青臭いクローバーの香りが鼻を突く。仰々しい卒業生用のリボンが風にひらめき、春の日差しを受けてキラキラと光る。見ているものを清々しくさせるような陽気に逆らうように、「人形館」はその陰気さを周囲に振りまいていた。
 一歩足を踏み出すと、ぬかるんだ土が靴を捉える。幼い頃は土の感触すら楽しく、今は亡き祖母相手にけらけらと笑っていたのが懐かしい。錆びついた鍵をポケットの中でそっと握ると、その金属の冷たさが陽気に火照った体をほんの少しだけ冷やした。泥にまみれたクローバーを踏みにじり、洋館の鍵穴に鍵を挿し回す。鍵よりも冷たいドアノブを捻り、埃っぽい空気を思い切り吸い込んだ。
 
 久しぶりに訪れた人形館は、記憶に比べて酷く淀んでいた。碌に手入れもされていない家具や床の老朽化が進んだというのも否定できないが、何より主を失い生気を亡くした、という方が正しいようであった。祖父の作った人形を守るため、夫亡きあとも人形館に住み続けた老婆の声はもう聞こえない。からからと小柄な体でよく笑い、どんなことであろうと楽しく感じさせる力を持つ女性。「死」など自身の辞書に存在しないだろう、それが在りし日の祖母だった。その姿は幼い私にとって、御伽噺に出てくる良い魔女を思わせるものだった。
 そんなことを考えながら屋敷を歩いていると、棚に持っていた鞄がぶつかる。卒業アルバムやら合格証明書、業務連絡用のプリントやらがばらばらと落ち、埃まみれの床に落ちた。汚い床に落ちたものを拾うのは正直気が進まなかったが、どれも家に持ち帰らなければいけない。一つ大きなため息をついて拾い始めた私の頭上から、軽やかな声が降ってきた。
「おいあんた、どうしたんだい?」
 あらかた落とし物を拾い終えた私が上を向くと、声の正体はからりと笑う。栗色の髪に緑の瞳を持ち、中世ヨーロッパ風のドレスを纏う背丈は私より20㎝は低い。まだ季節外れだろうレンゲの花冠が目に鮮やかな、喋り方とは不釣り合いな幼い少女だった。少女は笑顔を浮かべたまま、小さな口を開いた。
「ちょうど暇だったんだ。遊んでくれない?」
「……いやよ。正体も知らない子と、遊びたくない」
 にこりと笑う彼女とは正反対に、私の頭は疑念で埋め尽くされる。少女はなぜこの洋館にいるのか、そもそも少女は何者なのか。しかし反対に、少女がここにいることは当たり前のようにも思えていた。その矛盾を見透かしたように彼女は私の顔を覗きこむと、少し悲しそうな表情を浮かべて私の手を取った。見た目通り柔らかく、それでいてひんやりとした手の感触が汗ばんでいた肌に心地よかった。
「またあたしの勝ちだ。あんた、かくれんぼ下手だな」
「しょうがないでしょ。貴女より私の方が背が高いんだから」
 少女に誘われるまま、私たちはかくれんぼをしていた。鬼と隠れる役を交互にやっていたが、彼女は鬼になれば私をすぐに見つけ、隠れる役になれば絶対に見つけられないだろう場所に隠れる。私の言い分を聞くと、彼女は小さな手をひらひらと振った。
「んー……っていうより、あんた遊ぶの下手だろ。そもそも、体動かすこと自体あんまり得意じゃねえだろ?」
 若干呆れたような少女の言葉に、反論が出来ない。物心ついたころから勉強の日々で、学校では部活動や生徒会、習い事が忙しく遊ぶ暇などほとんどなかった。少女の言う通り体を動かす趣味は殆どなく、半ば決められたように入ったテニス部でも万年球拾いだった。そんな事情も知らず図星をずばずばと突いてくる少女だったが、ふと開いたままの私の鞄に目を移す。先ほど床から拾い上げた合格証明書を見ると、その目元を和らげた。
「ふーん、高校合格したんだ。おめでとう」
「不合格よ。……先生にも友達にも、合わせる顔がないわ」
 合格証書を貰ったのに不合格とはどういうことだ、とでも言いたげに首を傾げる少女から視線を逸らす。第一志望の高校には落ち、合格証書をもらった高校はあくまでも滑り止めだった。貴女なら絶対に受かる、だって学年一番だもの。自分の唯一の誇りががらがらと崩れていくのを目の当たりにした時、体中に冷たい鉛を流し込まれたように感じた。勉強が出来ないなら、私はどうすればいいのだろう。優秀でなくなった私を、周りはどんな目で見るのだろう。考えるだけで息が出来なくなるような苦しさに襲われた。
「楽しいと思ったのか?」
 放り投げるように紡がれた少女の言葉。これまでの文脈に全く即していないことにも気にせず、少女はそのまま言葉を紡いだ。
「合格して、あんたは楽しいと思えたのか?……いや、今の自分のままで楽しいと思えたのか?」
「どういうこと?」
「だから、ここに来たんじゃないか?」
 禅問答のような問いを投げかける少女だったが、揶揄うような気配は全く感じられない。あくまでも彼女なりに、正しいと思える言葉を紡ごうとしているようだった。ここに来た、という言葉の意味を解釈出来ずにいる私を見て、少女は私の手の中にあった人形館の鍵に視線を移す。
「ここにいたあんたは、楽しそうだったよ。今もそうだし、昔も」
 寂しげにそう言って私を見つめる少女は、今までとは違いどこか過去を懐かしむような目をした。その瞳と自分のそれがかち合った瞬間、鍵を持つ手の力が抜ける。床に鍵が落ち、かちゃんという軽やかな音と共に埃が舞った。舞った埃が収まってくるのと同時に、視界を彩る世界が変わっていく。内装こそは相変わらず朽ち果てていたが、そこには生気があった。
「……ごめんなさい。私は貴女を裏切った」
 館の鍵を渡されたとき、祖母が紡いだ言葉。死の直前だった彼女は、からからと私に笑いかけたのだ。あの時よりも朽ち果て、しかしあの時と同じ空気を纏った空間で私は口を開く。
「遊ぼう」
 その言葉が響いたとき、レンゲの花冠を被った人形は確かに微笑んだ。
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