平皿を洗うときは滑らせるように泡を広げて、コップを洗うときは奥の方まで隅々と。昔はこんな知識一切なかったっていうのに、今のおれにはもう常識で、この作業もすっかり手慣れたものとなっている。刃先がこちらを向いている包丁を丁寧によけ、鼻歌を口ずさんだ。
泡まみれの手を温水で流し、タオルで拭く。季節柄、まだ水を使うには勇気がいるぐらいの温度だから、ガス代も気にせず好きに使っているのだ。
冷蔵庫を開けて、野菜室へ目を向けた。中身はないに等しいのだけれど、目当てのそれはちょこんとそこにあった。赤くて、まるくて、少しだけ歪んだ形の林檎。取り出してまな板の上に置く。このまま切ろうかと考えて、少しの期待やなにかで皿を用意する。
そのとき、置いてあったままの包丁の刃先へ、指をなぞらえてしまった。
「……ッ」
声ともつかぬ小さなうめきは半ば反射で出たものだ。縦方向に人差し指を引き裂いた傷口はどくどくと止まらない血を垂れ流す。シンクに流れ出るそれは、しかし少しでも水を流すと色を薄めてなかったことになる。そうやって、見なかったふりもできた。
痛みのろくに感じないそこはどれだけ待っても勢いを止めることなどなくて、諦めたまま血と同じ色の林檎を掴んで、果物ナイフとともにリビングへ向かうことにした。血は、肘をつたい服まで流れる前に落ち、裸足の指先を濡らした程度。
リビングに足を踏み入れると、聴き慣れた、もう何回だって聴いた旋律がかすかに耳をくすぐる。PCから流れるそれをタップひとつで止めたのは、自分で流したくせに、不快感からだ。そうして一番日当たりのいい場所にあるロッキングチェアに跪いて、ほおを撫でた。
「スオ〜、うさぎさんにするな」
林檎を手に取る。西日に透かすとおまえの赤い頭と重なって、少しだけ笑える。なんだかその光景に喉が震えて、鼻歌をひとつ──失敗した。
「だめかー……」
涙が少しだけ滲む。けれど、もうこんなことは慣れきっていた。ほおを伝う滴をそのままにしながら、先ほど流していたモーツァルトを口ずさむ。世界で一番大っ嫌いで、多分世界で一番聞いた。そんな曲を、何度も何度も同じフレーズで繰り返して、視界がぼやけたところで涙を拭う。血で汚れた手では、いっそう見通しが悪くなるだけだったけれど。
時間をかけてひとつ、綺麗なうさぎができる。さっと持ち上げて、うん上出来なんじゃないかな、なんて思ったところで黄色い果実の部分に赤が滲んだのがどうにも気になった。一度皿に置いて、やっぱり手を拭かなきゃと周りに散らばる紙に血痕をなすりつける。あれは昨日かけなかったやつ、あれは一昨日、あっこれなくしたと思ってた、先週のやつ。その中から朱桜の判が押してある契約書を見つけて、判を塗りつぶすように血を吸わせた。『脱退申請書』──その文字さえ見えなくなるように。
うまく赤を消し去ることに成功して、林檎を摘む。おまえの口元へ近づけようとして、まっすぐその顔を見つめた。ひき結んだ桜色の唇、白く陶器のような肌、名前の色より少しだけ暗い毛髪。この世のすべてを、綺麗なものすべてを集めたようなかんばせ。冷や汗がうなじを伝う。綺麗すぎて恐ろしいなんて──人形のようだなんて。
身勝手な考えを打ち消そうと、歌を口ずさんだ。口ずさんで、失敗して、モーツァルトも歌えなくて、失敗して。子供のようなおまえの笑顔を思い出す。
「あるーひ、もりのなか……」
てんででたらめな童謡を、つなげては消して、つなげてはまた消えて、めちゃくちゃなリズムで歌う。歌がなければ、きっとだめだと思ったから。
ふと、目があうことに気づいた。まぶたをあけたスオ〜のむらさきに輝く瞳が、おれ自身とおれの指先を眺める。無感動なそれがやわく微笑んで。おれが持っていた皿から包丁を、刃先を掴むようにして取り上げた。
「ス、スオ〜!!」
慌てて手を掴む。ぎゅうと握られたそれは力の限り刃先を離さない。痛みに顔を少しだけ歪ませたおまえと、目の前に血が滴った。
「スオ〜やめて、いいんだって! おんなじにしなくていいから!」
叫んだところでようやく手のひらの力が弱まり、跳ね除けるように包丁を叩き落とした。カラン、と果物ナイフは床を滑る。早く、早くと焦る気持ちとどうしよう、と心配する心を併せ持ったまま、その手のひらへ唇を寄せる。血を舐めると、鉄臭くて飲めたもんじゃなかった。
「ごめん、ごめんなぁ……。もういいんだよ、もこんなことしたって曲は書けないんだから……」
ほとんど血が止まったおれの指先と、代わりに血を流すスオ〜の手のひら。たくさんの赤が床に散らばる者類をおれの望み通りに汚して、赤い果実すらすべてを同じ色へ染めた。こんなことをしたって、もう白紙の五線紙をねだる必要もない。早くしなきゃいけないのはスオ〜の手当てのほうで、おれの霊感ではないのだから。
スオ〜は、流れ出る血をそのままに目を瞑る。少ししてかすかな寝息を響かせながら、また夢に落ちた。ふたりの合わせた手から落ちる滴が、おれの落とした涙と混ざって色を薄めていく。
染まった林檎をひとつ、口に放った。甘くて、鉄臭くて、みずみずしくて、食べれたもんじゃない。それでも罪や誘惑や、愉悦を表すこの果実は、箱庭の中でゆっくり終わりを迎えるおれたちに、少し贅沢な味だと思った。
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リアルタイムワンライやるよ
企画
初公開日: 2021年05月23日
最終更新日: 2021年05月23日
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企画 開催終了
5/23(日)21:00-22:00 お題「流血」
上記は企画の推奨参加時間です。
企画そのものは当日中であればお好きな時間に開始できます。
5/23 0:00-23:59のうち、お好きなタイミングで参加してください。
制限時間の60分が終わると加筆できなくなります。
(23:00以降に企画を開始した場合、開始した時間から60分間は執筆できます)
テーマの「流血」について、程度や理由等は問いませんが必要に応じて年齢制限・注意書きを忘れずお願いいたします。

開催期間

2021年05月23日 00:00 ~ 2021年05月24日 00:00

制限時間

1時間
レオ司、お題は「流血」です。
あれな感じなのでなんでも大丈夫な人向け
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