「ああもう……!なんで私がこんなこと!」
じめっとした夜の空気とアルコールの呼気を搔き分けて、巳波はマンションの廊下を大股で進む。
「ちょっと、自分の足で歩いてくださいって!」
腕に抱えているのは金髪の男。泥酔している男。モデルに相応しい長身が、今は巳波の胸あたりにまで落ちてきて、腕に絡みつくように重さを預けた。
「ろ、くや、さん!」
玄関前。バッグからキーケースを取り出すのも一苦労だ。誕生日にとメンバーがくれたハイブランドのそれはまだ傷ひとつついていなくて、取り出すたびに微量の誇らしさをもたらしてくれる。例えば朝なんかは効果が大きいし、帰宅するときだって疲れていてもなんとなく優しい気持ちになれたりする。ナギだって、昼間にこれを見た時は新しく増えた私物を「いいですね」と褒めて、黒い皮の質感を撫でたりした。それが今や……
チャリン、と鍵がようやく顔を出して、巳波はやっとのことでそれを差し込む。ドアを開けて、右手をめいいっぱい伸ばして電気をつけて。不安定な腰が体勢を崩し、支点にした左手に力を込めたのは優しさだ。男はうぅ、と唸り声をあげて頭を振る。
「早く靴を脱いで。もう少しですから。ほら、」
六弥さん、強めの口調でそう言うと彼はようやくこちらを見た。
「酷い顔」
「棗氏……吐きそうです」
「はぁ?」
*
「初めてあんな不味いものを飲みました……」
さいあくです、と眉間に皺を寄せた彼は、タクシーの窓に頭を擦りつけるようにして目を閉じる。先ほどまで紅潮していた頬は色を失い蒼白だ。先輩、スタッフ、大人達のどんちゃん騒ぎ。今は嘘のように遠ざかり、車内は静かに交通情報だけが流れている。
「酎ハイと言うんです。安酒ですよあんなもの」
そう口にして、母国の彼はもっと芳醇で純度の高い酒を嗜んでいたのかしら?と巳波はそんなことを考える。赤信号が光り、ブレーキがかかる。都内の夜はこんな夜更けでもまだ明るい。
「居酒屋とか、初めてです?」
頬を手で覆うようにして項垂れたナギにそう問う。こんな風に、二人きりでタクシーに乗ることなんか初めてで、空気感が掴めない。彼はどんな人間だっけ。チラ、と隣を窺うけれど、過去に何度も憎しみを抱いたノースメイアの少年は、どこか遠く、おぼろげだった。
「ねぇ、六弥さん」
質問にしっかりとした答えは返ってこなかったけれど、別に良い。巳波はスマホを取り出して溜まった通知をタップした。ブルーライトに緩やかな酔いが、こめかみから結膜へじんと滲みて、自分の身体がまだそれに慣れてないことを知る。でも確かに良い酒ではなかったかもしれない。
「今度、美味しいお酒を飲みに行きましょ」
ナギはふーっと吐き気を堪えるような息遣いを繰り返している。それが可哀想なのに、可笑しくて。だって、あの六弥ナギが。巳波は前を向き少し笑った。タクシーは動き出し、同時にナギが胸のあたりを抑えるように身動ぎをした。
「……棗氏、自宅まではあとどれくらいで?」
パッとこちらを見た顔は、戸惑いと嘔気がない交ぜだった。
「あら」
「……気持ち悪い」
ほんとにほんとにさいあくです。泣きそうな幼稚な日本語が小さく口の端から零れた。飲み会が始まる前、「棗氏が無理に飲まされそうならワタシに合図を送ってくれても構いませんよ」ノースメイアでは飲酒オーケーでした。と耳打ちしながらウインクを飛ばした男はどこへ?
ナギはこの期に及んで訳が分からないといった顔をしている。
「貴方、空腹だったでしょう。そのせいじゃないですか」
巳波が差し出したハンカチが口元に強く押し付けられる。
「今日、ランチは食べれたんです?」
覗き込んだ相手の返事はなかった。
*
「うぅ……、」
トイレの縁を抱えて、ナギは苦しそうに低い声を溢し続ける。さっきからそればっかりだ。
太腿を折り畳み、床に膝をついた格好は三方が壁に塞がれた空間で窮屈そうだった。
「水、飲みます?」
開けっ放しのドアから声をかけると、否定とも肯定ともつかない声が鳴り思わず溜息をつく。
「飲んでください。早く終わらせたいでしょう」
いつまでそうしてるんですか。ほら、とミネラルウォーターを差し出せば目の下の隈を濃くした彼が、疲れ切ったように手を伸ばす。一瞬だけ、それを見つめて、恐る恐る口をつける。トク、と飲み下した後、苦いものでも飲んだかのような表情をする。綺麗な顔が台無しだ。
「大丈夫ですよ。もう一口」
ナギは巳波の言葉に従順だった。初めての悪酔いに思考がはっきりしないのかもしれない。トク、トク、とさっきよりも勢いよく流し込んだ液体。突然、ナギの身体がビクン!として、焦ったように水面へと向き直った。
「げほっ……ッ!、ぇっ、」
背中いっぱいが強張って、力が入る。水分の多い吐瀉物がナギの口から勝手にあふれる。ごえっ、と喉の奥が開くような重たい音。右手の小指がピンと突っ張るように痙攣した。
「ぁ゛……、ッ」
巳波は彼の左手から、そっとペットボトルを取り上げる。白いうなじには、薄っすら汗が滲んでいて、洗面所から取ってきたタオルをそえてやる。
「……ぅ、うぅ……」
はーはーと肩で息をする。それでも吐き気が治まらないのか何度も頭が上下する。胃が押し上げられる感覚と生理的な涙。苦しいだろうな、と思いながら、反対の言葉を口に出す。
「病気で吐くのとは違って、さほど苦しくないでしょう?」
一応背中をさすって薄く笑うと、思ったより広い背中で驚いた。巳波の言葉に、ナギは何も答えない。けれどその背中から、苛ついた感情が伝わった。
「六弥さん、ほんと下手くそですね」
一度吐いたきり、戻すことが出来ずにふーふーと息を吐くだけのナギを見下ろして、思わず感心したような声音になった。今までこんな風になったことなんて、なかったんだろうな。何故だろう。そう思うと少し胸がすく思いがする。
「こういうのは、変な力を入れない方が良いんですよ。思い切って出してしまえばすぐ楽になりますから」
そろそろ頃合いだろう。背後から手を回して、スル、と鳩尾の辺りを撫でるとナギは驚きと恐怖で固まった。水面から顔をあげ、ふいとこちらを振り返る。巳波はその顔にトイレットペーパーを引きちぎり唇の端を拭いてやった。瞳の動揺。こんな状況なのに、二人の顔が近いことにドキドキしていた。
「ほら、吐いちゃってください」
見つめ合う視線を強引に引き裂き、ナギの頭を押しやった。この感情ごと、吐き出して水に流せば良い。温かな腹部に置いた手を、押し込むようにそっと押せば、ナギは低く叫ぶように、どぷ、と中身を吐き出した。咳き込む苦しそうな声の間に、泣き出す寸前のような声が混ざる。ゴク。喉が鳴る。
「はっ…………、」
最後とばかりに吐き出した少量の水分と唾液が、静かに水面に落ちて行った。
「____、」
「……母国語で甘えたってね、此処じゃ誰も助けに来やしないんですよ」
二人の間に沈黙が落ちる。再びこちらを見た彼の充血した青い瞳の奥に、微かな翳りを確かに見た。ごめんなさい、そう言うより先に体が動く。濡れた唇が重なって、なのにナギも巳波も動揺なんてしていなかった。
「私も少し酔ってるのかもしれません」
すみません。やっと引いた水洗レバーが、ナギの吐瀉物を流していく。水面が戻る。この感情は流れて何処かへ行くんだろうか。
狭いトイレに男二人。座り込んだ足首が、気まずさにもぞ、と動く。
完