調教師はリュミエールに視線を向けた。
「……あえていうなら、金獅子の乗り手です」
一瞬、緊張が走った。
半分くらいしか事情を知らない記者たちもいっせいに手帳を構えた。
リュミエールはひざまずいて、頭を下げる。
メリーは口をとがらせていた。
「殿下、うちの調教助手から申し出があるようですが」
調教師が仲裁に入るがごとく、会話を促す。
旧知の仲とはいえ、あえて調教助手という言い方をした。
ロイヤルガードの身分なら、会話に割り込んでもいいかもしれない。
しかし、肩書きで話をされては今のリュミエールは自分から出て行った身だ。
直接会話することさえ、本来は許されない。
取り次いでもらい、許可を得ないと会話すらできない。
「調教助手ね……」
メリーはちらっとリュミエールを視線をうつす。
が、すぐに馬場へ顔を戻す。
メリーの後ろでハラハラして見守る記者たちも、この調教助手が誰であるかを知っている。
ゴシップ紙には記者たちが想像上の展開を痴話喧嘩としてわけのわからない内容が書かれている。
そんな野次馬である記者たちもこの緊張の一瞬に手に汗を握る。
少し間をおいて、メリーは目をつぶっていた。
そのちいさな手を胸に当てて、呼吸を整えて、口をひらいた。
「金獅子の様子は?」
極力感情を込めない言い方だった。
「はい、変わりなく順調です」
リュミエールは冷静に、簡潔に答えた。
「今日の調教のメニューは?」
「はい。格下の馬二頭を先行させ、離れた後ろから追う予定です」
一頭を後ろから追いかけた銀狼、それに対し、金獅子は二頭を追うという。
これには記者がどよめいた。
併せ馬だ、三頭追いだと騒ぐ。
「より実戦に近い強い調教という意味で」
調教師が補足するが、
「誰が乗るの?」
メリーがかぶせてきた。
調教の内容よりも気になることがある。
核心に迫り、一斉に静まった。
「……ねえ、あなたは誰が乗るのが良いと思う?」
まるで見知らぬ人のように、メリーはリュミエールに問う。
少しだけ、肩を震わせていた。
眼差しはしっかりとリュミエールに注がれていた。
ゆっくりと答える。
「私に乗らせていただけませんか。ご期待に応えて見せます」
頭を下げた金髪の騎士の肩に、小さな手が乗った。
今日はここまで。